第二百三十話
――《竜巫石》。
その単語を聴いた時、稲妻のような衝撃が僕の身体を走り抜けた。
それは、あの恐ろしい惨劇の幕を上げた切っ掛けのひとつに他ならない。
「《竜巫石》が消えた……!? ナンジュ、それは確かですか!?」
「は、はいご主人様。後程家宰様からも改めてご報告があるかと存じますが、間違いなく蔵の中から消失しているとのことでございました」
色めきだつイルテナさんの問い返しに、ナンジュさんは控えめながらもはっきり申告した。
「《竜巫石》? 確か古い時代に《竜始教》の司祭らが竜を祀る為に用いた儀式道具、という話だったか? 眉唾ものの伝承だと思っていたが……」
「ただの伝承じゃないよラセラン。《竜巫石》は実際に竜と交信する道具として使われていたんだ。今じゃもう殆ど見かけなくなったけど、《竜牙の塔》に詰める魔道士達の間じゃ、竜に対抗し得る手段のひとつとして今注目が集まっているんだ。まさかそれを、イルテナちゃんが持っていたとは思わなかったけど」
そう言って、ブリアンは様子を探るようにイルテナさんを見た。
「先程申しましたように、敵が爆破を試みようとしていた貯蔵庫は我が祖先が蒐集した珍品奇貨を保管しておく為のものです。かの《竜巫石》もそのひとつ。マグ・トレドの惨劇が起きてからというもの、もしや何らかの対抗策に繋がるのではと考え、密かに研究していたのです。私も魔道士の端くれ、噂だけは兼ねてより聞き及んでおりましたから」
眉に険しいものを露わにしたイルテナさんは、それでも努めて平静を保とうとしているように見えた。ただ、しきりにあおぐ扇の動きから内心の動揺が浮き彫りになっている。
「あの……!」
僕は控えめながらも手を上げた。全員の注目を一身に浴びて一瞬気後れしそうになったが、それでも確かめなくてはならないと肚に力を込めて続ける。
「《竜巫石》って、あれですよね? 水晶玉みたいな、まん丸の形をしている透き通った赤い石……」
「その通りですわ、“渡り人”殿。貴方がかつて、マグ・トレドで見たものと同種の石です」
あの悪夢の一夜で起きた一部始終はメルエットさんが謁見の場で詳しく語ったが、後日僕の口からも改めて報告している。その中で出た新しい情報が、《竜巫石》にまつわるものだった。
「そう言えば、【棕櫚の翼】が街への攻撃を始める前にそのような話があったらしいですね。石を通じて竜に呼びかけようとしていたとかいないとか……。私は、正直なところあまり気に留めていませんでしたが……」
「メルエットさんはその場に居なかったからね。それに、君の言う通りそれが直接の原因じゃなかったしさ」
あの辺の出来事も僕は彼女に話したことがあるのだが、返ってきたのは『考えすぎよ』という言葉だけだった。一度僕の不甲斐なさを感情的に責め立てたことへの罪悪感からか、和解した後のメルエットさんの気の使い様は少し腫れ物に触るような感じがしたものだ。
丁度良い機会なので、他の皆への説明も兼ねて僕は当時の詳しい経緯を語った。
マグ・トレドの広場で、イーグルアイズ卿やマルヴァスさんと対策を話し合っていた時に突然ジェイデン司祭が現れたこと。彼が持ってきた物こそがまさにその《竜巫石》であったこと。それを通じて、竜が僕を認識したような感覚があったこと。その直後に竜が僕達の前に飛来したこと。そしてそこから、あの惨劇が幕を上げたこと――。
所々要領を得ず、辿々しい説明になってしまったがそれでも皆一切口を挟まずに聴いてくれた。
「開戦の切っ掛けは、マグ・トレドの守備隊長が先に【棕櫚の翼】を攻撃したからだということであったが……」
ラセラン王子が、呻くように重々しく言った。
「直接の原因はそうだったと思います。しかしその直前に、僕は《竜巫石》を通じてあいつの顔を見たんです。“見つけたぞ”なんていう、あいつの言葉みたいなものまで聴こえてきて……」
「それから石が光を発して【棕櫚の翼】を広場まで呼び寄せた、そうですね?」
イルテナさんが、最も気になっているであろう事実を反芻するように訊いてきた。
「はい。やって来た竜にジェイデン司祭が必死に語りかけていたんですけど、そこで竜が大きな咆哮を上げて、焦った守備隊長がバリスタの矢を発射してしまったんです」
「そしてあの惨劇が幕を上げた……」
メルエットさんがぶるりと身体を震わせる。彼女にも、僕にも、未だ癒えない傷だ。そして、今も黙って僕達の話を聴いているであろうサーシャにも。
「話を聴く限り」
と声を上げたブリアンは、珍しく真面目な思案顔になっている。
「《竜巫石》が効力を発揮したのは間違いないね。それでナオルの意識と、【棕櫚の翼】の意識が一時的に繋がったんだ。で、“渡り人”であるナオルの存在を認めた【棕櫚の翼】がマグ・トレドの広場までやって来た。今の話に出てきたジェイデンって司祭じゃなく、ナオルが直接竜に語りかけていたらどうなっていたかな?」
「それ、は……」
答えられず、僕は俯いた。その可能性は、無意識に遠ざけながらも常にどこかしら頭の片隅に漂っていたことだ。もしあの時、僕が矢面に立っていればなんて――
「“もしも”の話をしても詮無いことではありませんか、兄上」
意外にも、ラセラン王子が僕を庇うように取りなしてくれた。
「過去を改めて問うよりも、将来の脅威を未然に防ぐ術を考えなくては」
「いやいや、ボクだって別にナオルを責めてはいないよ。ただね、“渡り人”が竜と意思の疎通が出来るかどうかは極めて重要な要素じゃないかな? この先、万が一にもあの狂える邪竜とボク達が相見えることになった際、切れる手札が増えるってことだからね。違うかい、我が弟よ?」
「むぅ……。そう言われてしまうと、孤にも返す言葉がありません……」
兄に理詰めで帰され、弟は下を向いてしまう。こうした言い合いでは、ブリアンの方にアドバンテージがあるようだった。
「とにかく、今一番の問題は――」
脱線しかけている話を、ゲラルドさんが修正した。
「シー族やオークどもがその《竜巫石》を何故狙ったのか、という点でございましょうな。大量の炸火球が残されてあったことも含め、その辺りを解明することこそ重要と言えましょう」
「団長殿の申された通りですわ」
イルテナさんも深く同意し、続けて見解を述べた。
「現物を奪った後に炸火球を仕掛けていることから考えて、賊共の狙いは《竜巫石》の奪取と撹乱。貯蔵庫そのものを爆破することで、何が奪われたのか有耶無耶にするつもりだったのはまず間違い無いでしょう」
「要は祭りで皆の意識が逸れている隙に事を成そうと企んだ、物騒な押し込み強盗ってことだね」
「誤算としては、殿下や閣下が事件発生に気付くのが早く、目的を十全に達成できなかったというところでしょうか」
イルテナさんの説を支持するように、ブリアンとメルエットさんが言葉を上げる。
「“渡り人”様と、ご一緒に戦われた騎士様のご活躍によって賊の狙いを挫いたといういうことですねっ!」
消沈していたスーリヤさんも復調し、再び高揚したように僕を持ち上げる。つくづく《聖女》という肩書に似合わない、ミーハーなところがある人だ。
「挫いた……のであろうか? オーク十二将の一角を討ち取れたことは確かに称賛に値するが、結局その《竜巫石》とやらは奪われてしまったのだろう?」
ラセラン王子は首を傾げながらナンジュさんに確認した。
「はい……。他のものは無事ですが、それだけが忽然と消えておりました」
第二王子その人直々に問われたからだろうか、ナンジュさんはやや気後れしたように首元を竦めながら答えた。
「もしかして、ヴェイグが最期に言っていたことと関係しているんでしょうか?」
僕は恐る恐るイルテナさんに問いかけると、彼女はさもありなんと頷いた。
「可能性は、極めて高いですわね。無論、あのオークが最後に欺瞞情報を遺したという線もありますが、それでも考慮から外すわけには参りませんわ」
「なんだいなんだい、オーク十二将の隠密担当くんは最期になんて言い遺したんだい?」
興味深げに身を乗り出したブリアンを始め、目で説明を求めてくる皆に僕とイルテナさんはヴェイグの最期の言葉を語った。
「……私達が滅ぶ。そう、言っていたのですか……」
「ただの負け惜しみでは無いだろうな?」
「この公爵邸に押し入りまで仕掛けてきた者の言葉です。世迷い言と切って捨てるのは、いささか危険かと存じます」
「はわわっ! 本当なら大変ですっ! この王都で、何が起ころうとしてるのか早く突き止めないと!」
僕達の話を受けたメルエットさん達が四者四様の反応を示す。ただし、ブリアンだけはしばらく何事かを考えるように顎に手を当てていた。
「滅びの予言、それに《竜巫石》、か……。これらを符号として考えるなら、マグ・トレドで起きたことをこの王都で再現しようとでも言うのかな?」
その言葉は――。
誰に対するでもなく、ただの独り言のようにボソリと呟かれたことだった。
だが、それは正しく魔法のように一同を凍り付かせる十分な力を持っていた。
「……あ、いやいや、あくまでただの想像だよ? 考えが飛躍しすぎているところもあるし、まだ全然断定なんて出来ないって」
氷点下に落ち込んだ空気を察したブリアンがいつものように冗談めかして取り繕うが、そんなもので融けるような衝撃ではない。
「でも、あり得ないとは……言えませんよね?」
皆の内心を代弁するように口にした僕の言葉に、誰もが深く頷いた。
「《竜巫石》が本当に竜と意思を通わす道具であるなら、此度の強盗がそれを使って竜との接触を図る可能性は否定できません。それによってこのフィンディアを襲わせる計画を立てることも、十分にあり得ます」
「奪ったのはシー族。《竜始教》の源流とも言われる種族だ。少なくとも僕らのような人間より、ずっと竜に近い位置に存在しているのは間違いないだろうね」
少なくとも表面上は淡々と意見を交わすイルテナさんとブリアンに向かって、僕は恐る恐る問いかける。
「それじゃあ……僕達は、これからどうするべきだと思いますか?」
「んー、そうだね。フヨウ師や孫娘のミアから詳しい話を訊くのはまず決定事項として、更にもう一歩踏み込んでみたいな」
「と、言うと?」
ブリアンは、例の如く愉悦に染まった笑みを僕に向けて高らかに告げた。
「シー族の本拠地、【竜穴の地バレクタス】に乗り込むのさ!」