第二百二十七話
「シャープ・オーク族の筆頭にしてオーク十二将の一角、“眩刃のヴェイグ”。まさか、このような大物が引っ掛かるとは意外でした」
くるくると巻いた髪を優雅に掻き上げ、イルテナさんは無造作に気絶しているヴェイグへと目をやりながら僕の方へ歩み寄ってきた。手を伸ばせば届くくらいの距離まで近づいた時、おもむろに足を止めてこちらへ顔を戻す。
「な、なんです?」
間近でしげしげと眺めてくる視線に気後れしながら僕は尋ねた。美しい顔を飾る真珠のような目が真っ直ぐこちらに注がれている。イルテナさんの肌は白い、白すぎると言っても良いくらいだ。勿論化粧による効果もあるのだろうが、きっとそれだけじゃない。白磁のようなとでも言えば良いのか、過剰なまでの白さを誇る血色の薄い肌を見ると、彼女はもしかしたら吸血鬼か何かじゃないのか……とつい失礼な想像が働きそうになる。不安な面持ちで相対している僕に失望したのだろうか、イルテナさんは僅かに肩を竦め、呆れたような感心したようなどちらともつかない調子で言った。
「【蛇竜殺し】にしては、やはり些か頼り無さそうに見えますわね。もっとも、今またこうして強敵を排したのですから、その実力には疑いの余地がありませんが」
「あの……その【蛇竜殺し】って何ですか?」
確かヴェイグもさっきそんなことを言っていた気がする。何とも仰々しい響きで中二心をくすぐられるが、まさか……?
パチンと扇子を閉じ、イルテナさんが口元を露わにする。真紅の口紅が綺麗に引かれた彼女の薄い唇は、悪戯を仕掛ける子供のように端が吊り上がっていた。
「貴方のことに決まっておりますでしょう? ネルニアーク山のワームを斃した武勇伝は、既に都の間でかまびすしく語り継がれておりますわ」
「ええっ!?」
いつの間にそんなことになっていたんだ? 《竜牙の塔》に籠もっていた所為もあるのだろうが、世間の噂というものにまるで疎い自分に気付いて僕はげんなりした。
「あの……決して僕ひとりの力で勝ったわけじゃ無いんですよ?」
「実態はどうあれ、貴方はワームを斃した英雄という得難い評価を得たのです。噂の否定に躍起になるより、この世評をどう活用するか考えていくのが賢明ではなくて?」
僕の抗議など端から興味が無さそうにイルテナさんはしれっと言った。それからローリスさんの方を見て、彼の治療に当たっているゴブリン達に声を掛ける。
「そちらの騎士殿の容態はどう?」
「思ったより毒の回りが遅うございます。ご本人様の体力が優れておられるお陰か、脈もまだしっかりとしておりますゆえ問題はございませぬかと。“水精の涙”を打たせていただきとうございますが、よろしいでしょうか?」
控えめながらも明朗に答えたのはさっきナンジュと名乗ったゴブリンだ。イルテナさんは頷き、彼に向かってその華奢な手を差し伸べた。かざされた指の上で、サファイアのような蒼い宝石が光っている。
「構いません、薬液をお貸しなさい」
ナンジュは側に置いてあった救急箱と思しき箱の中からおもむろに瓶をひとつ取り出し、蓋を開けて両手で捧げるように持った。恭しく差し出されたそれに白く透き通った指を近付けたイルテナさんは、真紅に彩られた形の良い唇を開いて厳かに言った。
「我が声に応えよ、ケルピー」
途端に、かざされた手から眩い光が生まれた。光の発生源は、どうやら彼女が指に嵌めていた指輪のようだ。サファイア(?)から生まれた蒼い光は、自然の法則に背いて近くにあった噴水の水に吸い込まれるように溶けてゆく。
するとたちまち水に変化が起こった。
蒼い光を纏った水が、ひとりでに泉から立ち上って空中に集まる。いくつもの尾を描きながら徐々に膨らんでゆく巨大な水玉は、やがて粘土のように形を変えてひとつの造形を象った。馬の頭と前脚を持つ前半身と、魚の尾ひれがついた後半身。さしずめそれは、馬と魚の融合生物。
「これが、ケルピー……!」
このパーティに来る前、ブリアンから教えられたブルーナボーナ家の家紋に使われている上位精霊。それがこうして、水を介した姿で僕の前に出現している。
水で出来た実体を得たケルピーは、微睡みから醒めたように首を持ち上げて数度のまばたきを繰り返した。ピスピスと鼻を鳴らして見せる仕草も相まって、まるで生身の生命体であるかのようなリアルさがある。
『すごぉーい……! 水の身体、ああいうのも良いかも……!』
サーシャが羨ましそうな声を出す。格や司る属性は違うものの、同じ精霊としてケルピーに何か感じるところがあるのかも知れない。
「ブルーナボーナ家当代の主として汝に命じます。この薬液に、癒やしの雫を授けたまへ」
ナンジュの手から薬瓶を取り上げたイルテナさんが、それを両手で掲げてケルピーに差し向けた。ガラスで造られたと思われる薬瓶は薄く透き通っており、中の薬液が揺れる様が僕にも見える。
命令を承けたケルピーは、引き寄せられるように薬瓶へと身体を近づける。大地に生えた草を食むかのように首を伸ばしたケルピーの両目から、透明な水の雫がポタポタと溢れた。まるで涙のように流れ落ちる水滴は、ケルピーの身体を離れた途端に光を帯び、開け放たれた薬瓶の口に吸い込まれるように入ってゆく。光る雫を呑み込んだ中の薬液が、化学反応を起こしたかのようにこれまた綺麗な蒼い光を纏った。
「ご苦労さま、ありがとう」
役目を終えて泉へと還ってゆくケルピーに軽くお礼を言い、イルテナさんは蒼い光の薬瓶をナンジュへ返す。
「これを騎士殿に飲ませなさい。少しずつ、ゆっくりとやるのですよ」
「承知致しております、後はお任せ下さいませ」
丁寧な仕草で薬瓶を受け取ったナンジュを一瞥すると、イルテナさんは再び僕の方へと向き直った。
「ナオル殿、事の次第についてお話を伺いましょう」
「あ、はい!」
今しがた目にした神秘的な光景に心奪われていた僕は、真剣さを強めたイルテナさんの声で我に返った。そして求められるがまま、彼女に中庭で別れて以降の行動をつぶさに説明した。
「なるほど、狼の獣人ですか。恐らくはシー族の一員、“クー・シー”に属するウルフ支族の者でしょう。オークと共に行動していたことから、話に聴くカリガ領のヨルガンとか申す者の仲間である可能性が高い」
「ヴェイグに邪魔されたこともあり、彼の方は見失ってしまいました。申し訳ありません……」
眉根を寄せながら気絶したヴェイグを見下ろしているイルテナさんの横顔に僕は謝ったが、彼女はゆっくりと首を振った。
「謝罪は必要ありません。《往蘇節》に乗じて良からぬことを企む者達が居るであろうことは予想していたのに、十全な対策を用意出来なかったのは私です。結果として後手に回り、貴方達の手を煩わせました。当家の主として、深くお詫びいたしますわ」
僕は違和感を覚えた。字面の上ではしおらしいことを言っているのだが、イルテナさんはまるで予め練習してきたようにすらすらと淀みなくそのセリフを口にしたのだ。感情の乗らない、ニュースキャスターが口にするような言葉。これはなんだろうか?
「館の封鎖については、現在我が配下の者達の他にラセラン殿下と彼の麾下たるドル・ドナ騎士団が当たってくれておりますわ。時間から考えて、貴方達がヴェイグと接敵した頃にはもう全ての出入り口は抑えられていたでしょう。その狼の獣人が見つかったという報告こそまだありませんが、何処へ隠れようと逃しはしません。炙り出され、捕らえられるのも時間の問題です」
「あの、イルテナさんは何故此処に? 見たところおひとりのようですし、危ないのでは?」
「あら、心配して下さいますの? ふふ、でも大丈夫ですわよ。この庭は完全な私の支配下にある場所。不届き者がどれ程の者であろうと、この中では私の独壇場です」
それからちらりと、ローリスさんの治療に勤しんでいるゴブリン達を見やる。
「我が庭師達は優秀ですから」
「それは、この噴水を含む中庭一帯を常に守っているから、ですか?」
僕はイルテナさんの視線を追うようにゴブリン達に目を向けた。テキパキとローリスさんを介抱する動きからは、一切の無駄というものが感じられない。一番最初こそオドオドした様子を見せていたが、今の彼らにはなんというか……毅然とした、いわば誇りのようなものがあるように思える。
そこが、コバとの確実な違いだった。
「あら、察しがよろしいですのね。賢い殿方は素敵ですわよ」
扇子を口元に当てて、イルテナさんが鈴のなるような声で笑う。
「ケルピーを家紋に使っている、イルテナさんも魔道士だ、と予めブリアンから教えられていましたが、まさかケルピーそのものを使役出来るなんて思いませんでしたよ」
「ヴェイグを捕えて下さったご褒美です。特別にお見せしましたのよ、貴方だけに……ね?」
意味深な流し目でウィンクをしてくるイルテナさんに、心躍るものを感じ無かったとは言わない。美人だし。けれどもそれ以上に、この今ひとつ心の底が見えてこない女公爵に対する警戒感の方が強かった。
「当家は代々ケルピーと主従の契りを結ぶ間柄なのです。強大な力を秘めた上位精霊を扱う危険性への注意喚起は家訓として残されている程ですが、極めて有用な存在であるだけに祖先も皆この道を通ってきましたのよ」
「その力で、ローリスさんの毒も?」
「ええ、ケルピーの涙は妙薬の素材。先程の薬を混ぜ合わせることで、既成の品とは比べ物にならない治療薬を調合出来ますの」
そこまで話した後、イルテナさんは不意に倒れているヴェイグの方へ顔を向けた。
「よろしければ貴方も治して差し上げましょうか、シャープ・オークの元締め殿」
「えっ……!?」
僕は一瞬、彼女が何を言ってるか分からなかった。ヴェイグは今も白目を剥き(元からだが)、微動だにせず完全に沈黙している。どう見てもまだ気を失っているようにしか見えない。だが……
「……気付かれていたか。このまま隙を窺い、あわよくば脱出しようと思っていたんだがな」
そんな僕の甘い観測をあっさりと覆し、のそりと顎を引いて表情に生気を取り戻したヴェイグが不敵に笑った。