第二百二十六話
戦闘の音が止み、潮が引くように辺りに静けさが戻ってきた。噴水から流れる水の音だけが唯一の音源として機能する中、呼吸を忘れたように僕は立ち尽くす。やがて魔法で生み出した白い霧も大気に溶け込むように掻き消え、視界が明瞭になってくる。
再び差し込んだ星明かりによって照らされた石畳には、折り重なるように倒れ込んだローリスさんとヴェイグの姿があった。
「ローリスさん!」
僕は急いで駆け寄り、ヴェイグからローリスさんを引き離そうと試みる。僕より遥かに体格に優れた彼を動かすのは一苦労だったが、ローリスさんの方が上になっていたこともあってどうにか引きずるように移動させることには成功した。
少し離れた先でローリスさんの身体を横たえた時、呻くような声を発して彼の目蓋がゆっくりと持ち上がった。
「ナ……オル……」
「ローリスさん、大丈夫ですか!?」
大丈夫なものかよ、と心の中で自分に冷眼を向けつつも僕は言わずにはいられなかった。ローリスさんの胸元には、ヴェイグによって打ち込まれた斧が深々と突き刺さっている。どう見ても致命傷だ。
それでも、彼の意識がまだ僅かに残っていることに希望を見出そうとした。急いで適切な処置が出来れば、まだ助かるかも知れない!
「気をしっかり持って下さい! 僕が、僕がなんとしてでも助けますから!」
「ああ……。どうってこた、ねェよ……!」
「えっ!?」
顔色が悪く、声にも苦しそうな響きがあるものの、ローリスさんはニヤリと口の端を歪めて笑って見せる。死を覚悟しての笑みじゃない、何処か余裕すら感じさせるその表情に面食らっていると、ローリスさんはヴェイグの斧が突き立っている辺りに手を持っていき服の内側に差し入れる。そしてゴソゴソと胸元を漁り、手のひら大の黒い板のようなものを取り出した。
「コイツに、助けられた。お嬢様のお陰だな」
「それは……イーグルアイズ家の印章!?」
鷲のレリーフが彫られた、信頼する騎士に送る委任の証。メルエットさんがローリスさんへ託したその黒耀のメダルは、中央の鷲の身体を両断するかのように大きな切れ込みが入っている。最後の力を振り絞って放たれたヴェイグの斧の一撃を、ローリスさんに代わってこのメダルが引き受けてくれたのだ。
「ああ、ちくしょう……! 折角お嬢様から預かったのに、すっかり傷物にしちまった……! どう謝りゃ良いんだっつの……」
嬉しそうな、悔しそうな、両方入り混じった複雑な笑みを浮かべてローリスさんがメダルを指でなぞる。物言わぬ黒耀の鷲は、指の動きに応える代わりに星明かりを浴びてきらきらと輝いた。それはまるで、持ち主の生命を護れたことを誇っているかのように見えた。
「おい、俺のことよりアイツはどうした?」
「あっ……!」
ローリスさんに促され、僕は急いで倒れているヴェイグを見た。完全に沈黙しており、先程から寸分も動いていない。うつ伏せに倒れた石畳の上には、少量とはいえ血溜まりが出来ている。死んでしまったのだろうか?
「確かに、俺の剣はアイツを捉えた。だが急所は外してある。手応えからして死んじゃいねェと思うが……」
『ローリスの言う通りだね。まだアイツには微かに息がある、気を失っているだけみたい』
サーシャがローリスさんの推測を肯定する。相変わらず姿は見えないけど、どうやら僕に先駆けてヴェイグの様子を確認してくれたらしい。
「一応、動けないようにしておくかな」
僕は《石法執使》の魔法で石畳を動かし、どさどさと伸びているヴェイグの上に積み重ねた。魔力を帯びた石畳は粘性を帯び、ヴェイグを包み込むような形でその場に拘束する。
柔軟に湾曲した石畳がヴェイグを地面に縫い付けている様を見て、まるで餃子みたいだなという感想がちらりと頭をよぎった。
重さで圧迫され過ぎることのないよう細微な調整を施してあるので、これで窒息することはまず無いだろう。先程の彼の部下達が歯の間に仕込んだ毒で自害したことを考えれば口の中にも石を詰め込みたかったが、逆にそれが切っ掛けで毒が流出しても困るし、そっちは下手をすれば窒息してしまう危険性もあったので止む無くそれは断念した。誰か駆け付けてくれるまでヴェイグが目を覚まさないでくれと願うばかりだ。
「へっ、お似合いのザマだな。……ぐぅっ!」
砂浜で砂の山に埋められた人よろしく石畳製餃子と化したヴェイグを見て、ローリスさんが悪態をつく。しかしそれもすぐに苦悶の表情に取って代わられる。斧による攻撃はメダルのお陰で免れても、それ以前に受けた毒は今も着々と彼を蝕んでいるのだ。
「早く毒を抜かないと……! ローリスさん、立てますか?」
「いや……俺のこたァ良い。それよりもテメェがひとっ走りして誰か呼んでこいよ。その方がよっぽど早ェ」
「でも……!」
此処にローリスさんひとりを残していくことに、僕は不安を覚えた。ヴェイグは捕まえたものの部下の方は他にもまだ居るかも知れないし、あの狼男が此処へ現れないとも限らない。もし敵の新手が登場したら、今のローリスさんでは太刀打ちできまい。
「迷うな! 何度も言ってるだろ、俺のことには構うなって!」
「そうはいきませんって。貴方に死なれたら、メルエットさんに顔向け出来なくなります」
「お嬢様だって俺と同じことを言うぜ!」
「…………」
そうかも知れない。少なくとも、今この場ではローリスさんの方が合理的なことを言っている気がする。反発して、まごついてモタモタしている間にも時間は進む。此処で時間を浪費するより、動ける奴が走って人を呼んでくるというのは理に適った方法だ。それでもなお、僕はローリスさんを此処に残して行きたくは無かった。何故なら――
「この庭には、まだ他にも正体不明の“何か”が居ます。そんなところに、ローリスさんだけ置いていくつもりはありません」
先程聴こえてきたあの葉擦れの音や、僕達から遠ざかるような動きの存在。それが僕の不安を助長していた。
いくら大局的に見てローリスさんが正しかろうと、今度は僕も引き下がるつもりは無かった。
「さあ立って! 一緒に行きますよ!」
「余計なことすんな! 此処であのオーク野郎を見張っておくヤツも必要だろうが! どんだけ馬鹿なんだよ、テメェはよ!」
「なんと言われようと譲れません! 従っていただけないのなら……!」
僕は目を据えてローリスさんを見た。まだ悪態をつく元気は残っているようだが、その顔色はどんどん悪くなっている。ヴェイグを無力化した以上、ローリスさんの生命を優先しても良い筈だ。彼にどうしてもその気がないのなら、実力行使も厭わない。こんなことで魔法を使うのは大人げないけど、聞き分けてくれないならやるしかないんだ。
「テメェ……!」
僕の決意を悟ったのだろう、ローリスさんは忌々しげに眦を上げてこちらを睨んだ。だが既に土気色になりかけた顔からは、いつものような迫力は無い。頭を持ち上げるのも億劫そうで、額には冷や汗がびっしょりな上に身体も小刻みに震えている。
もう幾許も猶予は無い、ならば――!
『待って、ナオル! 茂みの中から何か出てくる! それも沢山!』
緊迫したサーシャの声が、僕の頭に冷水を浴びせた。
息を呑んでサーシャの示した方角を見ると、僕にも分かる程にあちこちで庭木がガサガサと揺れている。間違いなく、さっき僕達から逃げるように茂みの中を移動していた謎の存在だ。今度は近付いてきたということか。
果たしてそれは頭領を取り戻さんとする他のシャープ・オーク達なのか、それともあの狼男が戻ってきたのか。
どちらだろうと、ローリスさんを守れるのは僕だけだ。何が飛び出してきても良いように、僕は再び印契を組もうとした。
……が、直後に茂みから出てきたものを見て、僕は呆気にとられた。
「えっ……?」
腰から下、丁度太ももが来るような高さから、ちょこんと小さな頭が覗いている。青黒く、所々シワの寄った肌を持つそれは、白く濁った眼を心配そうに歪めてこちらを窺っている。ふたつ、みっつ……。同様の顔が次々と茂みの中から現れ、僕達を見つめた。
「き、君たちは……!?」
僕の問いかけに答えるように、彼らは茂みの中からぞろぞろと出てきて全身を星明かりの下に晒す。いずれも小さな体格に合わせたサイズの服をきっちりと着込んでおり、長く尖った耳をピンと尖らせて一様に僕とローリスさんに眼差しを注いでいる。
白い目、長い耳、それだけならオークとも見紛いそうな出で立ち。だがその青黒い肌と子供のように小柄な体躯は、僕達にとっては馴染み深い姿だった。
「まさか、ゴブリン……!?」
『嘘……!? コバ以外のゴブリンなんて、初めて見たわ……!』
僕もサーシャも、余りの衝撃に息を呑む。驚愕する僕達の前に、彼らの中のひとりがおずおずと進み出てペコリと丁寧にお辞儀した。
「左様でございます。我々はブルーナボーナ家にお仕えする庭師の一団でして、私めは代表のナンジュと申します」
最初に茂みから出てきた、あのシワの寄ったゴブリンだ。使い古してはいるものの仕立ての良いレザーの上下を着て、頭には羽の付いた帽子をちょこんと乗っけている。その佇まいといい挙措といい受け答えといい、控えめではあるものの実に自然体であり卑屈なものは感じない。それが実に意外で、僕は一刻を争う事態であることも失念して呆気にとられた。
「僭越ながら、ご下命によりお二方の救護に参りました。どうか、後は何卒我々にお任せ下さいませ」
「え? え? ご下命って一体誰から……?」
突然のことに理解が追い付かない僕を尻目に、他のゴブリン達はテキパキと動き始めている。何人かは既に虫の息になりかけているローリスさんの側に傅き、あれこれと処置を始めていた。
「私に決まっておりますでしょう。お惚けになるのはお止めくださる? “渡り人”の名が泣きますわよ」
高飛車な声が、ゴブリン達の出てきた茂みの向こうから飛んでくる。庭木の端からゆっくりと現れたのは、扇子で口元を隠した優美な令嬢。切れ長の目が、驚きに打ちのめされる僕を見下すような、面白がるような、不思議な情感を浮かべて真っ直ぐこちらを見つめていた。
「見事な戦いでした。心からの敬意を表しますよ、ナオル殿」
表情を全く変えないまま、イルテナ・ブルーナボーナは称賛の意を述べた。