第二百二十四話
五人居たシャープ・オークの刺客も、動けるのは既にあとひとり。
最後に残った強敵であるヴェイグと、ローリスさんは丁度お互いの武器が届かないくらいの間合いを取って睨み合っていた。両手で正眼の位置に剣を構えるローリスさんに対し、ヴェイグは以前と同じく左右の手に剣と斧をあてがった二刀流だ。その左右では、ローリスさんによって斬られた二体のオーク達が物言わぬ骸となって斃れており、自らの流した血溜まりの中に沈んでいた。
「ローリスさん!」
自分の担当だった二名の無力化を確認した僕は、急いで彼の後ろ斜めに立って脇を固めた。そして気付く。彼の肩が僅かに上下していることに。
「はぁ……! はぁ……!」
肩で息をしているローリスさんは、荒くなった呼吸を悟られないように抑えているが、ここまで近付けば嫌でも分かる。心配になってその様子を伺おうとした僕に、とんでもないものが飛び込んできた。
「ローリスさん、その腕……!」
「かすり傷だ、怪我の内にゃ入らねえ!」
声を掛けると間髪入れずに元気漲る答えが返ってくる。不自然な勢いのある言葉は、僕の不安を増大しただけだった。
たくましい偉丈夫の、右の二の腕。肩口と肘の丁度中間辺りの位置がぱっくりと割かれている。仕立ての良い礼服の袖が、そこから流れ出す血に滲んで赤黒く染まっていた。
オークの武器には毒がある。僕も一度、その毒に冒されて生命の危機に陥った。メルエットさんとコバが必死に瀉血してくれたおかげで事なきを得たが、二人が居なかったらどうなっていたことか。ましてやシャープ・オーク達は、その役目の性質から考えてより強い毒物を扱っている可能性が高い。僕の時とは、比べ物にならないくらい危険な状態なんじゃないか?
……ということは、一刻も早くローリスさんを治療しないとまずい!
「見事な腕前だな、“鉄火”。大槌を遣う武人であると聞き及んでいたが、剣の方も中々のものではないか」
自分の左右に転がる部下達の死体を流し目で見遣りながら、ヴェイグが感心したように言う。こちらから仕掛ける隙がないかと向こうの様子を伺ったが、屹立するシャープ・オークの頭領には油断も動揺も見られなかった。
「もう残っているのはお前だけだ、素直に降参しろ!」
普段らしからぬ荒い言葉で降伏を迫るが、それを聴いたヴェイグはせせら笑うだけだった。
「どうした、何を焦っている? 敢えて勝負を急がずとも、貴様らとしては時間が経つ程優位に立てるんじゃないか?」
「くっ……!」
ダメだ、見抜かれている。心の中で渦巻く焦りを、ヴェイグの白く濁った眼は見透かしている。
「余計なことに気を取られるんじゃねェ! 目の前の敵に集中しやがれ!」
「ローリスさん……!」
当のローリスさんによる叱責も、今は素直に受け取れなかった。平常心を保たなければ足を掬われる、それが分かっていて尚彼の状態が心配でならない。
「“鉄火”よ、貴様の生命はもう助かるまい。今宵は満月では無く、此処にはあのフィオラも居ない。モルン村の住民達のように、あの娘の秘術に頼ることも出来んのだからな」
僕達の心に更なる重圧を掛けようと、赤紫色の痩せたオークは言葉を重ねてゆく。
「哀れだなぁ。主に立てた誓いも守れず、道半ばで虚しく死んでゆくのだから。だが嘆くことは無いぞ。貴様の一生は、このヴェイグに名を成さしめる為だけにあったのだ。それを誇りとして、せめて気高く逝くが良い」
ピクリ、とローリスさんの肩が震えた。
「ほざいてろ、テメェの戯言になんざ興味はねェ!」
ローリスさんが腰を沈め、足を大きく踏み出す。
「ナオル!」
掛け声と共に、彼の身体は弾丸のように飛び出した。
「っ!?」
僕は我に返り、すぐさま《石法執使》の印契を組んで壁に押し当てる。流した魔力は天井のみならず壁全体に波及し、ヴェイグを取り囲むように数本の突起物を形成した。それはローリスさんの動線を遮らず、尚且つヴェイグの逃げ道を塞ぐ位置を計算して生み出したものだが、如何せん僕はローリスさんの呼吸に合わせるのが一拍遅れた。
ヴェイグは突き出されたローリスさんの一撃を交差させた剣と斧で難なく防ぎ、直後に僕の魔法が来ることを察知して素早く身を引く。一瞬前にヴェイグの背中があった場所を、《石法執使》で形作られた幾本もの突起物が虚しく突いた。
「連携がなっていない、そんな体たらくでこのヴェイグを討ち取れると思うな」
置き土産のように嘲笑をひとつ残し、ヴェイグはそのまま身を翻して開け放たれた扉へと向かう。
「来い、外で決着を付けてやる」
「待ちやがれ!」
闇の深まる館の外へ疾風のように飛び出していくヴェイグを、ローリスさんはすぐさま追おうとする。
「深追いは危険です! 他にもまだアイツの手下が潜んでいるかも知れませんよ!」
引き留めようと必死に声を掛ける僕を、ローリスさんは凄みのある目付きで睨んだ。
「テメェ、俺ァ絶対ためらうなって言ったよな!? なのに何だ、さっきのザマは!?」
「それは……!」
「俺のことなんかで気持ちを乱すんじゃねェ! アイツらが此処で何やってたか知らねェが、それを阻止すんのが先決だろうが!」
ローリスさんの言葉は正しい。正しいのだが、そんなすっきりとは割り切れないのも本当だ。仲間が毒に冒されていると知って、平静でなどいられるものか。
僕は妥協点を探ってローリスさんに提案した。
「僕が倒した二体のオークにはまだ息があります。彼らから事情を聴き、目的を割り出せば良いじゃないですか。ここで無理にヴェイグや、あの狼男に拘るのは止めましょう」
「そいつは無理だな。連中、もう死んでるぜ」
「えっ!?」
ローリスさんが顎をしゃくって僕の背後を示す。見ると、瓦礫に埋もれていた二体のオークは、どちらも舌をだらりと伸ばしてぐったりとしていた。気絶ともまた違う、完全に脱力しきった身体。開きっぱなしの口から吹き出した泡に、苦悶に歪められた表情……。
『……本当だ、死んじゃってる! さっきまで確かに生きていたのに……!』
サーシャが、驚いた様子でローリスさんの言葉を裏付けた。
「歯の間に自決用の毒でも仕込んでたんだろ。情報を吐くつもりなら死ぬ覚悟でな。連中の目的を知るには、アイツらの頭を押さえるしかねェ」
「で、でも……!」
「おいナオル」
ローリスさんは、目を据えて僕を見た。
「テメェは変わったと言ったが、訂正するぜ。テメェはまるで変わっちゃいねェ。相変わらずの甘ったれだ」
反論しようとした言葉を喉奥に押し込んだ。ローリスさんの目は真剣で、理性を湛えていた。感情に身を任せた発言じゃない。
「俺ァもう、自分の役目を見失わねェ。お嬢様を守り、その意志を代行する。そして、今この場においてそれァ、敵を全部ぶっ倒すことだ」
ローリスさんは礼服の袖を引き裂き、傷口から上の辺りで強く縛った。
「お嬢様は俺に命ぜられた。テメェと組んで事態の把握と収拾をしろ、ってな。俺ァ、それを違えるつもりはねェ。テメェはどうなんだ? お仲間の王子さんの顔に泥を塗るつもりか?」
「……!」
確かに、敵と遭遇しておいてみすみす取り逃したとなったら、世間が求める“渡り人”としての姿に背くことになり、ブリアンの面目を潰すことにもなる。今、此処には僕とローリスさんしか居ないように見えるが、実際はブリアンやイルテナさんも別に動いているのは間違いないんだ。
敵地に侵入してきたのは狼男やヴェイグ達の方で、圧倒的な優勢に立っているのはこちらである。ならば僕達は無理をせず潮時を見計らって切り上げようと考えていたが、ローリスさんはそれを甘えだと言う。
彼の言葉は――正直、胸を衝かれた。
いの一番に事態を解決しようと勇み立っておきながら、いざ敵の懐に喰らいついたという段階で諦めようなど、なんとも中途半端な話じゃないか。僕は自嘲に口を歪めつつ、ローリスさんを見る目に力を込めた。
「分かりました。ローリスさんが覚悟を決めているのなら、僕も肚をくくります!」
「へっ、最初からそう言やァ良いんだよ」
額に汗の粒を浮かべつつも、ローリスさんは不敵に笑った。
そして僕達は、ヴェイグの出ていった扉の外を見据える。
「……行くぜ!」
「はい!」
毒のことが気にならなくなったというわけでは無い。だが、時として自分の安否より優先しなければならない事柄もある。それくらいは、今の僕にも理解出来ることだった。ローリスさんがそのつもりなら、僕は全力でそれを援護しよう。
決意を新たに、僕達は館の外へと踏み出したのだった。