第二十一話
「ジェイデン司祭!?」
兵士達と揉めながらこっちへやってくる白髪白髭の老紳士。それは間違いなくあのジェイデン司祭だった。白い布で覆われた何かを大事そうに胸に抱き、唾を飛ばす勢いで周囲の兵士達相手にまくし立てている。
「やれやれ、厄介な奴が現れたな……」
守備隊長がうんざりしたというようにため息を漏らし、肩を竦めた。マルヴァスさんも苦い表情を浮かべている。
その間にも、ジェイデン司祭はクロスボウを構える守備隊に向かって声を張り上げている。
「やめよ! 皆の者やめよ!! 竜に刃向かってはならん! 竜に敵意を向けてはならんぞ!! あの竜を見よ! ただ上空を舞っておるだけだ! まだ我々には何もしてきておらぬではないか!!」
片手だけで器用に行うジェスチャーを混じえつつ、《竜始教》の聖職者らしい説法をありったけの熱意を込めて説き続ける。数人の兵士達が止めようとするもまるで意に介さない。兵士達の手に掲げられた松明の炎が、熱弁を振るう老司祭の姿を厳かにライトアップしていた。
「ジェイデン!!」
イーグルアイズ卿が呼びかけ、ジェイデン司祭を手招きする。
「おお……! そこに居られましたか、伯爵閣下!」
気付いたジェイデン司祭が、左目のモノクルの位置を直しながら一直線にこちらへ走ってくる。右腕で胸に抱かれた白い布が、彼の動きに合わせてヒラヒラと揺れた。
「閣下! このような喫緊時に遅参してしまい、まずはお詫び申し上げまする!」
「誰も呼んではおらんぞ……」
憎々しげに守備隊長が小さく呟く。
「久しいな、ジェイデン。今年一年の水揚げ量と漁師達の息災を祈る、先の“豊漁祭”以来か」
「はっ! 毎年の事ながら、私にも音頭を取る事をお許し頂き、感謝の念は絶えませぬ!」
「して、此処へは何用か? 竜の姿を拝みたくて教会を飛び出してきたのであろう?」
「興味本位で御本陣の士気を乱しているのではございません! 自滅の道へと踏み出す愚行を防ぐために参ったのです!」
「口が過ぎよう、ジェイデン殿。ここは戦場だ。聖職者の出る幕は無い。司祭なら司祭らしく、我らの武運を祭壇で祈っておればよろしい」
横から守備隊長が口を挟むと、ジェイデン司祭はみるみる色めきだった。
「聞き捨てなりませんぞ、隊長殿! 竜に武器を向ける行為は紛れもなく過ち! そなたはあえて災いを招こうと仰るのか!?」
「自衛の為だ。民を脅かす輩は、誰であれ許さん」
「竜は無慈悲な殺戮者などでは無い!!」
「あれはただの竜とは違う! 《棕櫚の翼》だ! 人を焼き、喰らう悪鬼よ!」
「否! 《棕櫚の翼》とて、《始祖竜》様の末裔なり! 荒れておられるのならば、お怒りを解く術を模索すべし!」
「カビ臭い《竜始教》の説教など不要! 竜が神!? ハッ! “渡り人”伝説の方がまだ信憑性があるわ!」
「それこそただのおとぎ話であろう! 隊長殿、そなた《聖還派》の戯言に毒され過ぎでは無いのか!?」
「何を――!」
「もうよい!」
見兼ねたイーグルアイズ卿が二人の応酬に割って入った。
「ジェイデン、我らが戦備えはあくまで自衛が目的。あの竜が《棕櫚の翼》であれ、向こうから仕掛けてこぬ限りこちらも事を構えようとは思わぬ。心配無用だ」
「閣下……」
「それより、丁度良い時に来た。そなたの教会で、この少年を保護してやってくれぬか?」
イーグルアイズ卿はそう言って僕を示す。するとジェイデン司祭は、初めて僕の存在に気がついたというように瞠目した。
「ナオル殿ではありませんか!? どうしてここに……!?」
「あはは、話せば長くなります……」
経緯としては随分間抜けなので、僕としては苦笑いするしかない。
それはそれとして、この状況は渡りに船だ。イーグルアイズ卿もマルヴァスさんの進言通り、僕をここから離れさせる気になったみたいだし。
「司祭さん、コバはどうしてますか?」
「勿論、教会で留守番させてますよ。彼は大丈夫です」
良かった。その言葉を聴けて、まずは一安心だ。
「実は、サーシャがコバの事を心配してるんです。迎えに行かなくちゃ、って言ってました」
「なるほど。しかしその話はまた後ほど伺いましょう」
ジェイデン司祭は頷いてくれたが、そこで僕から目を外し、イーグルアイズ卿に向き直る。
「閣下、私も手ぶらで参ったのではございません。あの竜を鎮める方法を試したく思い、これをお持ちしたのです」
そして、胸に抱えていた大きな白い布を持ち上げる。
「私も“ヒメル山の戦い”以来、竜に対処する術を探し求め続けた者。これが、その成果です」
ジェイデン司祭が白い布を丁寧に払ってゆく。すると中から現れたのは、子供の頭くらいの大きさをした赤黒い水晶玉だった。表面は綺麗に磨かれて艷やかな光沢を纏っており、中身は透き通っていて中心部分には白く縁取られた小宇宙のような結晶群が浮かんでいた。
「ジェイデン、これは?」
「《竜巫石》……と、《竜始教》の古い教えにはそうございます。人と竜が、その意思を通わせる橋渡しをする宝珠であると」
「そのような物を、何処で?」
「あらゆる文献を調べ、使える伝手を全て使い、数年を掛けて手に入れました。これでかの竜に呼びかけ、その胸中を探ります」
「馬鹿な」
守備隊長が鼻で嗤い、ジェイデン司祭はまたもや一瞬顔色を変えるが、今度は食って掛かったりはしなかった。
僕はもう一度その水晶玉を見た。赤黒い球体は、それ自体がひとつの芸術品のようで、見つめているとなんだか、すごく……吸い込まれそうになる。
「そなたに信じてもらわなくとも構わん。閣下、どうか私にそのお役目を賜りたく!」
「大丈夫なのか? 下手に竜を刺激する恐れは?」
「何分初めての経験ゆえ、確かな事は申し上げられません。ですが、《竜始教》の聖典に則れば、これは竜を祀る為の祭具の一種。過去の祭祀録を遡ってみても、これを使って竜を怒らせた事例は存在しません」
「うむ……」
「やめた方が良さそうだな、コンラッド。なぁ司祭さんよ、竜を間近で見られて興奮してるのは分かるが、あんたの仕事は人々の心を平静に保つ事だ。だからほら、ナオルを連れてさっさとここから……ナオル?」
マルヴァスさんが僕の肩を揺する。……揺すられたのだろうか?よく分からない。そんな事よりも、あの水晶玉から目が離せない。
中心の結晶群が僅かに光っているような気がした。一回、二回と明滅を繰り返し、その様はまるで、何かを訴えかけているかのようだ。
「おい、ナオル!? どうした!? しっかりしろ!!」
マルヴァスさんの声が、遠くで聴こえる……。両肩を掴まれ、ガクガクと前後に激しく揺らされているような感覚もある。
だけど、そんなのは瑣末事だ。水晶玉のあの光に比べれば。
結晶群が放つ光がだんだん大きくなる。気付くとそれは、水晶全体に広がっていた。
「……!? こ、これは一体……!?」
ジェイデン司祭の驚いた声がする。イーグルアイズ卿や守備隊長の声も聴こえた気がするが、分からない。
やがて光で包まれた水晶玉の中から、黒い輪郭が浮かび上がる。
凸凹していて、尖っていて、あえて言えば有機的な、何かの生き物……それも爬虫類の頭みたいなシルエット。トカゲ? ワニ? そういったものに近い気がするけど、違う。
開いた口には幾本もの鋭い牙、鼻の頭には反り返った棘、顎の下には髭のような鱗が垂れて、頭の上には鬼のような二本の角が生えている。
その恐ろしげな風貌は、正しく――
「りゅ、う…………?」
僕の問いに応えるように、水晶の中の竜が大きく口を開ける。そして――
【ミ、ツ、ケ、タ――!】
「えっ……?」
頭の中に、人間のものとは思えない重厚な声音が厳かに響く。その瞬間、僕の意識は急速に現実に引き戻された。
ガァァァァァ――!!!
遠くで、これまでのものとは明らかに異なる竜の咆哮が轟いた――。