第二百二十一話
第一王子ブリアンと、キレク・ナサ公イルテナさんの交わした暗号めいた言葉。
メルエットさんのお陰でその意味を解読した僕は、風の精霊であるサーシャの感知能力によって発見した不審者を追って、ローリスさんと一緒にブルーナボーナ公爵邸の内部へと入り込んだ。
そしてついに、標的まで後一歩のところに迫ったのだ。
「サーシャ、どう? 中の空気に乱れはある?」
眼前に鎮座する、両開きの大きな扉を見据えながら僕はサーシャに確認する。
『……ううん、動きは無いね。でも居るよ、この先で魔力の気配が固まっている。多分、向こうもあたし達に気付いているね』
「つまり、待ち伏せか」
『だと思う。息を潜めて、あたし達が入ってくるのを待ってるんだよ』
風の精霊シルフィードに転生したサーシャが言うことだ。十中八九、間違いは無い。
「おいナオル、場所を替われ」
ローリスさんが、剣を鞘ごと帯から抜き放ちながら前へと出てくる。
「罠の可能性もありやがるからな、俺が先に入るぜ。もし敵が俺に対して仕掛けてきたら、テメェが後ろから仕留めやがれ」
「お願いしても良いんですか?」
「はっ、俺を誰だと思ってやがる? そうそう不意を喰らうタマじゃねェよ。テメェがどれだけ修行してきたか知らねェが、咄嗟の機転じゃ負ける気がしねェぜ」
確かに、百戦錬磨のローリスさんなら安心して先鋒を任せられる。しかしそれも、通常の敵が相手であれば、だ。
「ローリスさん、敵は魔道士です。入ったところでいきなり魔法を浴びせられる可能性もあります。それでも、大丈夫ですか?」
「どうして分かる?」
「魔道士が放つ特有の“匂い”のようなものを辿ってきたからです。間違いありません」
「そんなもんまで嗅ぎ分けられるようになったのか。テメェ、変わったな」
ローリスさんは、難しい視線を閉じられた大扉に向けた。
「魔道士との戦は何度か経験した。待ち伏せといやあ、大戦の時に帝国西部であった『クノッグ・リィ峠の戦い』を思い出すぜ。狭い道の出口にずらりと敵の魔道士が並んでいやがってよ、足場を凍らすわ遠くから狙い撃ちしてくるわでひでぇ有様だった」
「やっぱり、僕が先に入りましょう。僕なら、きっと対処出来ます」
「馬鹿言え、そんな恰好のヤツに先鋒を譲れるかよ。女装野郎の後にヘコヘコ続くなんざごめんだね」
有無を言わせないように、ローリスさんがずいっと僕の前に出た。その背中には、魔道士に対する気後れなんて一切表れていない。
「良いから俺に任せな。テメェはやっこさんの隙を見逃さず、仕留めることだけ考えやがれ」
「……分かりました」
ローリスさんの意思は固い。僕はそれ以上食い下がるのはやめて、素直に彼の背後に立った。熊のような大男の背中が視界の大部分を埋める。何度も、僕やメルエットさんを護ってくれた背中だった。
「開けるぜ」
短く言って、ローリスさんの丸太のような腕が大扉を押し開ける。徐々に広がってゆく隙間から見えたのは、がらんどうになった大きな広間だった。表の通りに面しているのか、左側の壁には窓がいくつも取り付けられており、そこから差し込む星明かりや街路に飾り付けられた“白燈籠”の光が、このやたらとだだっ広い室内を淡く浮かび上がらせていた。
「ここは……食堂、でしょうか?」
ローリスさんの脇越しに部屋の様子を覗いた僕は、そんな印象を抱いた。
細く、長いテーブルが何列にも渡って奥に伸びている。それらが途切れた先にはカウンターのようなものがあり、台を挟んだ向こう側では調理器具と思しい道具が壁に立てかけられているのが見えた。
「多分、な。この館の使用人どもが使う食事場かもしれねえ」
イーグルアイズ邸では見られなかった造りからか、ローリスさんも確信が持てないでいるようだ。
ひとまずそんな疑問は隅に置き、ローリスさんは左右を一通り警戒しながらゆっくりと室内に足を踏み入れてゆく。僕も緊張で浅くなりつつある呼吸を沈めながら、慎重に彼の後に続いた。
一見したところ、敵らしき影は無い。しかし、必ず居る。隠れているとしたらやはり、この縦に伸びるテーブルの下あたりか。
何気なく、その中のひとつを覗き込もうとそーっと静かに姿勢を低くした。……薄暗くてはっきりとは分からないが、何かが潜んでいる気配はしない。
なら次はどうだと身体の向きを入れ替えようとした時、後ろ髪と首筋の辺りに微かな風の動きを感じた。
刹那、以前の鉄仮面事件の記憶がフラッシュバックする。
そうだ、あの時もこうして暗い中をフォトラさんと二人で調べていた。そして、棚の上に隠れていたミアが奇襲を仕掛け――
『ナオル、上!』
サーシャの警告が脳に響く前に、僕は床を蹴っていた。
直後、大きな黒い塊が一瞬前まで僕の身体があった場所に落下する。鈍く空気を切る音と、それを掻き消すほどの衝突音が奏でられ、床の石材が破砕される。
窓からの光を反射して仄かに煌めく床石の破片。そこに混じって見えたのは、豊かな体毛に覆われた太い四肢のシルエットだった。仕留め残った僕を睨む双眸が、暗闇の中で不気味に赤く光っている。
敵影を視認しつつ、僕は体勢を立て直して携行していた小柄に手を伸ばす。
「テメェ!!」
ローリスさんが怒号と共に剣を抜き放ち、主を解き放った鞘を黒い影に向けて投擲する。
影は避けず、黒い腕を一振りさせて飛来する鞘を弾き飛ばした。乾いた音と共に明後日の方向へ抜けてゆく鞘。
「てやっ!」
その隙を見逃さず、僕は指の間に挟んだ二本の小柄を黒い影に向けて放った。
(サーシャ、お願い!)
『任せてっ!』
念じる声に言葉で答えて、サーシャは小柄に風を纏わせる。精霊の後押しを受けて威力と速さを増した小柄が、黒い影を貫かんと一直線に飛んでいく。
「――!?」
今度は払い落とせないと見切ったのか、黒い影は防御ではなく回避を選んだ。だが躱しきれず、飛び退った黒い影の脇腹付近に二本の内一本が命中した。
「ぅぐっ!?」
低く、くぐもった声を漏らして黒い影が空中で旋回する。器用に身を捻って着地すると、そのまま僕やローリスさんから遠ざかろうとする気配を見せた。
「逃さない!」
僕は反射的に逃げ道を塞ごうと、入ってきた扉の方へ走った。
「馬鹿、離れるんじゃねェ!!」
すかさずローリスさんの叱咤が飛ぶ。が、もう遅い。距離の離れた僕達二人の内、黒い影は迷わず僕の方に狙いを定めたのが動きで分かった。
その場から跳躍し、空中で両腕を突き出すと、そのまま回転を加えながらこちらに突っ込んでくる。まるでスタートの合図と共に水中に飛び込む水泳選手のような動きだと、頭の片隅で呑気な感想を浮かべた。
『気をつけて! 部屋の空気があいつに集まってる!』
耳の奥でサーシャの警鐘が鳴る。
黒い影の存在が大写しになり、その輪郭がより鮮明に見えた。
鋭く研ぎ澄まされた大型のナイフのような爪、全身を覆う艷やかな毛並み、半開きの口にズラリと並ぶ牙。
獣だ――!
迫るそいつの大爪には、先程サーシャが小柄に纏わせたような風のベールが巻き付いている。恐らくは、あれも風の魔法。あの範囲と密度だ、まともに浴びれば僕の肉体は一瞬で粉々にされるだろう。
避けるのは間に合わない。だが――!
「火の印契、“火球”!」
敵の正体を見極めると同時に、僕は駆け出す際にあらかじめ組んでいた印契を発動させた。もうすっかりお馴染みとなった火の玉だ。
こちらの迎撃準備が出来ていたとは思わなかったのだろう、赤い眼差しに明らかな動揺が走った。黒い影は、どうにか空中で体勢を変えようと身を捩る。そして、突き出していた両腕を左右に払った。その勢いで爪に纏わりついていた風のベールが剥がれ、余波となって前方に広がる。
火球と、風波が正面からぶつかった。
「うっ――!?」
火球が弾け、炎が尾を引きながら八方に散る。衝撃で辺りの壁が砕け、床に火の手が広がり、テーブルは割れて燃え上がった。僕のすぐ真横にまで火の粉が飛んできて、思わず顔をしかめる。
薄暗かった室内が、火の影響で俄に明るくなった。
揺らめく孤影を背負って正面の床に着地したのは、二本の足で立ち上がる大きな獣の姿。
「……なるほど、お前が噂の“渡り人”か。ブリアンがわざわざ伴ってきた女人だから只者ではあるまいと思っていたが、まさかの本人だったとはな」
思いの外、落ち着いた声音で語りかけてきたそいつは――狼の頭を持つ、獣人だった。




