第二百十五話
――シャッ、シャッ、シャッ……。
砥石の上を鋼の刃が滑る小気味良い音が耳をくすぐる。
割り当てられた自分の部屋に戻った僕は、夜会に出席する為の準備をフヨウさん達が整えている間、《ウィリィロン》の手入れをすることにした。
ドワーフ独自の鍛造術によって造られたこの《包呪剣》は、普通の刀剣類とは少々手入れの方法が異なる。
《タバルラン》と呼ばれる特殊な砥石によって剣身を清めた後、魔道士に頼んで魔力を充填させなくてはならない。幸いにして僕はそれらの過程をひとりで実行出来る。目釘を抜き、柄から取り外した《ウィリィロン》の剣身を掴んで、フヨウさんから教わった通りにそれを《タバルラン》にこすり付けた。何度効果を発揮しても刃こぼれ一つ起こしていない手元の相棒は、魔法の砥石の上を往復する度に益々そのフォルムを際立たせていくような気がした。
数十分、一心不乱にその作業を続ける。それが終わったら、いよいよ魔力の充填だ。
「――《竜脈》より昇りし魔の活力よ、大いなる理に従い刃に宿りたまへ」
床に魔法陣を描き、その上に再び組み立てた《ウィリィロン》を横たえ、教えられた呪文を詠唱する。するとポウッ、という小気味の良い音と共に青白い光が魔法陣に灯り、《ウィリィロン》の全身を包んでゆく。
これで良し。後は携帯端末の充電よろしく、自然と光が消えるまでこのまま安置しておけば手入れの完了だ。
目下の仕事を終えた僕は、机の前の椅子にどかりと座って天井を仰いだ。《包呪剣》の手入れは思いの外魔力を消費する。倦怠感を癒そうと指で目頭を揉んでいると、自然と頭の中に例の思考がもたげてきた。
「父さん……。兄さん、姉さん……」
日本に置き去りにしてきた父と、ずっと会っていない最愛の二人。
僕の旅の、そもそもの目的。
首から掛けているペンダントを外し、チャームを開けると今でもそこから僕に笑い掛けてくれるナギ兄さんとナミ姉さん。しかし、父は此処には居ない。最初から、ずっと。
あの日、鉄仮面に《記憶の塔》で真実を見せられて以降、僕の心はずっと揺れ動き続けている。
帰るべきか、帰らざるべきか。
普通なら、こんなことは考えるまでもなく答えは一択だった。日本は僕の故郷、思い出せる全てに懐かしさと憧憬を感じる、唯一無二の“帰る場所”だ。
だが、その想いの中心に据えてきた存在が、虚像だったら?
父の本心は分からない。昔は元より、今の彼が僕をどう思っているのかも。
それを確かめるためにも帰るべきだ、と僕の中の理性は間断なく囁く。同時に、怖いという感情も止めどなく湧いてくる。父と再会するのが、怖いと。望まれない息子であるという事実が確定してしまうのが、何よりも恐ろしいと。
一方で、鉄仮面――宰相の正体が兄さんか姉さんなのではないか? ……という疑問にも答えが得られていない。
袋小路のような情念が絶えず胸を掻き乱し、ともすれば押し潰そうとする。
それから逃げるように、懸命に修行に打ち込んできた。目下のやるべきことを定めてそれに集中していれば、他のことは考えずにいられた。“身体だけでなく心も鍛えろ”としつこいくらいに繰り返し教えられたことで、出口の見えない不安感にも多少の耐性はついたと自負してもいる。
けれど、今でも時々こうしてふと考えてしまうんだ。
僕の生きている、価値というものを――。
『あー、また良くないこと考えてるでしょナオル!』
僕の内心に気付いたサーシャが鋭く注意してきた。通常は姿が見えずとも、精霊である彼女はいつも僕の傍に居る。それがはっきりと分かるようになったのも修行のお陰だ。サーシャの声なき声が耳を通して身体に浸透し、僕のネガティブな精神をすぐに引き戻す。
「悪かったよサーシャ、つい癖で」
『考えても答えが出ないことに拘るのは時間の無駄だよ! 何がどうあっても、ナオルはナオルなんだから! いつも思うけど、キミはもっと自分に自信を持つべきだね! 自信が無いからつまらないことばっか考えちゃうんだよ! 自分で自分を褒められないっていうんなら、あたしがナオルの良いところをいっぱい言ってあげるよ! まずはね――』
「分かった、分かった」
溌剌と僕語りを始めようとするサーシャを苦笑いで宥める。彼女のこうした気遣いは、一度始まってしまうと中々止まらない。押しの強いところは、人間であった頃からちっとも変わっていないのだ。正直に言えば非常にありがたいのだが、いつまでも彼女の好意に甘えてばかりもいられない。技術だけじゃなく精神面ももっと鍛えなければならないというフヨウさんの教えは正しく真理だと、こういう時に痛感する。
でなければ、いつまでもサーシャを――。
「ナオル様、失礼いたしますです」
部屋の外からノックの音と共に聴こえてきたコバの声で、僕もサーシャも意識をそちらへ向ける。きちんと洗濯された木綿のシャツにズボンという、質素ながらも清潔な風体に様変わりしたコバが、開かれたドアの向こうから静かに現れた。
『コバ!』
サーシャが、行儀よく入ってきたコバを嬉しそうに迎える。勿論、コバには彼女の声も姿も感じ取ることが出来ないのだが。
「やあコバ、どうしたの?」
「お取り込み中のところ、まずは恐縮でございますです。ブリアン殿下様より、件の夜会についてナオル様のお召し物をご用意なされたとかで、衣装合わせをお願いしたいとのことでございました」
相変わらず謙虚にすぎる物腰で、コバは恭しく用向きを申し述べる。
「衣装? いつものローブじゃダメなの?」
今の僕が着ているのは、《竜牙の塔》所属の魔道士であることを内外に示す専用のローブだ。こっちに来て以来、何処へ行くにもこの格好だしそれはフヨウさん以下他の魔道士達も同じだ。いわば学生における学生服のようなもので、そのまま礼服として使えるのではと思ったが違うのだろうか?
「何分、公爵様主催の夜会ですのでもっと格式のある装いが必要との仰せでございまして。こういう日が来た時の為に、予め用意なさっていた特別な一着とのことでございました」
なんだろう、ブリアン王子が言う『特別』って嫌な予感しかしないんだが。
「分かったよ、取り敢えずブリアン王子のところへ行こう」
僕は魔力充填中の《ウィリィロン》を残し、おもむろに立ち上がった。
「御意、ではコバめがご案内いたしますです」
イーグルアイズ家の館での生活、そしてこの《竜牙の塔》での生活を経て、コバの語彙も次第に華やぎを見せるようになってきた。立ち居振る舞いに関しても、以前よりぐっと自信がついたような感じがする。
日々頑張っているのは、僕だけじゃない。
『コバ、本当に立派になったね』
弟の成長に目を細めているであろうサーシャに、僕も内心で深く頷くのだった。
◆◆◆
《竜牙の塔》は、天をも衝かんとするかのような勇壮な外観を持つ建物だ。王都に存在する建築物の中では、王宮や大神殿をも抜いて最も高い。フヨウさんにそれとなく訊いてみたところ、高さは約80ドラスペイン(ダナン王国における長さの単位のひとつ、“竜の背骨”の意)あるという。1ドラスペイン=だいたい5メートルなので、元の世界でいうなら約400メートル。流石にスカイツリーには及ばないものの、東京タワーは軽く越える高さを持っていることになる。
研究室、図書館、訓練場、儀式場、講義の教室、薬品庫、備品保管庫、談話室、討論室、応接室、魔道士達の居住区、etc……と内側の設備もかなりの充実度を誇っており、僕の他にも数多くの魔道士が住み込みで此処に身を寄せており、日々魔法の研鑽に精を出している。この国にはこれだけの魔道士が存在していたのかと、それまでヨルガンやブリアン等の数える相手しか見てこなかった僕は大層驚いたものだ。
コバの案内に従って、僕は塔の廊下を進んでいく。途中ですっかり顔なじみになった同僚達と何回かすれ違い、如才なく挨拶を交わす。
「やあナオル、それからコバも、こんにちは。何処へ行くんだい?」
シー族のフヨウさんが長を務めている影響か、塔の魔道士達 (その多くを人間族であるダナン人が占める)は基本的に《竜始教》の薫陶を受けており、ゴブリンであるコバに対しても差別意識をむき出しにしたりしない。同じ釜の飯を食う仲間として、普通に受け入れてくれている。
「こんにちは。ブリアン殿下からの呼び出しで、彼の居室へ向かうところなんです」
「ああ、殿下か。ナオルもつくづく、あの人に気に入られちゃってるねぇ」
苦笑いと共に同情の眼差しが送られてくる。魔道士達の間で彼がどのような評価をされているか、推して知るべし。そして、心から同意したい。
僕とコバは廊下の端まで歩き、蛇腹状の鉄柵で仕切られた小部屋に入った。
「ナオル様、少々お待ちを。ただいま、二十五階へ合わせますです」
一言断ったコバが、側部に設けられたハッチを開けて中の歯車状になっている装置を回し始めた。
「二十二……二十三……二十四……二十五。お待たせ致しました、では発進させますです」
「うん、お願い」
僕が頷くのを確認したコバが、装置の中にあるレバーを引いた。するとゴトン、という重い音がして小部屋全体に振動が走る。それから鉄の鎖が巻き上がるようなチリチリという音と共に、身体が下から押し上げられるような浮遊感を覚える。
『あはっ、これは何回乗っても新鮮だね! 階段を使わずに上下に移動出来るなんて、人間だった頃に味わっていたらもっと病みつきになっちゃってたよ!』
耳元でサーシャのはしゃぐ声がする。風の精霊となって自由自在に空間を泳げるようになった彼女でも、この仕掛けには未だに強く感動するらしい。まあ、それには僕も同感だけど。
今、僕達が乗っているのは、元の世界でいうところのエレベーターそのものだ。
この小部屋は、滑車の原理を応用して人や物を各階に送れる構造を見事に実現した造りになっている。さっきコバがやったように、ダイアルを操作して行き先を指定すると内部の構造がそれに合わせて動き出し、目的の階層へ運んでくれるのだ。三環師識のひとり、あの白ひげの目立つ老賢ホリンが機構を設計したらしい。電力も無い世界でこんな仕組みを実装出来るなんて、現代文明に染まっていた僕には想像もつかない領域の話だった。
絡繰り昇降機のありがたみを噛み締めつつ目的の階層、二十五階へ到着する。
「やあやあナオルくん、待ってたよ~」
部屋を訪れた僕達を、満面の笑みを浮かべたブリアンが迎える。足労をねぎらったり急な呼び出しを一言侘びたりとかが無いのはもう慣れっこだけど、彼の邪気が滲み出ているような笑顔は僕の嫌な予感を増幅させるのに十分な効果を発揮した。
「コバから聴きました。夜会に来ていく服を決めるとか?」
さっさと終わらせたい。その思いから僕は余計な話をせず一気に本題に入った。
「うんそうだよ、今見せるからちょっと待っててね。ミア、というわけで例の衣装を此処に持ってきておくれ」
ミア、その名前を聴くとまだ緊張する。僕は固い視線をブリアン王子の脇に控える“彼女”に向けた。
以前僕達を襲った鉄仮面の刺客にしてフヨウさんの孫娘、ケット・シーのミア。彼女は今、僕やブリアンの『下僕』として奉仕する立場になっている。
実質的な執行猶予付き死刑、それがミアに下された裁定だった。あれだけの騒動を起こした上に鉄仮面からは切り捨てられ、通常であれば言い逃れのしようも無い。王宮魔道士フヨウさんの孫という血筋の良さだけが、首の皮一枚で彼女の生命を繋ぎ止めたと言える。多大なペナルティを負うことを覚悟の上で、フヨウさんは祖母としての情を優先させた。
今のミアは、《竜牙の塔》から選りすぐられた精鋭魔道士達が施した『死の呪印』を刻まれた状態で僕達と起居を共にしている。かつてヨルガンが僕に与えた呪縛と同様の(実際には違ったようだが)処置で、再び僕達に牙を剥けばその瞬間に刻まれた呪印がミアの生命を奪う。いわば文字通りの首輪付き状態だった。
その彼女は今、妙に可愛らしいフリフリのエプロンドレス姿でブリアンの傍に控えている。猫頭人体の姿にその装いは、ここだけの話個人的に中々クるものがあったが、どうしようもなく目が死んでいるような気がするのはきっと錯覚じゃないだろう。
ブリアンの指示を受けたミアが、そこで初めて僕に気付いたというようにこちらに目を向けた。
瞬間、その表情が俄に生気を取り戻したように見えた。黄色い猫目が細まる。そこに見えたのは、明らかな愉悦と嘲弄。ささやかな報復の喜びを得た嗜虐心溢れる少女の、残酷な笑みだった。
「あー……」
かねての嫌な予感が決定的になる。すぐさま回れ右をしたい衝動を抑えて、僕は身を翻して奥へ向かうミアの背中を見送るのだった。