第二百十ニ話
「――!」
《竜牙の塔》の一室、テーブルを囲んだ僕達の間を衝撃が走り抜ける。
たった今、大鏡の向こうでメルエットさんが行った宣言を、僕は固唾を飲んで見つめていた。
「ついに言ったな、メリー。これでナオルの存在は、宮廷に知れ渡ったことになる」
マルヴァスさんも眼差しを鋭くして重々しく言う。
「ワームを討滅した魔道士、“渡り人”のナオル。二百年ぶりの生きた伝説が現れたんだ。連中にとっちゃ、マグ・トレドの竜襲来と並ぶ一大事だろうぜ」
謁見の様子を中継している鏡面を、僕達はこれまで以上に食い入るように見つめた。その向こうでは、まさにどよめきの嵐が巻き起こっている。
手前に控える廷臣達からあがる驚愕、疑念、畏怖の声。国王の前だということも失念して、我先にメルエットさんへ向けて質問を浴びせている人も少なくない。浮足立つ彼らを鎮静しようと、壇上のラセラン王子がより大きな声を張り上げる。それを受けて縮こまる隣のスーリヤという女性。主人を取り巻く空気の変容に、思わず傍らの《トレング》を掴みかけるローリスさん。
謁見の間に火が付く中、当のメルエットさんと三環師識、そして玉座に座す国王だけが水のように静まり返っていた。
メルエットさんの視線と、ホリンと呼ばれた三環師識の老人が放つ眼光が真っ向から打ち合う。鏡越しではあっても、その様子が僕にも手にとるように分かった。
「メルエットさん……!」
もどかしさを感じながら、僕は掌を握り締める。今、あの場で矢面に立っている彼女に、してあげられることは何もないのか。
「ナオル、メリーを信じろ。今、俺達に出来るのはそれだけだ」
「分かっています、分かっていますけど……!」
マルヴァスさんの言葉が正しいと頭では理解しながらも、僕は食い下がるように唸った。
「辛抱せい、あれも戦いなのじゃ。謁見の間で自らの主張を述べるのは、あの娘にしか許されぬ行為。友の身を想うなら、首尾が上手く運ぶよう祈れ。時には耐えることも、また大事よ」
焦燥にかられる様を見かねたのか、フヨウさんも僕を窘めた。宮廷魔道士という絶大な権威を築いている彼女の言葉には重みがある。相変わらず猫耳少女の姿ではあるが、フヨウさんから放たれた声に込められた圧は、本人の容姿など関係なしにこちらを制止するだけの力があった。
「くっ……!」
僕は歯噛みをしながらも、焦る気持ちをじっと抑えつけてただメルエットさんの様子を見守るしかなかった。
◆◆◆
自分を取り巻く、様々な大小の声が鼓膜を叩いているのが分かる。
メルエットは、それら一切を努めて意識から遮断して、ひたすら壇上の老賢ホリンに眼差しを集中させていた。彼は何も言わず、自慢の長い白髭を撫でるのも忘れて、ただじっと強張った顔でメルエットを見下ろしている。皺の奥から覗く眼光が、告げられた事の虚実を見極めんと鋭く引き締まっていた。
果てしなく思い空気が全身を抑えつけてくる。一分一秒が長く感じた。ホリン老人との睨み合いがいつまでも続くのではないかと微かな不安がよぎった時、壇上の老賢者にようやく動きがあった。
「……メルエット嬢、其許は――」
高齢を感じさせない、強く低い声が枯れ木のような喉から発せられる。
ところが、その声を遮るようにホリンの脇からぬっと大きな影が現れた。同時に、それまで騒いでいた廷臣達の喧噪がピタリと止む。
「今の話、真であるか? マグ・トレド伯の娘、メルエット・シェアード・イーグルアイズ」
大柄な身体と共に降りてくる凄まじい威圧感に、謁見の間の空気が更に緊迫したものに変わる。メルエットは恐縮のあまり、反射的に目を伏せた。
「ち……いえ陛下! 玉座を離れられようとは……!」
ラセラン王子が呆気にとられたような声を出す。玉座を立った国王ディアンが、真っ直ぐ自分に向かって壇を降りてくるのをメルエットは理解した。護衛として背後に控えていた武装姿の近侍達が慌てて後に従ったのか、彼らの甲冑の擦れ合う音が酷く耳障りな金属音となって耳を打つ。三環師識の面々は、誰もそれを止めようとはしない。目を伏せたメルエットからは分からないが、三人が三人とも息を詰めてディアンの動向を見守っているようだ。
やがて、国王の雄偉な体躯がメルエットの正面に立った。壁や天井に掛けられた無数の燭台から放たれる灯りが、ダナン王国の頂点に君臨する男の影を投射して自分の全身を覆い尽くす。研ぎ澄まされた剣のように鋭い視線が自分のうなじに注がれていることを感じ取って、メルエットは思わず総毛立つほどの息苦しさを覚えた。
「女神パルナ・キアンの使徒――伝承にある“渡り人”がこのダナン王国に降臨したと、真のことであるのだな? 我への直答を許す、答えよ」
一言一言に込められた気迫が違う。僅かでも返答を誤れば、この場で即処断されてしまいそうな錯覚さえしてくる。痺れるくらいに張り詰めた空気の中、メルエットはカラカラに乾いた喉から一生懸命に言葉を紡ぎ出した。
「――左様にございます。彼の者、ナオルはこの私の従者として、マグ・トレドから王都まで共に上って参りました」
「その者が本物の“渡り人”であると、なにゆえ分かった?」
「初めは――」
と、メルエットは一度言葉を溜めた。それから肚に力を込め、続きを述べる。
「私の所感と致しましては、彼の者が真に“渡り人”か否か疑問を抱いておりました。街を襲った竜の前に、彼の者はあまりにも無力でございましたゆえ。彼の者を受け入れ、従者に加えたのは我が父の判断にございます」
「マグ・トレド伯は、如何なる理由でそのように致したのだ?」
「父の個人的な友人が、ベルヒエムの森で“渡り人”を発見してマグ・トレドに伴い、父に引き合わせました。詳しくは私も存じ上げませんが、父としては彼の者に何か感ずるところがあったようでございます」
「して、その者がカリガ領にて件のワームを見事討ち滅ぼした、と?」
「はい、相違ございません。彼の者、ナオルは同地において魔法に目覚め、その力でもってワームの身を焼き尽くしましてございます」
「うむ……」
短い一言。それから、しばしの沈黙。国王ディアンは何事かを黙考していたようだが、やがて再び口を開いた。
「その者は今、如何致しておる?」
「引き続き、我が手元に」
メルエットは、大きくなろうとする自分の呼吸を懸命に整えた。ナオルのことに紐付けて、昨日の事件やモントリオーネの悪事を述べる機会がいよいよ巡ってこようとしている。ナオルの存在に国王が興味を示すだろうことは予想していたが、まさかこうして直答の機会まで与えてくれるとまでは思わなかった。しかし、これこそが最大の好機だ。
ここが一番大事だ、しっかりしろ自分。
「その事を知る者は、今日ここに至るまで汝らの一行のみであったのだな?」
――きた!
「――いいえ。我らの他にも、情報を得ていた者達がおりましてございます」
頭上で息を呑む気配。国王の威に打たれて静まり返っていた廷臣達も、メルエットが告げた事実にまたもやどよめき始めた。
「“渡り人”の出現を知っておった者が居た、とな? それは、誰ぞ?」
国王ディアンが発した問いに、一度だけ深く息を吸い込むと、メルエットは実に簡潔な答えを返した。
「カリガ伯、トレヴァー・モントリオーネ卿。ならびに、彼の配下を務めるシー族の者達にございます」
◆◆◆
僕の話題から、いよいよモントリオーネ卿の悪事に言及したメルエットさん。そこからはもう流れるようにスムーズだった。
誰を介する必要も無く、眼前に立つ国王に向かってするするとカリガ領での顛末を事細かに言上する。なにせ、国王自ら彼女の前までやって来て直答を許可したのだ。こうなるともう、誰もメルエットさんの答弁を止められない。壇上のラセラン王子も、スーリヤって女の人も、三環師識の人達も、皆それぞれの反応を浮かべながら二人のやり取りを見守るだけだ。
「あ~あ、ラセランやスーリヤちゃんは相変わらず顔に出過ぎるね~。それに引き換え、あっちの三人は流石に海千山千だね。だーれも内心の動揺を見せない」
くっくっくっ、とブリアン王子が喉で笑った。
鏡面の向こうで、メルエットさんが懐から例の羊皮紙をおもむろに取り出して、深く頭を垂れながら両手で恭しく捧げている。代わりに受け取ろうと進み出る近侍を制し、国王がそのがっしりした手を伸ばして羊皮紙を掴んだ時、僕は肩から一気に力が抜けるのを感じた。
「これで、ひとつの山場は越えたな」
マルヴァスさんも、ようやく一安心とばかりに長い溜息を吐いた。
「昨日の襲撃はともかく、モントリオーネの方は物証もあるんだ。少なくともあっちに関しちゃ、王室からちゃんとした処罰が下るだろうよ」
「え? あの鉄仮面については……?」
「ミアが尻尾切りにされて、有耶無耶になる可能性が高かろうの。貴族間の暗闘は珍しいことではない。ましてや、世継ぎ問題も絡んだ昨今とあってはのう」
フヨウさんが厳しい顔付きでそう言った。
「宮廷は陰謀と駆け引きの場よ。表の政治だけではなく、裏の政治にも通暁しておる者のみが生き残る。今しがたあの娘が差し出したような動かぬ証拠でも無い限り、正しい法の裁きが適用されることはまずあるまい。あやつが宮廷で培った力とは、そういうものじゃ」
「そんな!? けど、ミアは……!」
「ミアはあやつに心酔しておる。あやつの為なら、喜んで自らの身を犠牲にしよるわ」
そうだった。ミアは鉄仮面との繋がりを消そうと、舌を噛み切って自害しようとまでしたんだ。となると、ミアが心変わりしない限り、黒幕であるあの鉄仮面を立件するのは難しいということか。
「まあ、ある程度は予想出来ていたさ。さっきの兄貴の件だって、仮に俺達が訴え出たところで”無かったこと“として処理されるのがオチだ」
マルヴァスさんは、特に悔しそうでもなさそうに言った後、じろりと僕を見据えた。
「ナオル、これが王都の暗部だ。貴族の実態だ。マグ・トレドが竜に焼かれ、ソラスの盗賊やオーク共が跳梁跋扈している時だっていうのに、お偉いさん達は保身と将来の地固めしか考えてねえ。俺が貴族を嫌がったのも分かるだろ?」
「マルヴァスさん……」
心底うんざりしたと言いたげな苦い表情を浮かべる彼に、僕はどう返したら良いのか分からなかった。
「うん、じゃあもう見るべきところは見たし、これ以上は良いかな、っと」
そんな僕達のやり取りを他所に、ブリアン王子が大鏡に触れる。すると、それまで鏡面に浮かんでいた謁見の映像が透けるように消えて、元の反射鏡に戻った。今や鏡面に映っているのは、正面に居る僕達の姿だけだ。
「さあ、これからいよいよ面白くなってくるよ~。竜に、盗賊に、オークに、僕とラセランの派閥に、”渡り人”。果たしてこの混沌の嵐の前に、王都はいつまで取り澄ました顔を続けていられるんだろうねえ? くっくっく……!」
享楽的で、何処か狂気じみた雰囲気すら漂わせるブリアン王子の笑みが、僕にはこの上無く不吉な予兆を象徴しているように見えたのだった。
長らく放置していて申し訳ございません。
今後も不定期ながら更新していく所存でございますので、何卒よろしくお願いします。
とりあえず、今回で第五章も終わりです。
次回から第六章、ナオルくんもしばしの平穏を得ます。