第百九十九話
「ヘイッ! 今だよ!!」
偽道化師の合図と共に、僕は最後の印契を完成させた。
「マルヴァスさん、下がって!!」
大声でマルヴァスさんに退避を促しつつ、組んだ両手を真下に向ける。
途端に変化する地面。波打つようにたわみ、地盤が沈下する。発生した長大な亀裂は、表層に生じた霜を豪快な音を立てて割りながら一直線に伸びる。
「っ!? これは……!?」
「ナオル――!」
攻撃に移ろうとしていたアグリスさんが俄に体勢を変え、飛び退って地割れに呑み込まれるのを回避する。殆ど同時に、マルヴァスさんも此方へ戻ってきた。
「ど、道化師さんっ!!」
「あいよー!」
喘ぎつつ偽道化師に呼びかけると、彼は言われるまでも無いとばかりにウキウキした調子で大釜に手を触れる。
すると、大釜から緑色の光が奔流のように溢れ、中心から周囲の地面に巨大な魔法陣が広がり、上に乗る僕達を囲むように光の膜が張られた。
「――! 逃がすか!!」
足場を確保したアグリスさんが、《フロウ・ジード》を手の中で回すように構え直す。大きく振りかぶられた剣身が強く発光して白い光鱗を纏う。するとどうだろう、それに導かれるようにいくつもの小さな氷塊が周囲に浮かんで空気までもが白味を帯び始めたではないか。
「“冷刃のアグリス”、その二つ名に懸けて――!」
そして彼は、遠く離れた僕達を薙ぎ払わんとするかのように虚空を斬り裂いた。
眩い光が白い軌跡を描くのと同時に放たれる、無数の氷塊と冷気の波。氷の包呪剣による魔法攻撃だ。恐らく最初に彼が仕掛けてきたものと同じか、その派生系だろう。
「わっ――!?」
思わず首をすくめる僕。氷塊と冷気は広範囲に展開しながら迫って来ており、躱すのは困難だとひと目で分かる。ただでさえ消耗している上に今も無理して魔力を練り、やっとの思いでもう一度『土流陥穽』の印契魔法を放った僕の息はとうに上がっており、そもそもこれ以上動けそうもない。
マルヴァスさんを此方に呼び戻す為に、一瞬だけでも良いからアグリスさんの攻撃を遅らせてほしい――。
そんな偽道化師の頼みに頑張って応えたのだが、果たしてこれで良かったのだろうか?
と、心の中で反芻している間も時間は止まってくれない。目の前に大量の氷塊が大写しになった。
喰らう――! と心の何処かで覚悟したが、結果としてそれは杞憂に終わった。
氷塊も冷気の波も、僕達を包む緑色の光の膜に尽く阻まれて消えたからだ。
「む――!?」
硬い巌壁に衝突したかのように次々と弾かれては霧散する氷塊を目の当たりにして、アグリスさんが意表を突かれた表情を見せる。
「ふふーん! これは古代シー族の魔道具からなる魔法だよ! 後追いのドワーフ製なんかじゃ貫けないんだなぁ〜これが!!」
偽道化師が勝ち誇ったかのように腰に手を当て、ふんぞり返る。そしてビシッ! と音がなるくらいに鋭くアグリスさんを指差して、真面目な声で告げた。
「王宮近衛隊長アグリス! 汝の心底、しかと見定めた! 我が弟に与しようとするその魂胆、私利私欲によるものでは無いと信ずるぞ!! ゆめゆめ、道を違えるなかれ!!」
「は……!?」
僕は唖然として偽道化師を見た。今、この人なんて言った……!?
だが、その疑問に答えが出るより早く、僕達を囲い込む魔法陣の光が激しさを増し、緑色の粒子が内部を満たす。
「待て――!!」
アグリスさんの怒声が、光の中に溶けて遠ざかる。
「さらば――!」
最後に偽道化師がそう宣言すると共に、全身が浮くような感覚を覚えて意識が曖昧になる。
魔法陣の緑光が更に強さと勢いを増し、それ自体が持ち上がって僕達の身体を足から頭まで通り過ぎてゆく。まるで人体をスキャンするかのように――
「(あれ……? これって……)」
魔法陣の動きに直近の記憶が刺激されるが、それに思考を巡らす前に視界が緑一色に染まる。
そして――
全身を包む浮遊感に身を委ね、僕は全ての感覚を手放した――
……………………。
…………。
……。
――最初に感じたのは、下降感。落下に伴う空気抵抗、とでも言えば良いのだろうか。
落ちている。僕の身体が、重力に従って下へと進んでいく。
無意識でそう感じ、次に頭の中が明瞭になり、目を開けた。
視界は、相変わらず緑一色。直前に何が起きたかはっきり覚えている。だから“相変わらず”と称した。
大釜から発生した緑の魔法陣。それから発される光に包まれ、浮遊感を覚えた。そして途切れる意識とこの下降感。
この感覚には馴染みがある。つい昨日、あの恐ろしい《記憶の塔》から脱出する際に――
「――って、ぎゃっ!?」
そうこう考えてる内に緑の光が収まり、視界が開ける。直後に強い衝撃が尻に当たって僕は悲鳴を上げた。
「い、いたたた……!」
ジンジンと熱を伴う痛みを覚え、僕は尻を擦りながら辺りに目を向けた。
「やはー! 脱出成功! 大釜の試練様様だったねー!」
偽道化師が両手を衝き上げて喜びを顕わにしている。
「転移魔法……!? あの地下ダンジョンから一瞬で移動したのか……!」
マルヴァスさんは自分の身体をしげしげと見回し、驚愕と感嘆を織り交ぜた表情を浮かべている。その頬には何本もの切創が刻まれ、着ているコートもあちこちが斬られたり破られたりしている上、防具の板金や革部分に至っては殆ど原型を留めていない。
アグリスさんとの戦いが以下に凄まじかったかを物語る恰好だった。それでも、見た感じ大きな怪我は負っていない。身体へのダメージを最小限に抑えたのは流石にマルヴァスさんだった。
取り敢えず、二人共無事なようだ。元気な姿を確認し、ホッと安堵の息を吐いた僕は、改めて周囲を見渡してみようと首を巡らす。四方は壁で覆われており、あちこちに小棚や本、そして何かの器材らしものが積まれている。
どうやら此処は、何かの用途に使う部屋みたいだけど……。
「……あっ」
目線を更に横にずらして、気付いた。僕達の正面に、大きな杖を構えた小柄な人物が佇んでいることに。
「やれやれ、一先ずは首尾上々というところかのう」
紺色のローブを着込んだ黒髪の少女だった。
彼女は僕達の方をしげしげと眺めながら、あどけない顔に満足気な笑みを浮かべている。
「あの、あなたは……?」
取り敢えず、僕はおずおずと彼女に声を掛けた。
よく見ると、彼女のローブは僕が着ているものと色こそ違えど同じ作りをしているようだ。無駄な刺繍等の入っていない、シンプルな造形。《竜牙の塔》に居るという、魔道士達の装い――。
まさか……!?
「こうして、面と向かって会うのは初めてじゃのう」
黒髪の少女は、慈しむように僕を眺めて小さく頷く。見た目にそぐわない落ち着いた仕草、安定感を覚える物腰。
そして、僕は気付いた。少女の頭頂から生える、一対の獣耳に。
猫の形――。
「初めまして“渡り人”。儂の名はフヨウ。王宮魔道士にして《竜牙の塔》のまとめ役。そして、ミアの祖母じゃ」
そう言って、黒髪の少女――フヨウさんは、僕に会釈して見せたのだった。