第百九十七話
アグリスさんの腰元から放たれる銀光。
目にも留まらぬ疾さの抜き打ちが、空間に横一文字の軌跡を残して振り抜かれる。
アグリスさんの立ち位置は、その場から寸土も変わっていない。僕も、隣の偽道化師も、僕達を庇うように前に立つマルヴァスさんだって圧倒的に射程の外だ。
だと言うのに――
「ひゃっ!?」
アグリスさんの抜き打ちに合わせて、大量の白い煙と凄まじい風圧が発生してこちらへ流れてきた。
「つ、冷たいっ!?」
肌に感じたのは、冷気。
身を切るような寒風が、僕達の全身を撫で付けながら辺りに吹きすさぶ。直前までの熱気を一瞬で冷まされ、頭の奥がガンガンと殴られるように痛む上、全ての血管やら毛穴やらが一気に収縮したかのように全身が軋む。
やがてその風も止み、白い煙も晴れて視界が良好になる。
「なっ――!?」
そして僕は絶句した。
イフリートの炎で未だ煮え滾っていた筈の地面が一変していたのだ。
薄く透明な氷の結晶で覆われた、凍土に。
「《フロウ・ジード》――!」
マルヴァスさんが、歯ぎしりすら混じえているような感じで苦く呟いた。
「やはり持ち出して来ましたか、兄上!」
「当然だ、我が二つ名の由来であるゆえ」
アグリスさんが、これ見よがしに剣を目の前に掲げる。奇妙な紋様が刻まれた直剣の剣身が、周囲の結晶から光を集めて怪しく煌めいていた。
「マルヴァスさん、あの剣は……!?」
「あの人の十八番、近衛兵隊長の地位を不動のものにした“包呪剣”――つまり、魔法の力を秘めた直剣だ! 効能は……見れば分かるだろ?」
確かに、この有り様なら一目瞭然だった。
「……氷の、力!」
マルヴァスさんの《ウィリィロン》と同じ、魔法の力が込められたドワーフ製の武器。
アグリスさんも、その遣い手なのか!
「昔の誼だ、クライン殿。最後に一度だけ勧告しよう」
今しがた放った氷の魔力よりも尚冷たい光を宿した瞳が、温かい血を分けた弟へ注がれる。
「――下がれ」
絶対零度の吐息と共に吐かれる、無情な命令。少し前までのマルヴァスさんなら、蛇に睨まれた蛙のように萎縮して諾々と従ったかも知れない。
だが、今の彼はもう違う。
「出来ませんな。その誼を否定したのは貴方です」
決然と、兄の勧告を撥ね付けた。
「そうか――」
その答えに、アグリスさんは激昂するでもなく、ただ僅かに腰を落とし――
「ナオルッッ!!!」
マルヴァスさんが構えていた弓矢の照準をアグリスさんに合わせ、同時に僕の名を叫ぶ。
不思議と、この時の彼の意図が僕には手に取るように分かった。
「っ!!」
腰に手を伸ばす。灰色のローブの上から巻いた帯。そこにあの短剣が差してある。
斬りたいと念じた対象を斬る、マルヴァスさんの兄が遣うものと同じ“包呪剣”、《ウィリィロン》が――!
「フッ――」
アグリスさんの身体が、二つに分かれた。
いや、決してそんなことは無いのだが、一瞬だけ映った僕の目にはそう見えた。
実際は、アグリスさんが残像を残す程の速度で地を蹴って、凍結させて無害化した溶岩溜まりを越えながら迫ってくる、という状況だったのだろうが――
「――!」
マルヴァスさんの指が弦を離す。
つがえられた矢が、一条の光のように飛ぶ。
同時に、僕はマルヴァスさんに向かって《ウィリィロン》を放り投げた。
「――」
キィン! と、金属がぶつかる音が鳴り響く。
アグリスさんが頭上へ剣をかざし、寸分違わず眉間目掛けて飛来してきた矢を防いだ。
瞬時の駆け引き。自分の動きを読んだかのように、移動経路を正確に測って矢を放った弟の判断に、兄は僅かに目を見開いた――ように僕には見えた。
そして、僕に見えたということは、アグリスさんの動きがほんの一瞬止まった、ということ。
その一瞬が、マルヴァスさんに態勢を立て直すゆとりを与える。
放物線を描く《ウィリィロン》が、しっかりと彼の手に受け止められる。
「――!」
アグリスさんの姿が再び揺らぐ。
そしてついに、間合いに踏み込んだ。
「さらばだ――」
微塵の躊躇もなく振り上げられる直剣。
――ギィィィン!!!
さっきよりも大きく重厚な金属音が鳴る。
「……そう簡単に、斬られるつもりはありませんぜ」
「……腕を上げたようだな、マルヴァス」
自分を断ち切らんと迫りくる兄の刃を、弟の短剣が拒んでいた。
「見事なものだ。先の一矢も、私の動きを予測して先に置いておくように放ってきた。最後に顔を見たときから、少しは成長したか」
鍔迫り合いの体勢になりながら、無表情のアグリスさんが抑揚のない声でマルヴァスさんを褒めた。
「何度……貴方の指導を、受けてきたと……! 弟子も、師の動きを見ているものですぜ……!」
対するマルヴァスさんに、余裕は見られない。顔は引きつり、苦しそうに声を出している。
辛うじて、一撃を防いだ――といったところだろうか。
「そうか、それは随分と見くびられたものだな。――では、これならどうだ?」
アグリスさんの姿がまたもや霞んだ。押し合っていた力が俄に消失して、マルヴァスさんがハッとした顔をする。
そこへ、瞬速の一振りが叩き込まれた。
「ぐっ――!?」
マルヴァスさんは既のところで《ウィリィロン》をそちらに向け、死角から迫る一撃を受け止める。
かと思えば――
「マルヴァスさん、右っっ!!」
思わず僕は叫んだ。剣を八相のように構えたアグリスさんが、マルヴァスさんの意識が向いた方と反対側に現れる。
「――っ!?」
不意打ちで繰り出された袈裟斬りを、マルヴァスさんは今度もギリギリのところで防御する。
「まだまだいくぞ」
まるで疲れを感じさせない声で、アグリスさんが宣言する。
直後に、彼の剣筋はマルヴァスさんの胴を狙って来た。
それを、《ウィリィロン》で叩き落とすように阻むマルヴァスさん。
だが彼が呼吸を整えようとする間に、アグリスさんは次々と攻撃の手を休めることなく放ってくる。
それらを尽く、だが危うい境地で防ぐマルヴァスさん。
アグリスさんの動きに迷いは無く、乱れも見受けられず、流れるように、飛ぶように、残像すら微かに残しながら無心に剣を繰り出し続けている。
マルヴァスさんは攻勢に転じる隙を見つけられず、瀑布のような怒涛の攻撃を瀬戸際で押し止め続けることしか出来ない。
あの、僕達の危機を何度も切り拓いてくれたマルヴァスさんが、まるで子供扱いだった。
恐るべき剣の腕。これが王宮近衛兵の隊長を務める人の実力か……!
《ウィリィロン》はマルヴァスさんの意思を反映して蒼い光を纏っているのに、それと交わるアグリスさんの直剣はびくともしない。本来であれば、一度でも打ち合わせれば勝負がつくという代物だというのに、だ。同じ“包呪剣”だからなのか、お互いの魔力が相殺しあって上手く効力を発揮出来ないでいるのかも知れない。
魔法の力が使えないとなれば、《ウィリィロン》は何物であっても斬れないなまくら。しかも、アグリスさんの操る直剣とはリーチにも相当の差がある。元々の、お互いの技量にも厳然とした開きがある。
アグリスさんが剣を振るう度に、マルヴァスさんの傷が増えてゆく。短剣の間合いで受け止めきれない直剣の刃が、微量に、しかし確実に、彼の身体に傷を刻み込んでいっている。
最初から防戦一方の戦いだった。いつ限界を迎えてもおかしくない。
「ど、どうしよう……!?」
さっきの魔法をもう一度使えれば……!
しかし、まだ足に力が入らない。《ウィリィロン》をマルヴァスさんへ投げ渡す程度が精々の今の僕では、この状況の助けにはならない。
このまま、黙って劣勢のマルヴァスさんを眺めるしかないのか……!?
「キミは何もしなくて良いよ。もう準備は整った」
出し抜けに、隣から不自然なくらい落ち着いた声が上がった。
偽道化師が、神妙な顔であの大釜に手を添え、何やらブツブツと呟いている。
「あの、何を……?」
彼の意図が分からず、僕はそう尋ねる。
「繰り返すけど、さっきのイフリートは“試練”なんだ。この大釜には、入場者に試練を課す役目と、もうひとつ別の機能を追加している」
「別の、機能……?」
オウム返しに呟いた僕の顔を、偽道化師が不敵な笑みで見る。
「必要な情報は手に入った。さあ、此処から脱出しよう」