第百九十六話
「お前達は地下遺跡を見学すると言っていたな? それがどうしてこんな有様になっている?」
明らかな詰問口調で、アグリスさんが部屋の中に足を踏み入れる。眼光は鋭く、視線だけで斬り刻まれそうなくらい冷たく研ぎ澄まされた気配が全身から漂っていた。
「兄上……!? 何故、此処に……?」
マルヴァスさんが、弓に矢をつがえたままでアグリスさんに向き直る。俄に張り詰めた声から、彼の緊張が僕にも伝わってきた。
「…………」
アグリスさんの足が止まる。僕達と彼を結ぶ直線上には、先程のイフリートとの戦いで出来た溶岩溜まりが未だ残っており、お互いを隔てる役割を果たしている。
……が、何故だろう。そうした物理的な障壁を挟んでいても、まるで安心出来なかった。
「先程、道化師の詰め所に立ち寄った」
少しの間を置いて、アグリスさんが重々しく口を開く。吐き出した声は低く、僕達を捉える目付きは鋭いままで緩む気配が無い。まるで敵と相対するかのような雰囲気に、マルヴァスさんも弓をしまうことが出来ないでいる。
そして、次にアグリスさんが紡いだ言葉は、彼がそんな態度を取るのも已む無しと、僕に否応でも理解させるものだったんだ。
「――道化師ハッセが、衣装を奪われ気を失った状態でそこの床に倒れていた」
「――!?」
ゾワゾワ、と。背筋を悪寒が走り抜ける。
道化師の待機部屋で、気絶している道化師が見つかった。
でも、道化師なら此処に居る。
何故――?
「それは妙ですな。彼ならちゃんと、此処に居ると言うのに」
言葉が出ない僕とは異なり、マルヴァスさんはあっさりと答えていた。その声にも佇まいにも、動揺らしきものは見えない。アグリスさんの登場に対する緊張はあっても、道化師の件はとっくに承知済みだったかのように――。
「如何にも、妙だ。ゆえに質しに来た」
アグリスさんの眼光が、僕の隣に向けられる。
「貴様は何者だ?」
「ん〜…………」
僕達を此処に導いた張本人は、困ったように首を傾げている。
「教えてあげても良いんだけどさ、その前にこっちからも質問させてよ」
そう答えた道化師の声は、僕達が出逢ってからずっと聴いていたあの耳障りなものに戻っていた。
「質問だと? 自らの立場が分かっていないようだな」
アグリスさんの目がより一層細められる。空気は更に緊張感を増し、一触即発の様相を呈してきた。
が、当の道化師はそんなのどこ吹く風と言わんばかりに、服が焼けて露出した腹部を惜しげもなく見せつけながらふんぞり返る。
「い〜や、分かってるよん。本物の道化師ハッセを襲って昏倒させた上、衣服と委任状を奪って彼になりすました正体不明者、ってね!」
ニヤニヤと笑いながら、余裕綽々の風情だ。ハッタリなのか、それとも何らかの根拠があってのことか。
いずれにしろ、火に油を注ぐ態度なのは変わらない。
「……今一度だけ、答える機会をやろう。貴様は、何者だ?」
アグリスさんの目が据わり、肩に掛かった白いマントを跳ね上げた。そのまま、手はゆっくりと腰に佩いた剣の柄に降りてゆく。
「…………!」
極まった場の空気に、僕はひとり生唾を飲み込んだ。
この状況……本来であればどちらにも加担するべきじゃない。偽の道化師と、アグリスさん。双方から距離を置き、成り行きを見守るのがきっと正しい選択だ。
ところが、この場に同席しているもうひとりの仲間が、全身でそうすべきじゃないと訴えている。
「――兄上、何故おひとりでおられるのですか?」
マルヴァスさんが、偽の道化師を庇うように口を開いた。
「クライン殿――」
アグリスさんが、口を挟むなと言うようにマルヴァスさんへ視線を移す。だが、鋼をも射抜きそうな兄の眼光を真っ向から浴びても、今度のマルヴァスさんは怯まなかった。
「この道化師を捕縛しに来たのなら、近衛兵を率いていなければおかしい。兄上は隊長だ。御役目で動くなら、部下を同行させる義務があるでしょう」
「…………」
マルヴァスさんの問い掛けにアグリスさんは言葉を返さず、目で『下がれ』と促している。以前のマルヴァスさんなら、それだけで引き下がっただろう。
だが、今の彼は違う。両脚に力を込め、弓とそこにつがえた矢をしっかりと握り、兄の目を見返している。これまで幾度となく屈してきた、兄から向けられる威圧感を跳ね除けようとしている。
何が、彼をそこまでさせるのだろうか?
「そーそーそー! 手前っちもそこが訊きたかったんだよっ!」
偽の道化師が、マルヴァスさんの指摘に同調して何度も頷く。
「宮中に出没した賊を捕まえよーってんならさぁ、少なくとも数人単位で纏まって行動するよねぇ〜? だってひとりで動いて、万が一返り討ちなんてコトになったら目も当てられないもんねぇ〜? いくら王都でも屈指の実力者だって言う、アグリス隊長さんでもさぁ〜?」
ヘラヘラ笑いながらさも可笑しそうに言葉を並べ立てる。誰がどう見てもアグリスさんを煽っている。
「そ・れ・と・もぉ〜? ひとりで手前っちを捜さなきゃならない、何か後ろ暗い理由でもあるのかぬわぁ〜ん?」
「ちょ、道化師……さん? いくらなんでも……!」
たまらず、僕は偽の道化師を制止しようと声を上げた。
冗談じゃない。どうしてこうも事態を悪化させようとするんだ……!?
そしてマルヴァスさんも、どうしてそんな立ち塞がる気満々でいるんですか!? 本気で、僕達を陥れたこの道化師を守ろうとしているんですか!? お兄さんのことを、あれだけ憚っていたのに……!?
「――やむを得んな」
アグリスさんの手が、剣の柄に触れた。そして――
「眠るが良い、凍土の中で――」
目にも留まらぬ疾さで、鞘から銀の光が一閃した。