第百九十三話
「ま、魔法を教えろって……!?」
迫られた道化師は、声に困惑をありありと滲ませた。
「お願いします! 覚える時間が無いから魔法陣は無理ですが、印契ならッ!!」
引かれても激しく食い下がる。今しかチャンスは無いのだ。
「僕が知ってるのは、あの“火球”だけ! でもそれじゃあ、火の上位精霊であるイフリートには通用しない! 他の魔法だったら……!」
強大な魔力を秘め、強力な魔法を行使出来るのが“渡り人”。
その力がチートかどうかなんて今はどうでも良い。生き残る為に利用出来るなら、存分に使ってやる!
あのイフリートに勝つ唯一の望みは、きっとそれだけなのだから……!
「…………」
道化師は、しばらく僕を値踏みするようにじっと見ていた。僕は焦れる心を抑えて強い眼差しを彼の顔に送り続ける。
炎の踊る音、空気を焦がす音、土が焼ける音、マルヴァスさんの掛け声と時折混ざる風切り音、怒れるイフリートの咆哮――。
鼓膜を震わせる情報から、激化するあちらの戦闘の様子が伝わってくる。そちらに目を向けたくなる衝動を、僕は懸命に抑えつけていた。
「――分かったよ」
無限にも感じられた数拍の後、道化師はそれまでのおちゃらけぶりが嘘のように真面目な様子で頷いた。
「――!」
彼の返事を聴き、僕は目を見開く。
「君の力を信じよう。でも、この閉所で水は危ないから、代わりに――」
そして、僕にとって第二の魔法の師によるレクチャーが始まった。
◆◆◆◆◆◆◆
少なくとも、イフリートの意識は完全に自分の方へ流れている。
「そうだ……! くっ! おら、もっと来い!」
縦横無尽に動く青い業火を紙一重で躱し続けながら、マルヴァスは時折言葉による挑発を挟む。
イフリートの注意を引く。今、この状況で自分に出来ることはそれだけだ。火蜥蜴ならともかく上位精霊などという相手に、魔法の力を欠片も持たない凡人の自分が抗し得るとは思っていない。魔道士を自認するあの道化師でさえも、まるで太刀打ち出来ていなかった。
この場を切り抜ける唯一の希望は、あの“渡り人”の少年だけだ。
「頼むぜ、ナオル……!」
脂汗と冷や汗を同時にかきつつ、マルヴァスは友に祈る。
「(友……友、か)」
その単語を心に浮かべた時、ふと感傷が胸の内をよぎった。
思えば、数奇な縁だった。クートゥリアからマグ・トレドへの旅の途中、ふらっと立ち寄ったベルヒエムの森で、グリム・ハウンドに追われている彼を見つけたのだ。
最初はよもや、と思った。次に、否定の感情が浮かんできた。偶然森で出逢った相手が、伝説に謳われるあの“渡り人”などである筈が無い……と。
しかし、彼の纏っていた衣服も、髪の色も、顔の作りも、目の色までも、この王都に居た時に目にした“渡り人”に関する記録と噛み合っていた。カマをかけてみたら、知らない国の名を言い、この世界の者では無いことも口にしていた。
それでも半信半疑だった。だがもし本物なら、これ以上無い程の拾い物に違いなかった。
だから、彼を自分の旅に伴ったのだ。
「ああ、クソッ! こんな時に、んなこと考えるなんてなっ!」
唸りを上げて迫るイフリートの拳を、またもやギリギリで飛び退って避ける。勢いで飛び散った青い炎がコートを掠めたが、幸いにも燃え移りはしなかった。
先程の巨大な火球を放ったことで相当消耗したのか、イフリートの動きは最初の頃に比べれば鈍くなっていた。そのお陰で攻撃範囲は狭まり、頻度も減ってかなりの隙が生まれている。
反撃に転じるなら今しかない。
「喰らえッ!!」
イフリートの攻撃が途切れた瞬間を捉え、マルヴァスは弓に矢をつがえて燃える巨人の眉間を狙い、射掛ける。
隼のように放たれた矢は、しかしイフリートに届く前に業火に包まれて燃え尽きた。
「やっぱりダメか……!」
やはり、イフリートの周りは灼熱の防護壁で覆われているのだ。細く小さな矢では、どれだけ正確に狙いを定めようと途中で阻まれてしまう。
長剣は先程投げてしまい、もう無い。弓矢でどうにかするしかない。
「弱音なんて吐けるかよ、アイツの前でよ」
マルヴァスは歯ぎしりして、眼前の強敵を見据えた。
ナオルは、自分を信じてくれている。友達だと、思ってくれている。それはもう、とっくの前から確信に変わっていた。兄の言葉責めから庇ってもらった時、その思いは増々強くなった。
その友情に、今の自分は胸を張って応えることは出来ない。自分を見るアイツの顔に、真っ直ぐ笑顔を返すことは出来ない。
だからせめて、アイツの期待を裏切ることだけはどうあっても避けなければ。
「考えろ、俺……! 何処かに付け入る隙はある筈だ……! 矢が通る部分が、何処かに……!」
深く息を吸い、意識を集中させて敵を観察する。後の先を合わせる感覚で、次にイフリートが動く瞬間を見定めようとした。
『マルヴァス、お前の矢は素直過ぎる。敵の急所を狙おうとし過ぎだ』
頭の中で、自分にとって弓術の“師”に等しい男の言葉が蘇る。
かつての大戦を共に戦った同胞。掛け替えのない“戦友”だった男。
貴族としてお上品な稽古を積んできた自分と違い、生粋の狩人として生身の獲物と命懸けの駆け引きを繰り返しながら生きてきた青年――。
『良いか、実際に戦う相手は呼吸もするし動きもする。その場に突っ立って動かない的とは違うんだ。よく観察しろ、相手の思考を読め。相手の立ち位置、纏う防具を見定めるんだ。何処を重点的に守るのか、どうやって飛び道具を防ごうと考えているのか』
脳裏に浮かぶ言葉に導かれるように、マルヴァスはイフリートの全身に目を走らせた。
奇妙な感覚が全身を支配する。動きも、音さえも止まってしまったかのような世界の中で、自分の呼吸と鼓動だけがやたらと大きく響く。
『全身全てが傷付かないように守るなんて、土台無理な話だ。必ず何処かに綻びがある。で、奴さんは弱点を見抜かれまいとあえてそこが目立たないように立ち回る。その思考を逆に辿れば、何処をどう狙えば良いのか自ずと見えてくるんだよ』
弓を扱わせれば百発百中を誇った彼。その射術は、必ずしも相手の息の根を止める必殺の一撃になるとは限らなかった。
それでも、その一矢は必ず功を奏し、敵の戦力を奪った。
マルヴァスは彼の腕前に舌を巻き、秘かに心の師として定めたのだ。
その彼ならどうするか――。
「――ッ!?」
見えた。矢の通る“道”が。
イフリートの足元。飛来した矢を燃やし尽くす程の高温があの精霊の周囲には渦巻いているというのに、ヤツの足元の土は溶けていない。地面は壁面と異なり、魔法を無効化する効果なんて施されていないにも関わらず、だ。
つまり、ヤツの下半身部分は、上半身に比べて温度が低い。身を守る灼熱の防護壁は、足先までは覆っていない。
瞬間、世界に音が戻る。
イフリートが、再びこちらを間合いに捉えようと大きく足を踏み出そうとする。
「そこだッッ!!」
会心の叫びと共に、マルヴァスは必中の構えで渾身の矢を放つ。
射出された矢は、猛る豪炎に呑み込まれることなく、地面から浮いたばかりのイフリートの脛に寸分違わず突き刺さった。
――グァアアアアアア!!?
予想外の攻撃を浴びて動転したのか、イフリートの体勢が崩れる。青い炎を纏った巨人は、もんどり打って地面に倒れ込んだ。
「よしっ! やったぜ!!」
文字通り一矢報いてやったという思いから、マルヴァスは思わず拳を握って快哉を叫ぶ。
その時である。
「マルヴァスさん、下がってッッ!!!」
待ち侘びた少年の声が、耳に飛び込んできた。




