第百八十九話
例えるならそれは、星々ではなく生命の歴史を記したプラネタリウム、とでも言うべきか。
道化師の描いた魔法陣から飛び出した無数の光の線は、部屋の壁と天井をスクリーンにして実に様々な絵画模様を描き出した。精緻な造形を縁取る白い光に照らされて、暗かった部屋の中が仄かな明かりに包まれる。視界は良好……とまではいかないが、最低限お互いの立ち位置と部屋の間取りが分かるくらいには、必要な光量が確保出来ている。
此処は、かなり広い空間のようだ。今年の三月まで通っていた中学校の体育館くらいの容積はあるだろうか。真っ平らにならされた長方形の地面の中央に、大きな釜がひとつ置かれている。
あの釜は何だろう? と思うが、それよりも今はこの光の絵画だ。
「むふふ、ど〜かな? ご感想は?」
道化師がニヤニヤ笑いを浮かべながら僕達に訊いてくる。
「すごい……としか、言えないです……」
「右に同じく……」
出てくるのは、なんとも月並みな感想。僕とマルヴァスさんは改めて壁と天井を見渡し、言葉にならない賛辞を溜息として表すしかない。
本当に、何から何まで幻想的で呑み込まれそうだ。
「お褒め頂きどーもっ! ではでは、早速イチから解説していこーっ!」
道化師は実に張り合いがある、といった風情でウキウキと壁の方に近寄る。僕達もそれに釣られるように後から続いた。
「これに描かれますは、大地創造の始まり! 【始祖竜】様と『雲』と『海』の対話の場面でござーいっ!」
道化師が手で示した先には、一頭の巨大な竜と、それを上下に挟むように位置する雲と海の絵があった。
「これって、《竜始教》の?」
「そそっ、シー族は《竜始教》の創始者だからね〜。この三者のやり取りこそが、彼らの神話の始まりなんだよっ!」
何故か得意気に胸を反らす道化師だった。
「初め、この世界には『雲』と『海』しかなくて、生命が暮らす大地が存在しなかった。でもある時、何処かから巨大な竜が現れて自らの身を陸地に変えた。『雲』は無数の雷を『海』に落として、『海』は沢山の生命を産んで、その彼らが陸に上がったのが世界の成り立ち……。とまあ、いわゆる《竜の揺り籠》誕生伝説だねっ!」
「その話なら以前聴いたことがあります。友達に《竜始教》の司祭さんが居るんですが、その人から……あれ?」
でも待てよ。僕はふと違和感を覚えた。前にジェイデン司祭からこの下りを聴いた時には見逃していた点だ。
「《竜始教》って、宇宙についての話は無いんですか?」
「ほい? うちゅー?」
道化師はピンと来ないように首を傾げた。
「ほら、夜の空に広がる星々はどうやって生まれたとか、そこには何があるのかとか、空の向こうにはどんな世界が形作られているのか、とか……」
「星は『雲』が産んだ夜空の装飾品で、夜の暗さを和らげる《雲の女神》の慈悲の顕れだよっ! 空の果てにあるのは《竜界》で、【始祖竜】様の領域だねっ! 死んだ生き物は炎で身体と魂を清められた後、そこに至るって言われてるんだっ!」
「あ、いや……はい」
話の噛み合わなさを感じて、僕はそれ以上言うのを止めた。どうも《竜始教》には宇宙観というものは無いらしい。
もしくは、本当にこの世界には宇宙なんて存在しないのか。何れにせよ、途方も無い話で僕には確かめようがない。“そういうもの”だと受け止めた方が良いのだろう。取り敢えず、今は。
「……って、《雲の女神》? それって確か、《聖還教》が主に崇拝している三女神の一柱なんじゃないですか?」
危うく流しかけた箇所を拾い上げて、僕は再び疑問を呈した。
それに対する道化師の答えは明確だった。
「そーだよ。三女神は元々、《竜始教》に登場する女神達だったんだ。それを抜き出して、自分達に都合の良い教義を作って主神として祀り上げたのが《聖還教》さっ。まぁ尤も、《竜始教》の方も主な導き手が人間達に代わってからは、教義の簡略化が進んで三女神の存在は廃れていっちゃったみたいだけどね〜」
「…………」
それと、“渡り人”も――。
「要は《竜始教》も《聖還教》も根っ子は同じ、シー族が唱える宗教に行き着くってことか?」
マルヴァスさんが道化師の言葉を要約する。それを聴いて、道化師も深く頷いた。
「そーそー。《原初の民》の名は伊達じゃないってね!」
「三女神について、もう少し詳しく教えてくれませんか?」
興味を掻き立てられたので、僕は道化師にそうお願いした。振り返ってみれば、三女神のことを深く追求しようと思ったのは初めてかも知れない。それどころじゃなかった、というのもあるが。
「ほいさっ、任せんしゃい!」
道化師はドン! と胸を叩いて快く請け負った。
「丁度次の絵がその三女神を描いたものだよ〜。さささっ、こっちおいで〜」
道化師の案内に従って、僕とマルヴァスさんは隣の絵の前に移動する。
彼の言葉通り、そこには三人の女性が描かれていた。左のひとりは古代ギリシャの話に出てくるようなキトンを纏い、中央のひとりは裾や袖が余ったチュニックを着ている。そして、右のひとりは……
「……もしかして、これ鎧ですか?」
「ああ、戦装束だなこの女」
僕の指摘に、マルヴァスさんも同意を示した。
「左から順に説明するよっ! こほんっ! え〜、こちらのスラッとした綺麗な布服の御方が《潮の女神》リール・レカン! 先の話に出てきた『海』に相当する女神で、主に水を司る女神だねっ!」
キトンを纏った女性に手を伸ばしながら、滔々と語る道化師。
「真ん中のダ〜ボダボの服を着た女性が《冥の女神》リア・ライフィル! 三女神の中で、この御方だけは後から誕生したって言われてるんだ! 地下の世界、《竜の揺り籠》となった【始祖竜】様のお腹の中でねっ! だからシー族の間でも、この女神を他の二人と同格として扱うかどーか激しく議論されたみたい! こうして壁画に一緒に描かれていることからも分かるよーに、結局は無事女神達のお仲間に入れたワケだけどもねっ!」
この女神の名前には何度か聞き覚えがある。サーシャの葬儀の時に祈りを捧げた神様で、モルン村のホワトル牧師さんも口にした名前だ。道化師の話しぶりからして、【始祖竜】の娘とも言える存在なのかも知れない。
「最後に紹介します右のこの御方こそ、三女神中最強との呼び名も高い、《雲の女神》パルナ・キアン! 雲から上の天空は全てこの御方のものであり〜、逆らった者には容赦ない罰を加える恐ろしさも兼ね備えた美しき荒神! 雷、嵐、竜巻! 天候にまつわる一切の現象は全て彼女の声であ〜る! 我々は畏れ敬い、常に彼女のご機嫌を損ねないよう気を配る必要があるのであ〜る!」
「……。パルナ・キアン……」
これもまた、ごく最近になって耳に馴染んだ神様の名前だった。
雷の魔法を駆使しながら僕達を追い詰める鉄仮面に、黒い飛竜。アイツらの力も、少なくとも一部は間違いなくこの女神を模したものだった。
「さてさて、それぞれの触りの部分としてはこんな感じだけど、も〜っと詳しく語る? 長〜い深〜い話で重厚さは保証しちゃうよんっ!」
「いや、良い。知りたいことは大体分かった。神話や神様についての講釈はまた今度にしてくれ」
マルヴァスさんが、痺れを切らしたように断った。
僕としてはもう少し聴いてみたいところだが、確かにそこまで時間は掛けられないだろう。メルエットさん達の謁見が終わる前には上に戻らなくてはならない。
「それよりも、俺はシー族に興味があるな。連中は何処から来て、どういう風に暮らし、どんな魔法を使っていたのか。《原初の民》って言うくらいだから、そろそろ話に出てくるんだろ?」
ミアの話からでは窺えなかったシー族の秘密を探りたいのだろう。メルエットさんを護る立場に居る僕達にとっての喫緊の大事は、彼女やその背後に居る例の鉄仮面について少しでも情報を得ることなんだから。
マルヴァスさんも最初からそのつもりでは無かったのだろうが、このダンジョンが《原初の民》によって造られたものなら話は別、といったところだろうか。
「えっ、シー族? うんうん、良いよ! 凄く良い! 勿論話して上げるさ! じゃあ、シー族が登場する箇所に……ん?」
上機嫌に身体を翻した道化師が、ふと怪訝な声を上げる。彼の視線を追って、僕達もそちらを見た。
そして、一気に緊張が全身を走る。
「釜が……光ってる!?」
部屋の中央に設置された大きな釜。それがなんと、紫色の光を蓄えながら激しく明滅を繰り返しているのだ。
「あ、あちゃ〜……。大釜が反応しちゃったみたい……」
珍しくバツの悪そうな声を出す道化師。その反応で察する。
何か、ヤバい事態になった――と。
「ナオルッ!」
マルヴァスさんの鋭い声が飛ぶ。僕はハッとなって、大釜に目を凝らす。
大釜の口から紫色の煙が溢れ、地面に流れていく。ボコボコボコッ、と中で何かが蠢く音が響く。
そして――
「あれは――!?」
大釜の中から歪な形をした黒い手が飛び出し、確かな力で縁を掴んだ――!