第百八十二話
ローリスさんを介抱した僕達は、誰ともなく無言のまま馬車に戻った。
ドアを閉めたところでメルエットさんが呆けたままの御者さんに指示を出し、僕達を乗せた馬車は再び王宮へ向けて動き出す。
「……悪かったな、つまらないとこ見せちまって」
しばらく重苦しい沈黙が続いた後、最初にそれを破ったのはマルヴァスさんだった。窓の外を流れ行く景色に力無い目を向けながら、小さく詫びの言葉を口にする。
「そんな……! マルヴァスさんが悪いなんてことはありませんよ!」
すかさず僕は否定するが、マルヴァスさんは「フッ」と自嘲気味に鼻で笑う。
「俺よりも、そっちの大男を気遣ってやれよ」
と、《トレング》を抱えて背中を丸めるローリスさんを目で見ずに指差す。
「あァ!?」
途端に顔を上げ、マルヴァスさんを睨みつけるローリスさん。が、その眼光にも声にも何処か力が入っていない。
「ローリス殿、お怪我の具合は如何ですか?」
メルエットさんが心配そうに横から顔を覗き込むと、ローリスさんはたちまち萎縮したようにまた俯いてしまう。
「こんなの、怪我の内に入りや……入りません」
普段の彼からは想像できない、消え入りそうな声だった。もしかしたら肉体的なダメージよりも、精神的なダメージの方が大きいのかも知れない。
「申し訳、ありません、お嬢様。俺の勝手な行動で、またご迷惑を……」
「良いのです、ローリス殿。お気持ちは私も良く分かりますから」
メルエットさんはしおらしく謝罪するローリスさんを慰めながら、マルヴァスさんの方に顔を向ける。
「マルヴァス殿、レインフォール家とはまだ……?」
「さっきの通りだメリー、仲直りなんざしていない。向こうも望んじゃいないしな」
相変わらず流れ行く景色に顔を固定したまま、マルヴァスさんが素っ気なく言った。
「あの……レインフォール家って? マルヴァスさんの名字は確か……」
「俺の“元”実家さ。今の『クライン』って名字はおふくろのだよ」
おずおずと尋ねる僕に、やはりマルヴァスさんは振り向かないまま答えた。
「…………」
淡白とすら取れる口調に、それ以上追求するのが躊躇われた。
「まァ仕方ねぇさ。俺は自由と引き換えに貴族の地位を棄てたんだ。向こうにゃそれがどうしても許せないんだろうよ。俺だって飼い殺しの宮仕えや、冷や飯食いの次男坊って立場にいつまでも甘んじていたくはなかった。ナオル、お前にはこの話したっけな?」
「はい、以前少し聴きました。騎士の位が授与されたけどそれを断って、ご家族と大喧嘩になったとか……」
「少し違う。先の大戦で賜った恩賞を、それ以前に貰った騎士の位と合わせて返上したんだ。国王からの下賜を突っ返したって部分が特に親父を怒らせてな。『国王陛下の恩賞を蔑ろにするとは何たる傲慢! お前は自分が満足する為だけに無用の謙譲を行い、陛下の威信を傷付けた!』とかなんとか、黴臭い説教をしてきやがって。ガチガチのお抱え貴族そのものだったな、あの醜態は」
「騎士の位を蹴ったァ!?」
ローリスさんが素っ頓狂な声を上げ、信じられないものを見る目でマルヴァスさんを見つめた。
「お前……っ、貴族で騎士ってことは、王宮騎士への抜擢ってことだろ!? 地方騎士とは違う、王都の防衛を任される上級士官の仲間入りってことじゃねェか! それを自分から棄てちまったてのかよ!?」
「おやローリス、今の地位では不満か? コンラッドが折角お前を見込んで念願の騎士に取り立ててくれたってのによ」
「茶化すんじゃねェ! どういうつもりでやがんだ!? 折角の騎士を……!」
ローリスさんは憤怒の形相でマルヴァスさんを睨むが、当の本人はそっちを見もせずに飄々としていた。
「さっきも言ったが、俺は自由と引き換えにしてそれまでの全部を棄てたんだ。誰もが立身出世を夢見ていると思うなよ、ローリス」
「ちっ、風来坊が……! テメェの親父に怒って損したぜ」
忌々しげに舌打ちをして、ローリスさんがそっぽを向く。
「ははは、あれは意外だったぜ。まさかお前が俺の為にあそこまで熱くなるなんてな」
「テメェの為じゃねぇ! あのジジイの口の利き方が我慢ならなかっただけだ!」
いつものようにからかうマルヴァスさんに、ローリスさんが顔を赤く染めて口を尖らせる。メルエットさんはそんな二人を見比べて、『困った人達』と言いたげに苦笑いを浮かべていた。
僕はふと、以前ローリスさんが語った彼の身の上話に思いを巡らせた。
騎士になりたいと言った彼を心から応援してくれた両親。息子が義勇軍の一員に加わることを認め、送り出し、最期まで呼び戻そうとはせずに息子の望む人生を歩ませた、その思いやり。
取り戻したいと願っても二度と得られない家族の絆。ローリスさんが持つ両親のヴィジョンと、マルヴァスさんのお父さんは全くそぐわないのだろう。もう両親と共に過ごすことは出来ないという想いも相まって、ローリスさんの中で怒りや苛立ちが必要以上に煮え滾ってしまったのかも知れない。
「でもよローリス、ありがとうな」
「……あ?」
悪戯っぽく笑っていたマルヴァスさんが不意にその笑みを収め、神妙な口調でそんなことを言ったので、ローリスさんは元より僕とメルエットさんも呆気にとられた。
「俺の代わりに怒ってくれて、ありがとうと言ったんだ」
「な、なんだよ急に……? 気味悪ィぞ!?」
本気で寒気を感じたかのように、ローリスさんがドン引きの表情を浮かべて身を仰け反らせる。
「マルヴァス殿……」
メルエットさんは、何かを耐えるようにマルヴァスさんを見つめるだけだった。
マルヴァスさんの顔は、依然として窓の外を向いている。
「兄貴は王宮騎士だ。それも禁裏の警護を司る近衛兵師団に属する連隊長のひとり。実力は王都の中でも五指に入るらしい。お前が全く太刀打ち出来なくても当然だ」
「兄貴って、あのジジイの横に居たひょうろくだまか。あの野郎、動きの起こりを捉えたと思った次の瞬間にはもう間合いに入ってやがった。そんなに強ェヤツだったのか」
「はは、あの一瞬で兄貴が攻撃する気配を感じ取っただけでも上出来だ。頭に血が上って無かったら、もう少し上手く対応出来たかもな」
「うるせっ、余計なお世話だ!」
一方的に完膚なきまでにやられたように見えたローリスさんだけど、自分の身に何が起きたのかは最初の時点でしっかり把握していたようだ。流石に何度も実戦を重ねた猛者なだけあって、戦闘センスは磨き上げられている。マルヴァスさんの見立てでも、怒りに支配されていなければもっといい勝負が出来たらしいし。
しかしそれにしても、あれがマルヴァスさんのお兄さんなのか……。これまた僕の兄さんとは随分と像がかけ離れている。父親に追随して、弟であるマルヴァスさんに兄弟の縁を否定する言葉を投げつけた。僕がマルヴァスさんの立場だったら、きっと……
「ナオルも、ありがとうな」
「……へっ?」
突然僕に話を振られ、思わず間抜けな声を発してしまう。
「親父を呼び止めてくれて、よ。嬉しかったぜ」
「マルヴァスさん……」
嬉しかったという割に、その声には弾みが無い。
「だけどもう充分だ。俺は親父や兄貴からああいう扱いを受けても仕方無いし、何よりもう他人だ。どう言われようが、俺は気にしない。だからお前も、彼らに睨まれるようなことはするな」
敢えて明るさを増した調子で、マルヴァスさんは軽快に言葉を結んだ。
僕でも分かる、これは空元気だと。
気にしていない筈が無い。父親と兄からあんな心無い言葉を投げつけられて、平気でいられる方がおかしいんだ。少なくとも、僕はそうだ。
元気づけたい、何か励ませる言葉を送りたい。しかし、どう言えば良いのか分からない。
もどかしい気持ちを抱えたまま、時間だけが過ぎてゆく。そしてついに、その機会は逸してしまった。
「……お、見えてきたぜ。王宮の門だ」
ずっと窓の外を眺めていたマルヴァスさんが、感傷に浸る時間の終わりを告げたのだった。