第百八十話
「あだっ!?」
何かに身体がぶつかる衝撃と、それに伴う自分の悲鳴で目が覚めた。
最初に認識出来たのは、逆さまになった床と天井。上下逆になったベッドの上で、上下逆の姿勢で寝息を立てるコバの姿が僅かに映った。
ベッドからずり落ち、頭から床に落ちたのだと理解するまでそれから数秒を要した。
「いててて……」
痛む頭に手をやって、ベッドの上に乗ったままの足を引いて床に降ろす。それから後頭部を擦りつつ、ゆっくりと身体を起こした。
「やっぱ夢、か……」
さっきまでの光景を思い浮かべ、僕は軽く嘆息する。目覚めた瞬間に記憶から薄れる夢もあるけれど、さっきの姉さんとのやり取りは鮮明に脳裏に焼き付いていた。
「もう朝になったのかな」
閉じられたカーテンの隙間から緩やかな曙光が差し込んでいる。既に夜が明けているのは間違い無さそうだ。
「コバは、まだ寝てるか……」
昨夜のメルエットさんとのあれこれがあった時からずっとだ。相当疲れていたんだろう。普段の気の張り方から考えれば当然かも知れない。
僕はコバを起こさないようにそろそろと身支度を整える。その最中、昨夜の出来事と今しがた見た夢を胸の内で反芻した。
「姉さん……」
色々な想いがよぎるが、最も強かったのはやはり先程見た夢に対する“疑問”だった。
「本当にただの夢? それとも、サーシャみたいに……」
夢で出逢ったサーシャは、実は精霊としてずっと傍に居た。夢の中で本当に彼女と会話を交わしたのかどうか定かではないが、同様の現象が姉さんでも起こっていると考えても良いのだろうか?
現に前回は、気を失っている間に姉さんから警告を受けた。そして実際、その後にワームとの決戦になった。
まだある。そのワームとの戦いで僕達が泉の畔に追い詰められた時、姉さんの幻影が現れて僕に魔法陣を描かせた。僕自身、全く知る由も無かったあの炎の竜巻みたいな魔法を発動させる魔法陣を。それによって辛くもあのワームとの戦いを制したんだ。
それに加えて今回の夢だ。これをただの偶然として片付けるのは、無理なんじゃないか?
「姉さんも、こっちに居るの? 僕の知らないところで、ずっと僕を見守ってくれているの?」
ペンダントのチャームを開き、僕達三人が写った写真を眺める。写真の中で笑顔を浮かべる彼女は、現実にはこの場に居ない。居る筈の無い彼女に向かって問い掛ける。当然、答えなんて帰ってこない。今も沈黙しているサーシャといい、真偽を確かめる手段が無い。
分からない。余りにも謎だらけだ。ただ、現実にしろ幻にしろ確かなことがある。夢の中の姉さんは、僕に具体的な助言を送ってくれた。
「ミアのお婆さんに会え、か」
姉さんはその人が僕の力になってくれると言っていた。“渡り人”の力を制御出来るよう導いてくれると。
だったら、今はそれに縋ってみよう。元々その人とは会わないといけないんだし。
家に帰るという最大の目的が揺らぎ始めていた僕にとって、姉さんの言葉は天啓に等しい。
「ありがとう、姉さん」
ペンダントを握り締め、この世界に実在するかどうかも定かではない彼女に向かって、僕はそっとお礼を言った。
直後に、部屋の扉がノックされる。
「おはようございます、ナオル様、コバ様。イザベルでございます。開けてもよろしゅうございますか?」
「あっ、は、はい! 構いませんよ!」
止まっていた手を動かし、急いで身支度を終える。ブレザーのボタンを留め終わったのと同時に扉が開き、イザベルさんが顔を覗かせた。
「おはようございます、イザベルさん。わざわざ起こしに来て頂けるなんて恐縮です」
昨夜のメルエットさんとの顛末が頭に蘇り、微妙に緊張しながら挨拶する。あの時、部屋の外で様子を窺っていたこの人なら一部始終を把握している筈だ。見たところ表情に険しさは無いが、心の中では僕に対して穏やかではない感情が渦巻いているのではないか?
「ぅ、うぅ……朝……?」
今のやり取りで目が覚めたのか、コバが寝ぼけ眼をこすりながら身を起こした。
それを横目で見ながら、イザベルさんが威厳のある声音で告げた。
「お嬢様が、王宮へ伴う従者にナオル殿を加えられました。登城に際し、相応しいお召し物をご用意致しております。諸々の準備も合わせて行います故、別室へお越し願えますか?」
◆◆◆◆◆◆◆
王宮へは、メルエットさん、ローリスさん、マルヴァスさん、そして僕の四人が赴くことになった。
コバ、フィオラさん、フォトラさんは館に残留だ。ミアやドニーさんの様子に気を配りつつ、留守を預かる役目を彼らは担っている。ゴブリンは元より、ワイルドエルフもこの国では扱いが軽い方だ。国の中枢も中枢と言える王宮には伴わない方が良い、というのがイザベルさんとの相談の上でメルエットさんが下した判断だった。気が滅入るような話だが、メルエットさんだってしたくてやっている事じゃない。それに、実際館に残る人材に精鋭の士を加えることは必要だった。昨日の失敗を経てより一層警戒を強めたフォトラさんであれば、付け入る隙を見せないだろう。
「いやー、王宮なんて実に久しぶりだ。二度と行くことは無いと思ってたんだけどな」
粛々と貴族区の中を進む馬車の中で、一番快活に振る舞っているのはやはりマルヴァスさんだった。
「本当に良いのかよ、メリー。ローリスはともかく、俺もナオルも無位無官の民間人なんだぜ?」
窓から外の景色を眺めていたマルヴァスさんが、正面に座るメルエットさんに目を戻した。
「表向きは、私に従ってマグ・トレドから共に旅をした騎士の一員、ということになっています。城内へ伴うだけなら何の不都合も生じないでしょう。ナオル殿に関しても……」
と、そこでメルエットさんがちらっと僕を見たので、僕は慌てて目を伏せた。
「伝説に謳われる“渡り人”そのものであるのです。陛下に直接ご説明申し上げる機会があるやも知れません。近くに居てもらった方がよろしいのです。万が一、お二人が咎められるようなことがあれば、この私が責任を負います」
「立派になったもんだ。人の上に立つ者としての器量ってやつが磨かれてきたな、メリー」
明白な受け答えをする妹分に、マルヴァスさんは感慨深げな声を上げる。
「なあ、お前もそう思うだろ、ナオル?」
「……そうですね、僕も同感ですよマルヴァスさん」
僕はメルエットさんを見ずに、マルヴァスさんに笑い掛けた。固い笑みだというのは自分でもよく分かる。
「……? なんだ、お前ら何かあったのか?」
勘の鋭いマルヴァスさんは、それだけで僕達の間に微妙な空気が蟠っていると察したようだ。しげしげと僕とメルエットさんを見比べた後、「はは〜ん」と訳知り顔で頷いた。
此処でからかわれては面倒だ、と密かに身構えたが、幸いマルヴァスさんは僕達の関係については言及せず、代わりに僕の恰好を指差して笑った。
「しっかしナオル、中々様になっているじゃないか。まさに魔道士って風貌だぜ」
「そうですか? ありがとうございます」
言われて改めて、僕は自分の服装を見直した。
手首まで覆う程の長袖とくるぶしまで届く長裾の、灰色のローブ。今は脱いで膝の上に乗せているのは、同じく灰色に染まったとんがり帽子。
杖こそ無いものの、この風体はやはりひと目で魔道士と分かるそれだった。まるで現代ファンタジーの祖と名高い例の作品に登場する灰色の魔法使いみたいな恰好に、テンションが上がらないかと言えば嘘になる。以前マルヴァスさんからもローブを借りていたことがあるが、あっちは服の上から羽織るマントに近い造形だったのに対し、こちらは正装という扱いみたいだ。
「でも、この姿で王宮へ言っても大丈夫なんですか? その……謁見って言うからにはもっと着飾っていないと失礼に当たるんじゃ……?」
周りの三人を見渡しながら、僕は控え目に疑問を呈した。
昨日にも増して華やかなドレスを着込んで化粧も完璧に施してあるメルエットさんはともかくとして、マルヴァスさんもローリスさんも優雅なイメージからはやや遠い恰好をしていた。袖も襟も詰められたひと目で上質と分かるロングコートを着込んではいるものの、その上から要所要所を板金や革で覆っている。貴族然としながらも何処か戦いを想定した装い。更に言えばマルヴァスさんは弓と長剣、ローリスさんは大槌と、二人共しっかり自分の相棒を携えていた。武人である二人らしいと言えばらしいが、国王の御前で見せる姿としてはどうなんだろう?
「気にしすぎだ、舞踏会じゃないんだぜ」
僕の心配を、マルヴァスさんは笑顔で一蹴する。
「昨日の襲撃から考えても、王宮であれ何が起こるか分からん。自分達の身を守る用意はしとかねぇとな」
剣の柄を撫でてそう言うマルヴァスさんには迷いがない。
「それに、ナオル殿のその恰好は《竜牙の塔》に所属する魔道士達に通ずる正式な装いらしいです。ミアの祖母に接触する端緒を開く為にも有効でしょう」
メルエットさんが僕を見て頷く。
「そういやマルヴァス、あの後あのネコは何か吐いたのか?」
ローリスさんが気怠そうな顔をマルヴァスさんに向けながら言った。イザベルさんの目を離れたからか、ようやく緊張から解き放たれたとその目は語っていた。
「ああ、中々楽しいお喋りだったよ。あいつの故郷の話とか種族の歴史だとか、沢山聴いた」
昨夜行ったミアへの尋問を思い出したのだろうか、マルヴァスさんは愉快げに喉を鳴らした。
「……それだけか? 肝心な事が何も聴けてねェじゃねェか。ちゃんと痛めつけてやったのかよ?」
「おいおい考えてもみろよローリス。アイツは元々自分の役目が済んだら舌を噛み切って自殺しようとしたんだぜ」
物分りの悪い子供を前にした時の教師のように、マルヴァスさんはやれやれと肩を竦める。
「そんなヤツを拷問したところで効果は高が知れてる。そういう相手に口を割らせるには根気が要る。まずはこちらから寄り添うように見せかけて、警戒心を解かせないとダメだ。口枷を外すのだって、一種の冒険だったんだぜ? それに、アイツの自殺を思い止まらせたところで、ネルニアーク山で捕らえた盗賊の頭みたいに変な魔法が仕込まれていないとも限らねぇ。おいそれと核心には迫れねぇんだよ」
「ですが、マルヴァス殿は一夜で彼女の歓心を勝ち取ったようですね」
メルエットさんが満足そうに目を細めた。
「まぁな。あのシー族、元々自分が溜めた鬱憤を誰かに聴いてほしかったんだろう。堰を切ったように色々と愚痴っていたよ。殆どが《聖還教》の坊さんには教えられないような内容だった。フィオラちゃんもびっくりの舌の滑らかさだぜ。あの二人で討論させると中々面白いかもしれねぇ」
ふわぁぁ……と、あくびを噛み殺しつつマルヴァスさんが答えた。
僕は酒蔵の暗闘でミアが言い放った言葉を思い返した。確かに、あの時わざわざあんな事を主張する必要は何処にも無かったんだ。それなのに敢えて口にしたというのは、彼女自身が誰かに訴えたくて堪らなかった事柄だからだろう。僕は気になってマルヴァスさんに詳しく尋ねてみた。
「具体的に、ミアはなんと言っていたんですか?」
「ん〜? まあ、大体が《黒の民》として悪名高いシー族の言い分ってところだったな。自分達が《原初の民》で俺達より偉いんだとか、故郷のバレクタスは良いところだとか、まあ色々。相手も中々一筋縄でいかなくてな、無秩序に喋ってるように見えて奴さんの背後に関わるような情報は吐かなかった。まぁ、気長に付き合うさ」
「そうですか……」
苦笑いを浮かべるマルヴァスさんに、僕はそれ以上言えなかった。ミアの祖母について何か分かったのかも、という期待は淡く散った。まぁ、それならマルヴァスさんの方からそう言い出していただろうが。
しかしそれにしても、と僕は改めてマルヴァスさんの横顔を見た。相変わらずこの人は他者の心を動かすのが上手い。頑ななミアの心を僅かなりとも動かしたんだ。心の機微というものをよく理解していないと出来ない芸当だ。
回想してみるまでもなく、僕はこっちの世界に渡ってきてからずっとこの人に助けられている。生命を救われ、迷いを払い、僕自身気付いていない問題も的確に指摘してくれた。右も左も分からず、無様に頓死するところだった僕の手を取り、ずっと引っ張って来てくれた。
一番の恩人にして、掛け替えのない友達。兄さんや姉さんに次ぐ、心の師と言っても過言ではない。
そのマルヴァスさんが、今も一緒に居てくれる。それだけで、昨日から続いている心の動揺が少し収まったような気にするんだ。この人は、僕の心の拠り所のひとつになっていた。メルエットさんとのことで彼に嫉妬心を抱くこともあったけれど(今ならあの時の自分の心の動きが嫉妬だったと分かる)、それだけは確かな想いだ。
「……? どうしたナオル、俺の顔に何か付いているか?」
「いえ、何でもありません」
僕は穏やかな気分で、緩やかに首を振った。
「そうか? そういやナオル、お前の方はどうなんだ? あれから、サーシャは出てきたのか?
」
「いえ、ずっと音沙汰無しですね。まぁ、こっちも気長に待ちますよ」
実際、サーシャに対しては現状待ち姿勢を取るしか方法が無い。僕は苦笑いを浮かべながら、さっきのマルヴァスさんの言葉に乗っかるようにそう言った。
壮麗な貴族区の街並みを、僕達を乗せた馬車が進んでゆく。王宮まで、後どれくらい距離があるのだろうか?
と、会話も途切れて何となく窓の外に目をやっていた僕だが、急に前の方で馬の嘶きが上がり、馬車が停止したことで我に返った。
「何がありましたか?」
メルエットさんが御者台の御者さんに問い掛ける。
「いえ、それが突然、前に他の馬車が現れて道を塞がれてしまい……」
御者さんは困惑げにそう答える。
メルエットさんは眉をひそめてローリスさんを見遣った。
「様子を見て来やしょう……いえ、来ましょう。お嬢様は此処に居て下さい」
ローリスさんは《トレング》を手にドアを開け、馬車の外に出た。
「待てよ、俺も行くぜ」
マルヴァスさんがすぐ後に続いた。僕も少し迷ったものの、彼に続いて外に出てみることにした。
「あ……」
その際、メルエットさんが何か言いかけたが、僕は逃げるように彼女の視線を振り切ってドアを潜って地面に降りた。
既に、ローリスさんとマルヴァスさんが馬車の前を遮る存在に向き直っている。
ところが、いつものように鋭気を漲らせて腰を落としているローリスさんに対し、マルヴァスさんは立ち尽くしているだけだ。
「どうしたんですか?」
と声を掛けた僕はギョッとした。マルヴァスさんの顔が青ざめている。あのマルヴァスさんが、だ。
その視線を追ってみた。彼らが見ている先には、道を阻むように横を向いた別の馬車がある。僕達が乗ってきたものと負けず劣らず、豪奢な装飾が施された高級感溢れる馬車だ。貴族達が棲まう区域の中ということもあり、中に乗っているのはやはり貴族だろうか? 窓があるが、ここからでは陰となって中の様子が窺えない。
と、不意にそのドアが開いた。中から人が降りてくる。若い、といっても中堅どころと言っていい雰囲気を纏った長身の男性だった。端正な顔立ちに怜悧な目で、前に立つ僕らの顔を静かに見渡す。
そして、その後に続いてもうひとり、馬車から現れた人物が居た。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
すっかり白くなった髪と髭を蓄え、杖をついた老人だった。苦しげに二、三度咳をしたかと思うと、鋭い眼光に不穏な色を添えて僕達を睨めつけた。
いや、より正確に言うならそれは、ただひとりに対して向けられたものだったのかも知れない。
「父上…………」
信じられないような目で老人を見つめ、呆然とそう呟いたのは、他の誰でもなくマルヴァスさんだった――。