第百七十一話
「全て、包み隠さずにお話し致します」
介抱の甲斐もあって意識を取り戻したドニーさんは、悄然とした様子で素直に事情聴取に応じてくれた。
《記憶の塔》で僕が垣間見た通り、彼は奥さんが患った病について深く頭を悩ませており、回復の兆しを見せず刻一刻と死に近付く妻の姿を見るにつけ胸が掻き毟られ、ここ最近でその悲嘆が一気に深くなった。
「彼女を……アリッサを喪うなんて、耐えられない。そんな風に思い詰めていた時に、あの《黒の民》が現れました」
ミアがドニーさんに接触を図ったのは、一昨日の晩である。彼女はドニーさんに、この館へ例の大鏡を持ち込む手助けをしてほしいと持ちかけた。対価として、妻を病から救う手立てを講じようと囁いて。
『ミアの御主人様なら、その女を死の淵から引き上げてやるのも朝飯前ニャ。シー族の魔法は、お前ら《後続の種》が想像も出来ない程に深遠で貴く、秘めたる霊験に満ち満ちているのニャ。《原初の民》は、始祖竜様の寵児。始祖竜様の真髄は、生命の御業。人間の女ひとりの生命など、秤の上に置かれた羽根に等しいのニャ』
おおよそこういう風に、ミアはドニーさんを唆した。
「大それた事をやる訳ではない。あの大きな鏡を、この館に持ち込むだけ。それで妻の生命が助かるのなら……。彼女の話を聴いて、私はこう考えてしまったのです」
藁にも縋る思いで、ドニーさんはその取引を受け入れた。しかし、館の警備体制や管理体制は厳重で、このような目につく巨大な鏡を人知れず持ち込むのはほぼ不可能だった。おまけに、館の主にして主君でもあるイーグルアイズ伯爵の御息女が到着した日ともなれば、館に勤める人々の意識も一層冴え渡って研ぎ澄まされていることだろう。
ミアと共にあれこれと方策を検討した末、夜陰に紛れてミアが館を撹乱している隙に事を成すという段取りを組むことにした。
不審な人影を追って館中の人間が動き回っている間に、ドニーさんは大胆にも鏡をそのまま内部へと運び込んだ。
当然、途中で何人かの目に留まったが、備品の移動だの骨董品の保護だの臨時の点検だのと適当な理由を告げれば、深く追及してくる者は皆無だった。他の使用人さんや衛兵さん達からすれば、その時最も優先してすべきなのは不審人物の捜索だったし、ひと目見てすぐ鏡と分かる代物に警戒心を向ける必要性は低かった。加えて、運んでいる人物が館中でも評価が高く、イザベルさんの信任篤いドニーさんであるという事も重なれば、特段疑う理由は無い。
「家政婦長にさえ出会さなければいけると思ったのです。そして実際、その通りに事は運びました」
目論見通り、自分の管轄である地下の酒蔵に大鏡を運び入れたドニーさん。これで約束は果たした。妻の生命を救える。
しかし俄に胸に灯った希望は、翌朝合流したミアの言葉で陰らされる。
『もうひとつ、やってほしいことがあるのニャ。昨日館に辿り着いたメルエット嬢の一行に“ナオル”という人間のガキが居る筈ニャ。そいつをどうにかして誘い出し、この鏡の前に連れてきてほしいのニャ』
鏡を内部に持ち込むだけならまだしも、特定の人物を誘引せよとの要求に、ドニーさんも流石に危ぶんで二の足を踏んだ。
しかし結局は妻を救いたいという欲求、毒を喰らわば皿まで、という意識に己の心が傾いた。
「どの道、遅かれ早かれ鏡の件は露見する……。それだけでも、これまで築いてきた信用を揺るがすには充分なんだと気付けば、後はもう躊躇いませんでした……」
それ以上、ドニーさんは罪悪感と向き合うのをやめた。誘い出した人物が、その後どういう目に遭うかも考えないようにした。
葬儀の準備にかこつけ、どうにか僕と接触しようとしたドニーさんだったが、そこで思わぬ障害が現れる。
『あのう、申し訳ございませんです。清めの薬酒を取りに行くよう仰せつかりまして……。よろしければ、管理人たる貴方様にご同行願えるとありがたいのですが……』
『メルエットちゃんにも話は通ってるよん♪ 私達だけじゃ不慣れだから、案内してもらえると嬉しいなっ!』
コバとフィオラさんが、ドニーさんが酒蔵の管理をしていると知って声を掛けてきたのだ。《聖還教》の司教さんとの軋轢を避ける為にと、メルエットさんとの相談の上で僕がコバにお願いした事だった。
出鼻を挫かれた形のドニーさんだったが、下手に断って怪しまれてはまずいと思い、二人の申し出を受けて一緒に酒蔵へと向かうことにした。
僕を誘い出す機会ならまた巡ってくる。葬儀が終わるまでに別の口実を考えれば良い。この二人に鏡の存在を怪しまれても、言い繕う用意はある。そう考えるドニーさんには、不安の陰は全く無かった。
ところが――
『そ、そこの棚の上に居るのは誰でございますですかっ!!?』
酒蔵に潜伏していたミアが、運悪くコバに見つかってしまった。夜目の利くコバには、地下の暗闇など問題にならなかったのだ。
ミアの対処は早かった。暗がりでナイフの刃が光ったかと思うと、次の瞬間には自分の掌を切って鏡面に叩きつけた。
「鏡から紫の光が溢れて、収まったと思った時にはもう、あの二人の姿は消えていました。そこで、私は悪い夢から醒めた思いがしたのです」
目の前でミアの血精魔法を見せられ、ドニーさんの心は恐怖と後悔で支配された。とんでもない事の片棒を担いだという自覚が、ようやく明確に芽生えたのだ。
これ以上協力出来ない、自分はもう降りる。底知れない恐怖を抱きながらも、ドニーさんは気丈にもミアにそう宣言した。
『だったら……お前も自分の“記憶”に溺れてしまえニャー!!』
土壇場で裏切ったドニーさんに対し、ミアは容赦しなかった。未だ血の滲む己の掌をもう一度鏡面に伸ばして――
「紫の光が、私の目も焼いて……。気付いたら、私は塔のような場所に立っていました。そこには、さっき姿を消したあの二人も居て……。エルフの方が、やけに興奮した様子であちこち見渡しながら声高に独り言を呟いていたのが妙に印象的でした……。私は何が起きたのか訳が分からず、ゴブリン殿と共に呆然と立ち尽くしているばかりで……。そうしている内に、あの仮面を被った人間が現れたのです。二言三言話した覚えはありますが、そこからの記憶は殆ど曖昧で……。次に気付いた時には、もう全てが過ぎ去った後でした……」
そう言って供述を締め括り、ドニーさんは最後に『申し訳、ありませんでした……っ!』と腹の底から絞り出すように謝罪の言葉を述べた後、顔を覆って泣き始めたのだった。




