第百七十話
特に抵抗感とか、侵入を拒む為の反発力といった類は感じなかった。
ありとあらゆる病原菌の温床となっていそうな汚い川に身投げをするような心持ちでいたけど、空間の裂け目に飛び込んだ時に被害を浴びたのは、過剰な色彩の暴力をこれでもかと突き付けられた視覚だけで、それを除けば他に五感を蝕むような害は無い。
その代わりに……
「ひゃぁあああ〜〜!!? 落ちる! 落ちてるぅぅぅ〜〜〜!!!」
下方からフィオラさんの悲鳴が上がってくる。彼女が言い表してくれた通り、裂け目に飛び込んだ途端僕達は否応なくフリーフォールをさせられる羽目になった。
汚く濁って淀みきった空模様だけの空虚な世界を、僕達は何処までも落ちてゆく。下に落ちるということは重力が働いているということだろうに、空気の抵抗らしきものを身体に受ける感じは無い。耳が痛むことも、肌を風が切ることも無い。奇妙な感覚だった。
だが、更に奇妙なのは……
「う……! なんだ、これ……!?」
《記憶の塔》に保管された“記憶”群の取り零しだろうか、数々の断片的な誰かの“記憶”らしきものが次々と脳内で再生されては、泡沫のようにすぐ消えてゆく。
取り留めのない、意味さえも掴めないような、短く限られた“記憶”の欠片。それに付随する、細切れになった様々な思念。老若男女詰め合わせの、千差万別さながらに目まぐるしくやって来る無数の人々の声や映像が、僕の頭に容赦なく注ぎ込まれる。
「ううっ……!」
津波のように押し寄せる情報の波状攻撃から少しでも自分を守ろうと、僕は必死に頭を掻き抱いて歯を食いしばる。コバとフィオラさんの様子を確認する余裕も無いが、恐らく二人も同様の苦しみを味わっていることだろう。気絶しているドニーさんだけは無事かも知れないが。
「サーシャ……! サーシャ……!! どうすれば良い!? この後、僕達はどうやったら……!?」
このままでは脳が破裂して死んでしまいそうだ。僕は気を紛らわせようとする目的も兼ねて必死でサーシャに呼び掛ける。
だが、いくら彼女の名を呼んでも、一向にサーシャは返事をくれない。いや、もっと言えば彼女の気配すらも煙のように掻き消えてしまっている。
「サーシャ!? 何処だ、サーシャ!? お願いだ、返事をしてくれ……っ!!」
次第に焦りが生まれてくる。僕達を間一髪で黒い飛竜の雷撃から逃がしてくれたサーシャ。この逃げ道の存在を教えてくれたサーシャ。だけど、当の彼女の姿だけが、此処には無い。
悪い想像が胸中に膨れ上がってゆく中、僕の耳は不意に、“記憶”の声とは質の異なる別種の【声】を拾った。
『――い、おい! 儂の声が聴こえるか!? 聴こえておるなら応えい!』
「……っ!? だ、誰だ!? 僕に言ってるのか!?」
その余りにも明瞭な、誰かに呼び掛けるニュアンスを含んだ【声】に対し、僕は半ば反射的に返事をする。
『おお! 良かった、通じておるのじゃな!?』
【声】の主が、明らかに僕の応答に安堵している様子を見せた。口調からして、年配の人だろうか? だが、声の調子は随分と軽くて澄み渡っており、そして高い。……女性?
『良いか、要所だけ言うからよく聴くのじゃ! 今から儂が、そなたらをそこから脱出させる!』
「えっ!? どうやって!? あなたは誰……」
『黙って聴かんか! 時間が無いのじゃ!』
僕の疑問を、【声】はピシャリと跳ね除けた。
『下手に動くでないぞ! 今丁度、その空間に居るお主達を捉えたところじゃ! 術の照準がずれぬよう、落ちるに身を任せておれ! もっと早くに気付けておれば良かったのじゃが、現段階で可能な干渉としてはこれが精一杯じゃ! しかし、必ず四人共脱出させてやるから安心せい!』
謎の【声】は、妙に自信に満ちた調子で断言する。
突然投げかけられた謎の人物からの呼び掛けに、当然ながら警戒心が呼び起こされる。しかしそれよりも、この異常な空間から一刻も早く現世に戻りたいという願望が勝った。
僕達を此処から脱出させてくれるのなら何でも良い。現在進行系で極めてヤバい状況に置かれているのは変わらないのだから。サーシャのことも気になるが、まずは皆の安全確保が第一だ。
僕は一縷の希望を胸に、謎の【声】に意識を集中させた。
『ミアが大層迷惑を掛けた! 心から詫びる! そなたらの手で殺されても文句は言えんが、どうか願わくば生命だけは留めておいてやってほしいのじゃ!』
……この人、ミアの関係者か? だとすれば、あの鉄仮面とも繋がりが……。
『これだけは先に言うておくが、そなたが出逢うたあの鉄仮面とは、儂も敵同士じゃ! 後日、《竜牙の塔》へ来ておくれ! そこで全て説明するからの!』
……え? 《竜牙の塔》? それって確か、ダナン王国の魔道士達が集まっているという、あの――
『では行くぞ! 顎を引いて、腹に力を込めい!!』
「待って! あなたの名前は!?」
『儂はミアの祖母! 名は――』
聴こえたのは、そこまでだった。
「っ!?」
僕達の真下に、それぞれ四つの魔法陣が現れる。それは眩い光を放ちながら、僕達の全身をスキャンするかのように頭から爪先まで上ってきて、そして――――
………………。
…………。
……。
「うわあああっ!!?」
光が消えると同時に、目の前に明るい地面が大映しになる。
そのまま、僕達は全員で折り重なるようにドサドサと大きな音を立てながら倒れ込んだ。
「むぎゅっ!?」
「い、いったぁぁ〜〜いっ!!」
「ぐぇ……! なんで、僕が一番下……?」
冷たい床にぶち当たる衝撃の直後に、次々と新たな重量が積み重なる。真上から聴こえる声に、コバやフィオラさんが僕の上から倒れ込んできたというのが分かった。
「フィオラっっ!!」
「っ!?」
フォトラさんの声がして、僕は痛みも忘れて顔を跳ね上げた。
「ナオル! 良かった、無事で……!」
「おう、戻ってきたか! どう救出したものかと皆で頭を捻っていたところだ!」
「くたばっちゃいねぇようだな。心配して損したぜ、ったく」
メルエットさんも、マルヴァスさんも、ローリスさんも、皆居る。顔をしかめるイザベルさんも……。
「“くたばっちゃ”? “ったく”? ……ローリス殿? 言葉遣いは直すよう、昨夜散々注意しましたね?」
「ヒィッ!? い、いや……! いえっ! 違うんです、これは安心するあまりに、つい……!」
イザベルさんに睨まれ、途端に萎縮するローリスさん。
そんな彼を尻目に、フォトラさんは大股でこちらにやって来た。
「あ、兄貴……っ!?」
無言でフィオラさんを引き起こし、感極まった表情で彼女の顔を見つめると、フォトラさんは最愛の妹をしっかりとその腕に抱き締めた。
「良かった……っ! 無事で……! フィオラ……っ!」
「あに、き……」
しばらく呆然とフォトラさんに抱擁されるがままだったフィオラさんだが、次第に彼女の方も感情が込み上げて来たらしく、震える声音でしっかりと兄を抱き返した。
「うん……! ただいま、兄貴……っ!」
感動の再会を果たしたワイルドエルフの兄妹。その姿に、僕の胸にも熱いものが込み上げる。
「此処は……?」
改めて周りを見渡してみると、そこは大鏡に吸い込まれる前に居た酒蔵ではなく、何処か別の部屋だった。
「お前達が消えた後、フォトラがコイツを連れて戻ってきたんだ」
マルヴァスさんが親指で自分の背後を指差す。
「フ〜……! フゥゥゥ〜〜〜……!」
そこには、椅子に縛り付けられて猿轡まで噛まされたミアが居た。敵意と悔しさを剥き出しにした目でこちらを睨んでいる。
「粗方の顛末はフォトラ殿から聴きました。貴方達を取り込んだというその大鏡を地下からこちらへ移し、皆で救出の為の策を考えていたところです」
メルエットさんの言葉に、僕は振り返って後ろを見た。
あの大鏡が、そこにあった。僕を飲み込む時に発していたあの紫の光はすっかり収まって、今はただの鏡に見える。
「すまなかった、ナオル殿。私が君の忠告を無視したばかりに、君まで危険な目に遭わせてしまった」
フォトラさんがフィオラさんの抱擁を解き、目尻に溜まった涙を拭ってから僕に深々と頭を下げる。
「言い訳のしようも無いが……せめてこれだけは言わせてくれ。フィオラを、妹を護ってくれて、ありがとう……!」
「そんな……! 頭を上げて下さい、フォトラさん。むしろ、僕がフィオラさんに助けられたようなもので……。と、とにかく、皆無事だったんだからそれで良いじゃないですか」
「いや、今回の件は、明らかに私の失態だ。どのような処罰も甘んじて受ける。なんなら、君の気が済むまで叩きのめしてくれても構わん」
「しませんよ、そんな事!?」
僕は慌てて彼の言葉を拒否する。真面目なフォトラさんのことだから、ミアの策に嵌った自分が許せないのだろう。いくら妹の身を案じていたとしても……いや、むしろだからこそなのかも知れない。私情に囚われた結果として味方を危難に遭わせたという事実は、軍人だった彼に重く伸し掛かるのだろう。
「まあ、フォトラへの処罰云々は一先ず置いといて、だ」
マルヴァスさんが、未だ気を失っているドニーさんに近付き、腰を落として彼の様子を確かめる。
「まずは事態の全貌を把握するのが先だ。ナオル達から詳しい話を聴くのは当然として、後はこいつと、そこのシー族からも改めて事情聴取をしないとな」
「ドニー……! どうして、あなたがこのような……!」
イザベルさんも、声に遣る瀬無さをありありと表しながらドニーさんへ歩み寄る。この館の使用人を束ねる家政婦長として、ドニーさんの普段の謹直ぶりを知る上司として、きっと心の中では嵐のように複雑な想いが渦巻いているのだろう。
それはそれとして、彼女が離れたことで、ローリスさんがあからさまにホッとした表情を見せている。本気がイザベルさんが苦手らしい。
「何よりもまずは、生還したナオル殿らの手当てが優先です。侍医、彼らの診察と治療を。誰か、別室で待機して頂いている司教殿を呼びに行きなさい。それから、あの大鏡には布を掛けて厳重な警備を付けるのです!」
メルエットさんがテキパキと指示を出し、周囲の使用人さん達が機敏に動き出す。今日の事態は、彼らの手で最後の始末が付けられるのだろう。
還って来られた……。生きて、脱出出来たんだ……。そんな実感が、ようやく心の奥から湧いてくる。
同時に、そこはかとない不安感と、喪失感にも似た感情も……。
「ナオル様……」
コバの声がして、僕は彼の方を見た。
コバは、何か言いたげに僕の顔を見上げている。言葉にされずとも、僕には分かる。
「サーシャ……」
目を閉じ、もう一度彼女に強く呼び掛けてみる。
返ってくる応えは、やはり無かった。