第百六十九話
ひび割れて砕ける灰色の空、メッキのように剥がれ落ちる仮初の景色。
大鏡を通じて入った特殊な空間、《記憶の塔》。やはり此処は、何処までも現実の法則を超えたところにあるようだ。
巨大な白い円盤のような床、無限に広がっていると思えた上空。
僕がサーシャの指示に従って火球を撃ち込んだ箇所は、それらを取り繕うための結び目のようなものだったのだろうか? 正直理屈はさっぱり分からないが、風の精霊となったサーシャには、何らかの手段で常人の僕達では気付けない突破口を見出だせたに違いない。
そして、崩壊した空の向こうから現れたのは――
「そ、空が、割れましてございます!?」
「うひゃあ! 何なのアレ!? またえらく濁ってて気味が悪いわね!?」
フィオラさんが思い切り顔をしかめるのも無理は無い。
赤、青、黒、橙、黄、etc……。色んな絵の具を適当に詰め込んで混ぜ合わせた後、ダメ押しとばかりに熱で煮たようなドギツイ色彩で染まった別の空間が、そこにあるのは当然とばかりに堂々と鎮座していた。なんだか、《記憶の塔》の本質を垣間見たような気がして、僕は思わず身震いする。
『ナオル、彼処へ向かって全力で走って!!』
無言のサーシャが、その狂った色空間に向けて真っ直ぐ指を伸ばす。声は無くとも、仕草と表情からそう言っているのが把握できた。
僕はしっかりと頷いてから、立ち尽くすコバとフィオラさんに向かって叫んだ。
「コバ! フィオラさん! 彼処へ駆け込むんだ! 急いで!!」
「ナ、ナオル様!?」
「ナオルくん、本気!?」
「本気だよ! サーシャがそう言ってるんだ! 彼女を信じて!!」
僕は地面に落ちた《ウィリィロン》を忘れずに回収すると、飛竜の攻撃で出来た床の凹凸に足を取られないよう気を付けながら走り出し、同時に二人を強く促した。
幸いなことに、空に出来た裂け目は地上にまで続いており、走って向かえばそのまま飛び込むことが出来る。
「サーシャ様が……! 承知しましてございますです!」
「いやそう言われても……第一、サーシャって誰!?」
「この子ですっ!!」
足を止めずに、隣を飛ぶサーシャをフィオラさんに紹介する。
「僕の友達で、風の精霊! 以上!!」
「いや、以上って、ナオルくんさぁ……って、精霊!? うっそ、ホントに!!?」
「話は後です! チャンスは今しかありません!!」
「……あぁもう! 分かったわよ、ナオルくんを信じるっ!」
半ばヤケ気味ながらも、フィオラさんは背中に背負ったドニーさんをしっかりと担ぎ直しながら、濁った裂け目に向けて足を踏み出した。
「でも、後でその精霊ちゃんとお話しさせてね~~~っっ!!」
裂け目に向かって走りつつ、フィオラさんはちゃっかりサーシャへの興味をアピールする。変なところで吟遊詩人としての魂に火が点いてしまったらしい。
「ナオル様とサーシャ様もお早く!!」
一瞬だけ躊躇う表情を見せた後、コバは決意を固めたように表情を引き締めながら僕とサーシャにそう呼び掛け、フィオラさんに続いて駆け出した。
「分かってる! 僕達に構わず、とにかく早く行くんだ、コバ!!」
迷いを吹っ切ったコバの背中を更に押すように返事をして、僕とはちらりと隣のサーシャを見る。
『あの子、強くなったね』
心做しか、彼女は感慨深そうにコバの背中を見ていた。
――グゥゥアアアア!!!
けたたましい咆哮が背後で轟く。ハッとなって思わず振り返った僕の目に、竜巻を破って飛び出してきた黒い飛竜の姿が大映しになる。
「逃がすものか!! お前だけは、決して!!」
なんと、その背にはあの鉄仮面の人物が騎乗しているではないか。例の雷の魔法力が込められた樫の杖を片手に飛竜を駆るその姿は、度重なる妨害によって僕の確保を阻まれたことへの怒りを全身に表わしており、鉄仮面の人物の並々ならぬ執念がこれでもかと滲み出ている。
一体どうして、僕の何がそこまであの人を駆り立てるのか。あの鉄仮面の人物は、ヨルガンに輪を掛けて異常で理解し難い。僕に拘る理由が“渡り人”だからではない、と本人は明言していた。他でもない僕だからこそ、どうしても手に入れたいと。その為にミアを使い、ドニーさんを抱き込み、この《記憶の塔》への入り口となるあの大鏡をメルエットさんの館に持ち込み、コバとフィオラさんまで巻き込んだ。
そこまでする理由がさっぱり分からない。分からないからこそ、怖い。
この鉄仮面は、僕の何だと言うんだ?
『させない!』
サーシャが、僕を庇って黒い飛竜の前に立ち塞がる。
「つくづく邪魔な精霊めが! 今度こそ現世から完全に消し去ってくれる!!」
鉄仮面が飛竜の背中の上で高々と樫の杖を掲げる。バチバチ! と火花が走り、杖の先に球状の電流が形作られる。
「危ない、サーシャ!! ……!?」
彼女を護ろうと身を翻した僕の頭上を、小さな何かの影が追い越して行った。
それは燕のように速く、正確に飛び、今まさに杖を振り下ろさんとしていた鉄仮面の仮面部分に勢い良く命中した。
「ぐっ……!?」
突然あらぬ方向から飛来した攻撃に怯んで、鉄仮面の人物が思わず魔法を解く。
「ナオル様にも、サーシャ様にも、もう手出しさせませんです!! このコバめが、二度と!!」
コバだった。小脇にいくつかの砕けた破片のようなものを抱えている。僕はすぐに思い当たった。先程の飛竜が放った万雷で穿たれた無数の床の穴。コバはあの周辺から、小さく割れた床の破片をこっそり回収していたに違いない。いざという時、礫として使えるように。
「流石だよ! ありがとう、コバ!!」
コバが機転を利かせてくれたお陰で助かった。僕とサーシャは再度目で合図を交わし、再び鉄仮面と黒い飛竜に背を向けて駆け出した。今の内だ!
「精霊といい、ゴブリンといい……! 《黒の民》の、シー族の友であるべき者共が、尽く牙を剥くか……!」
地の底から響く呪詛のように暗い呟きが背後から聴こえる。その声が纏う歪な妖気とでも言うべき迫力を受け、僕は思わず振り返る。
「ナオルは私のものだ……! 誰にも渡さん……!!」
最早妄執に等しい、凄まじい狂想の念。
それに呼応するように、黒い飛竜が両翼を畳んで全身を丸める。
「げっ……!? またアレが来る!?」
神の怒りを体現したかのような万雷。その予備動作に入った飛竜を見て、全身に悪寒が走る。
今アレを撃たれたら為す術が無い。鉄仮面の人物は、完全にタガが外れてしまったのか? 僕が手に入らないなら、いっそ殺してしまおうとでもいうのだろうか?
『ナオル! コバ!』
サーシャが、眦を吊り上げた決死の形相で僕に振り向く。
そして、俄に掌を広げたかと思うと、そこに小さいながらも精密な意匠の魔法陣が浮かび上がった。
『イチかバチか、いくよッ!!』
魔法陣が発光して回転を始める。するとサーシャの身体が、解けるように細かな緑色の粒子に変化していった。
「サーシャ!?」
と、驚きの声を上げる間もなく、その緑の粒子は空気の流れに乗って僕の周囲を包み込んだ。
「うわっ!?」
途端に身体が軽くなり、足の裏が床を離れて浮き上がる。まるでいきなり無重力空間に放り込まれたかのようだ。
「サ、サーシャ様!? これは……!?」
「えっ? えっ!? なにこれ、魔法!? 風の精霊の魔法なの!? うわっ、良く分からないけど凄い!! 詩のフレーズが浮かんできそう!!」
コバも同様に緑の粒子に全身を包まれ、宙に浮いている。更にその奥では、もうすぐ裂け目に辿り着こうとしていたフィオラさんとドニーさんも。
『お腹に力を込めて! 歯を食いしばって!』
「え――?」
声にならないサーシャの言葉が、直接僕の心に訴えかけてきたように感じた時、黒い飛竜も同時に動いた。
――ゴォォガアアアアア!!!
大の字のように全身を広げると共に放たれる、耳をつんざく何重ブレンドの雷鳴と無数の稲妻。
『いっけぇぇぇえええ!!!』
「な、ぎっ――!?」
上げようとした声が途中でぶった切られる。
僕とコバの身体は、見えない力で思いっきり押し出されたかのように吹っ飛んだ。いや、事実背中にとんでもない勢いの風圧が掛かり、この途轍もない推進力を生んでいる。サーシャの、風の精霊による魔法だと、息が吸えない状態の頭でどうにか理解する。
僕達の周囲にいくつもの稲光が瞬き、落雷の衝撃音が鳴り響く。が、それをまともに視認することは叶わない。のけぞった顎先、辛うじて視線の最下部から見える、空間の裂け目。コンマ何秒かの割合で、それが巨大になってゆく。
フィオラさんとドニーさんが、その中に飲み込まれた。コバが、その中に突っ込んでいった。
『やったわ!!』
そんなサーシャの歓喜の声を、心の中で聴いた気がして。
僕もまた、名状しがたい色相に我が身を埋めた。




