第百六十八話
闇から抜け出さんとする流れの中。
僕の脳裏に、今日一日の出来事が走馬灯のように蘇る。
ネルニアーク山で散っていった護衛兵の皆の葬儀、戻ってこないコバとフィオラさん、シー族の暗殺者ミア、竜の大鏡、《記憶の塔》、謎の鉄仮面、垣間見たコバ達の“記憶”、僕の過去と名前の意味、父さんがずっと抱いていた憎悪と哀しみ、そして……【精霊】として再会したサーシャ。
正直、余りにも多くの出来事が一気に起きすぎて、頭がパンクしてしまいそうだ。貧弱な僕のキャパシティでは到底受け止めきれず、理解にも遠く及ばず、色々と感情の処理が追い付かない事柄が山程ある。
だけど、とにかく今は、狂おしくて胸が張り裂けそうで仕方無い様々な想いに、頑張って一旦蓋をしよう。たった一時で良いから、あらゆる雑念を振り払い、ただひとつの事だけを見据えよう。
「(この空間から脱出する! コバも、フィオラさんも、ドニーさんも、皆で一緒に!)」
その為の手順は、サーシャが教えてくれた。
迷う必要は無い。彼女の導き通りにやるだけだ。
この僕の“記憶”だか心の中だか知らないが、此処から戻れば絶望的に不利な状況が眼前に立ち塞がることになるだろう。それでも、今の僕に恐怖は無かった。
サーシャが傍に居てくれる。僕を見守っていてくれる。
「(理屈なんてどうでも良い、ただそれだけで充分だ――!)」
闇の彼方から光が零れる。それは瞬く間に大きくなり、包み込むように解けて黒く淀んだ暗闇を清らかな純白に塗り替える。全てを受け入れ、迎え入れるかのような温かさを感じながら、僕は強く口元を引き締めた。
そして、全ては現実へと還る――。
………………。
…………。
……。
「――っ!」
意識が覚醒して真っ先に感じたのは、胴体と右脚に絡み付く不快で筋肉質な圧迫感。目を上げると、低空に留まり背を向けた姿勢で僕目掛けて二本の長い尾を伸ばしている、黒い飛竜の姿。こちらを見下ろす漆黒の横顔を飾る赤い眼はまるで血塗れた冷たい刃のようで、生物らしき躍動感に欠け、感情の類も発しているようには思われない。
僕は黒い飛竜の尾に巻かれたまま、それに支えられる形で気を失っていたようだ。
足の裏に感じる床の感触を確かめる。どうやらまだ、空中に身体を浚われたりはしていないらしい。“記憶”の中に飛ばされてから、然程時間は経過していないのかも知れない。
「うわっ! ちょ、危なッ!?」
「くッ! この……っ! ナオルさまッ! すぐ、お側に……っ!」
少し離れた先で、フィオラさんとコバが襲来する他の飛竜の尾を必死に避けながら何とかこちらに近付こうと悪戦苦闘している。これも気絶する直前と殆ど変わらない光景だ。二人がまだ無事であることを確かめて、僕は僅かに安堵の息を吐く。
だがグズグズはしていられない。やるべきことを済ませないと。
「“飛竜”! ナオルを抱えて上空へ飛べ!!」
鉄仮面の人物が、痛む頭を抑えるように仮面に手を当てながら、苛立ちを混じえた大声で黒い飛竜に命令を下す。
――ガァアアア!!
主人の指示に応えるように一際高く吠えたかと思うと、黒い飛竜は俄に首を巡らせて上昇の体勢に入る。同時に僕の身体に巻き付く尾の圧力が増し、上方向への負荷が加わる。
「(まずい――!)」
《ウィリィロン》は気絶した時に僕の手を離れてしまったらしく、足元の床に虚しく転がっている。たとえ今この手にあったとしても、この飛竜には刃が通らないことは先程証明済みだ。
残った対抗手段は、ただひとつ。
「(火の、印契魔法――! あの火球なら!!)」
ダメージこそ与えられなかったものの、当たれば怯ませることくらいは出来る。悲鳴を上げ、空中でバタバタしていた飛竜の姿だってちゃんと覚えているんだ。
問題は、この状態であれを放てば、胴体に巻き付く尾の締め付けが緩む前に、撃った反動による負荷で僕の背骨なり肋骨なりがポッキリいってしまわないかという点だが……。
「(だけど、迷っている時間は無い――!)」
既にかかとが浮いている。僕の身体は、今にも飛竜によって上空へ連れ去られようとしている。そうなってからでは遅い。
高い高度から落下するか、背骨と肋骨の犠牲を覚悟で今動くか。二つにひとつ。
コバを、フィオラさんを、僕の仲間達を護る為には――
「こうするしか、ないんだよッッ!!」
躊躇いを振り切り、僕は両手を突き出し飛竜に向けて印契を構える。
瞬時に精神を火のイメージで満たし、極限まで意識を集中させて魔力を高め、掌から火種を生み出す。
しかし、いざ魔法を放とうとしたその瞬間――
「ぐぁっ!? ああああッッ!!?」
僕の身体を凄まじい衝撃が貫き、頭の芯から爪先まで灼き切れるような激痛が走り、組んでいた印契が崩れて完成仕掛けていた火球が霧消する。
「妙な考えを起こすんじゃない! 感電死したいのか!?」
鉄仮面の人物が放った罵声で、何をされたのか理解する。
痛みと熱さに眩む目で僕を締め上げる飛竜の尾を見ると、表面を走っていた青白い電気の線が丁度立ち消えるところだった。
尾を通じて、僕の身体に直接電流を流されたのだ。
然程の電圧では無い。さっきの万雷に比べれば、蚊が刺すような程度の攻撃だろう。それでも、人体にダメージを与えるには充分だった。下手をすれば即刻心停止に陥る。
「く、そぉ……っ!」
自分の身体から立ち上る焦げ臭いにおいを嗅ぎながら、完全に相手の手玉に取られていることを嫌という程痛感する。ダメだ、脱出出来ない。
「ナオルくんっ!」
「ナオルさまァァ!!」
フィオラさんとコバの悲痛な声が上がる。二人にも、この窮地はどうしようも出来ない。
万事休す――。
「――え?」
そう思った時に、“それ”は現れた。
「ま、魔法陣!?」
僕の眼前に、ひとりでに魔法陣が浮かび上がる。当然、僕が描いたものでは無い。何も無い空間に、突然にだ。
「(だけどこの形、そしてこの色……。見覚えが……)」
朧気な記憶とその魔法陣を照らし合わせようとするが、次に起こった変化によってそれは差し止められる。
「うっ……!?」
僕の周囲を満たす空気の流れが立ち所に急速回転を始め、瞬く間に巨大な渦を形作る。僕を中心に完成した竜巻が、唸りを上げて黒い飛竜を飲み込んだ。
――ギュアアアッ!?
荒れ狂う暴風の中で飛竜が悲鳴を上げ、僕を捕らえていた尾の拘束が緩む。
体勢を崩した飛竜は、そのまま風の勢いに圧されて上空を押し流されてゆく。
「おのれ、転生してから日の浅い精霊の分際で、よくも……!!」
腕をかざして暴風から身を守りながら、鉄仮面の人物が忌々しげに叫ぶ。
「(ああ、そうか……そうだったんだ……!)」
自ずと、僕の中で解答が得られた。
ネルニアーク山で崖から落とされた時も、そして今も――。
「君が助けてくれたんだね、サーシャ」
呼び掛けると同時に目の前に手の平サイズの光点が現れ、一度激しく明滅したかと思うとそれは淡い光に包まれた半透明の人の形を取った。
僕を見下ろしながら微笑む、掛け替えのない友達――。
「サーシャ……!!」
此処に至り、僕の確信は実感を伴って今、完全に現実のものとなった。
夢なんかじゃない。幻想でもない。
ずっと……そう、今までずっと……! サーシャは、僕達の傍に居てくれたんだ――!
「サー、シャ……さま……!!?」
コバが、輝きを纏いながら宙に浮かぶ半透明のサーシャを見て、真夜中に太陽が昇っているのを見たかのような驚愕を顔に浮かべる。
サーシャは、そんなコバをちらりと振り返って、優しく微笑んだ。
『コバ、また会えて嬉しいよ』
声は無かったものの、僕には彼女がそう言っているのだと分かった。
『ナオル』
サーシャはすぐに僕に向き直り、強い眼差しを送ってきた。
僕も、大きく頷いて返事をする。
「ああ、やろう! お願いサーシャ!!」
サーシャが明後日の方を見て、上空へ向けて手をかざす。
一見すると何の変哲もない場所。だが、サーシャには分かっている。
サーシャの手が伸びる先で、上空の一点が激しく歪み、大気が回転する。
『そこを撃て』、と僕に告げている。
「分かった!!」
疑う余地は欠片も存在しない。
僕は素早く印契を組み、サーシャが示すままにその回転する大気の渦の中心点に狙いを定めて、火球を放つ。
例によって反動が容赦なく襲ってきて身体が後方へ傾くが、倒れることを覚悟していた僕の背中を、柔らかい空気の壁が受け止めて支えてくれた。
風の精霊となったサーシャの気遣いに、僕の口元が自然と綻ぶ。
「(ありがとう――)」
と、口で言うより先に心で感謝を述べたのと殆ど同時に――
火球が、何も無い筈の上空を撃ち抜いた。
「――!!」
僕達が一斉に注目する中で、爆発四散した火球の火の粉が天を焦がし、そして――
果てしなく続いているような印象を受けた灰色の空は、着弾地点を中心に無数の亀裂が走り、ガラスが砕け散るかのように崩壊した。