第百六十七話
ああ、僕は本格的に頭がどうかしてしまったのだろうか?
昨日から、サーシャの幻を視すぎだ。
彼女はもうこの世に居ないのに。僕の所為で、竜の炎に焼かれて死んでしまったのに。
今になって、未練だの後悔だのが再び膨れ上がってきたのか?
辛いあまりに、妄想の中の彼女に救いを求めてしまっているのか?
だってほら、目の前に立っている彼女は、こんなにも色鮮やかで――
「ナオル。キミがあたしにしてくれたこと、あたしは絶対に忘れないよ」
――僕が、サーシャに? 一体何をしてあげたの? むしろ、僕は君の生命を奪ってしまったというのに。
「ふふっ。ナオルはどうしても、あの瞬間が真っ先に思い浮かんでしまうんだね」
――当然じゃないか。忘れることなんて出来ないよ。
「仕方無いなぁ、キミは。ローリスの暴力からあたしとコバを護ってくれた、あのカッコいいキミは何処に行っちゃったの?」
――え?
「その後も、竜が街に現れた時、あたしに代わってコバを迎えに行ってくれたよね。入れ違いであの子が宿に戻ったと知った時、たまらず引き返したあたしの後を追いかけて来てくれたよね。あたし達目掛けて竜の爪が振り下ろされそうになった時、身を挺して庇ってくれたよね。火蜥蜴の群れから逃げる時、あたしとコバを前に出して一番後ろに付いてくれたよね」
――それは……。
「どうして、そこまで良くしてくれたの? 知り合ってからまだ間もないのに」
――だって、それは……。サーシャは、僕の話を聴いてくれて……。自分のことだって話してくれて……。それが、心地よくて……。
「お姉さんとも、重ねてくれた?」
――そうだよ! サーシャと過ごして、ナミ姉さんに似てるって思った! 会いたくて会いたくて堪らない人が、すぐ傍に居てくれるような気がしたんだ! だから……コバにだって嫉妬した! 僕より、コバを気に掛けるサーシャを見て、悔しかった! だから、君の心を掴みたくて、僕を見てほしくて、それで……!
「でも、あたしはお姉さんじゃない。ナオルも、それは分かっていたよね? 雰囲気が似ていて、性格にも多少似通っている部分はあったけど、根本的には全然違うって。あたしにどれだけお姉さんの面影を見出しても、結局は違う人間。ナオルの求めている人じゃない。それでも、キミはあたしの為に行動してくれた。コバを妬むくらい、あたしを想ってくれた」
――…………。
「家族以外はどうでも良いと考えているんじゃなかったの?」
――そんなこと……無い! 僕は……! 僕は……サーシャと一緒に居て、楽しかった! もっと話したいと思った! こっちの世界にやって来て、不安まみれだった僕を、安心させてくれた! だから……護りたいと思ったんだ!! 他の誰でもない、サーシャを!!
「じゃあ、ナオルにとってのあたしは、何?」
――“友達”だ!!
「そう思っているのは、あたしに対してだけ?」
――…………。
「違うよね。ナオルはこっちの世界に渡ってから、色んな人と出逢ってきた。色んな助けを得て、ここまでやってこられたんだよね」
まさしく、サーシャの言う通りだった。
森の中で右往左往して、死にかけているところを助けてくれたマルヴァスさん。
最悪の出会い方をしながらも、紆余曲折を経て仲間になったローリスさん。
僕を導き、出来うる限りの支援をしてくれたジェイデン司祭。
最後までお客の、僕の安全を考えて気遣ってくれたシラさん。
街を護る為に奮闘し、王都を目指す僕達を使者団の一行に加えてくれたイーグルアイズ卿。
モルン村で共闘したフォトラさん。
快く僕達を受け入れてくれたオズマ村長夫妻と村人達。
吟遊詩人の能力を遺憾なく発揮して皆を救ってくれたフィオラさん。
レバレン峡谷で僕達を見つけ、王都まで連れてきてくれたラセラン王子と彼の騎士団。
奴隷という形に拘りながらも、甲斐甲斐しく僕に尽くしてくれたコバ。
時には喧嘩しながらも、お互い助け合ってきたメルエットさん。
そして――
「そしてナオルも、皆の力になりたいと思って行動した。本当にどうでも良いと思っているのなら、恩を感じたりしないで一方的に利用するだけにしようと思った筈だよ。けど、キミはそうじゃない」
――僕は、皆を……。
「ナオルは、強い人。絆を紡いでいける人。愛情に飢えているからこそ、他人にそれを与えようとすることが出来る人」
――サー、シャ……。
「あたしは、そんなキミが大好きだよ。要らないなんて思わない。そこに居てほしいって思える。助けてあげたいって思える。だからこそ――」
――君は……。
「こんな風になっても、キミに憑いてきた!!」
サーシャの身体を包む光が、俄にその輝きを増した。強く、眩しく、そして――温かく。
「むっ!? これは……!?」
鉄仮面の人物が焦った声を出して、僕の身体に纏わり付く冷たい感触が離れた。
「どいてよアンタ!!」
サーシャが手をかざす。するとたちまち強烈な突風が巻き起こり、僕の髪を強く撫で付けながら吹き荒ぶ。
「ぬぅっ!」
短い呻き声が上がり、僕の背後に未だ居座っていた暗い気配が遠ざかる。振り返ると、突風から身を守るように両手をかざした鉄仮面が、よろよろとよろめきながら後退るところだった。
「【精霊】……!! 貴様……ナオルの“記憶”に居た娘か!?」
「えっ――!?」
鉄仮面が言い放った言葉に、僕は目を見開く。
まさか、あいつにもサーシャの姿が見えているのか!?
「そうか……! 貴様は竜の炎に焼かれて死んだのだったな! 【火の精霊】たる火蜥蜴に化生するところが、既に依代たる竜の炎が消えて、何の因果か知らぬが、【風の精霊】に転生しおったか!! マグ・トレドからずっと、ナオルに取り憑いていたのだな!!?」
サーシャが、風の精霊……!? 僕に、取り憑いていた!!?
「これ以上、ナオルを傷付けないで!! さっさと彼の心から出て行きなさい!!」
憤然と鉄仮面の人物を指差し非難の声を上げるサーシャが、合図を送るかのようにもう片方の腕を高々と掲げ、勢い良く手刀を袈裟斬りに振り下ろした。
するとどうしたことか。彼女の手刀の軌跡をなぞるように暗闇の中の空気が歪み、波打った。可視化された、斜めに伸びる空気の塊。白い濁りで縁取られたそれが瞬く間に形成され、鉄仮面の人物目掛けて一直線に飛んでいく。
そして、見事に命中したかと思うと、鉄仮面の人物の胴体を斜め真っ二つに両断した。
「抜かった……! 私としたことが、今の今まで【精霊】の気配に気付かなんだわ――」
捨て台詞を残し、切断された鉄仮面の身体が闇に溶け込むように消えていった。
「あ……! えっ……!? な……!」
理解を超えた展開に、僕はまともに言葉も紡げず口をパクパクと動かすだけだ。
「ナオルッ!!」
そんな僕を正気に戻すように、サーシャが鋭く声を上げる。
「聴いて! 今はまだ、あいつには勝てない!! あいつも、あいつの操る飛竜も強すぎるの!! ここは逃げるしか無いわ!!」
「に、逃げるったって……! サーシャ、君は一体……!?」
これは現実なのか? 目の前にいる彼女は、正真正銘本物のサーシャなのか? 《棕櫚の翼》に焼かれて死んだ筈の彼女が、精霊になって僕と一緒に居たって言うのか!? マグ・トレドを旅立った時から、ずっと――!
「詳しく説明している時間は無いの! 良い? あたしの言う通りにして!」
サーシャは強い意志の宿った目で真っ直ぐ僕を見据え、続けた。
「ナオル達を助けようと“外側”から干渉している『誰か』が居る! 上空の一点に、ナオルの火球を撃ち込んで!! そうすれば、突破口が開けるかも知れない!!」
「外から干渉している『誰か』って、どうやってその情報を!? それに上空の一点って言ったって、何処だか見当も……」
「大丈夫、あたしが手を貸すから! とにかくあたしを信じて、言う通りにして!! コバやフィオラさんの命運も掛かっているのよ!!」
「――っ!?」
そうだった。コバとフィオラさんは、僕がこうしている今もあの黒い飛竜の攻撃を受け続けているのだ。それに、気絶したままのドニーさんだって残されている。どうして、今の今まで意識から外していたんだ、僕は!!
「頑張って、ナオル! あたしはいつでも傍に居る! 一番近くで、あなたと共に在るから――!」
サーシャが手をかざす。次に起こることを察し、僕は身構える。
「必ず生き残って! コバと……皆と、一緒に――!!」
最後の願いと同時に、激しい旋風が僕の全身を包み込み、僕の意識は暗闇から急浮上するように遠ざかった――。




