第百五十二話
「はっ――!?」
気がつくと、周囲の様子は一変していた。
室内を支配していた重苦しい暗闇はかき消され、明るく開けた空間に出ていた。
「なんだ、此処……? この構造は、塔か何か……?」
急いで辺りを見渡して出てきた感想がそれだった。
広大な円柱状の石壁が、吹き抜けとなった中央の空間を取り囲んで天高く遥か彼方まで聳え立っている。二重螺旋構造の階段が湾曲した壁面を何処までも走り、それぞれの階段上には簡素な扉がまるで塩基の如く連なって置かれていた。
他には何も見えない。フォトラさんも、ミアも、大鏡も、酒樽や酒瓶が詰め込まれた棚も、全てが尽く消え失せていた。どれだけ必死になって首を上に巡らそうとも、無限にも思われる壁の高さと階段の長さ、それとそこに設置された扉の多さに目眩を覚えるだけで天井さえも見えてこない。代わりに天空には暗闇ではなく鈍い白光を放つ靄ないしは雲のような空間が広がっており、それが光源となって地表に降り注いでいる為か、意外な程に見通しは悪くない。が、却ってそれがこの状況から生まれる絶望感に拍車をかけているような感じがした。
「っ……! フォトラさんっ!? ミア!?」
こみ上げる不安に負けて、僕は思わず大声で呼びかける。けれど、帰ってくるのは虚しい静寂だけだった。
「落ち着け……! まず、今の状況を整理しよう……!」
荒くなる呼吸と激しい動悸に耐えつつ、僕は必死に頭を働かせる。
「ミアが突然自分の顔を鏡面に押し付けて、そうしたら急に大鏡が光りだして、身体が吸い寄せられる感覚があった……。うん、確かにあれは吸い寄せられていたんだと思う」
冴えない脳を懸命にフル回転させて、思い出せる限りの直前の状況を拾ってゆく。
「ミアが言うには、あの鏡は中に人を閉じ込める力がある魔道具だかなんだかって話だったよな? それを使って、コバとフィオラさんを閉じ込めて、術を解除できるのは自分だけだから任せろ、って……。……っ!」
そこまで言葉に出したところで、ようやく僕は現実を正しく認識出来た。
「やっぱり罠だったんだ……! あの時、ミアが自分の顔を鏡に押し付けたのは、血を鏡面に付ける為……!」
はっきりと覚えている。ミアの顔が引き離された後に残った瑞々しい鼻血。それが立ちどころに鏡面に吸い込まれるようにして消えていき、直後に鏡が紫色に光り始めた。きっとあれが、魔道具の効力を発動させる為のトリガーだったんだ。
「勝ち誇るように高笑いしながら、彼女は言っていた……!」
嵌められた悔しさと憤りを込めて、僕は重々しく彼女が使った魔術の名を復唱する。
「【ブレッド・ベーカリー】と……っ!!」
…………あれ? なんか違う? 自分で言い放った言葉なのに、拭いようのない違和感を覚えた。
「……って、それじゃあただの“パン尽くし”じゃん! 何言ってんだか、僕! あはははは!」
……ヒュゥゥ〜。自分の乾いた笑い声が、無尽蔵の吹き抜けに虚しく吸い込まれてゆく。返ってきたのは、痛い沈黙と白けきった空気感だけ。
「……うん、分かってる、分かってるよ。こんな馬鹿やってる場合じゃないってことは」
誰に言い訳してるんだ、と心の中で自分にツッコミを入れる。きっと今の僕は、傍から見たらただの痛々しい道化もどきだろう。
でも仕方無いんだ。無理矢理にでもおどけてテンションを上げていかないと、すぐ恐怖心に飲み込まれてしまいそうになるんだ。
ミアの言葉通りなら、此処はあの鏡の中。僕は閉じ込められてしまったことになる。
フォトラさんの姿は見えない。何処か別の場所に送られたのか、彼だけは逃れられたのか、それは分からないけどとにかく今は僕ひとり。情けないと言われるかも知れないけど、こんな状況で不安に陥るなというのは酷な話だと思う。
「くっ……! 慌てるな。焦るな。冷静に対処すれば、必ず打開の手は見つかる筈だ……!」
僕は胸元に手をやり、いつも肌身離さず首から下げているあのペンダントを強く握り締め、カチカチと鳴る歯をどうにか鎮めようと足掻く。
こっちの世界に渡ってきて、数々の修羅場を潜ってきたという自負は、ある。だけど、自力だけで切り抜けたと言えるものはどれひとつとして無い。危ない時や、辛い時は、いつだって仲間が傍で支えてくれた。そして何より、このペンダントが僕を繋ぎ止めてくれたんだ。
チャームの中で、いつでも僕に笑いかけてくれている、兄さんとナミ姉さんが……。
だから、大丈夫。今度もきっと大丈夫だ。兄さんも姉さんも、此処に居る。僕の一番近くで、僕を励ましてくれる。
だから……頑張れ、僕!
「落ち着け、逆に考えるんだ……! 取り込まれたのは、逆にチャンスかも知れない。コバとフィオラさんも此処に送られた筈。二人を捜し出して合流出来れば、きっと活路も拓ける……!」
ぐるぐると巡る想念の中で、ようやく前向きな考えが出来るようになってきた。
しかし、気力を奮い立たせていざ塔の壁面へ目を戻すと、視界を満たすのは遥か上方に伸びる二つの階段と無数に点在する扉の数々。
「これ……ひとつひとつ調べていかないとダメなの……?」
あんまりな数の暴力を見せつけられて、胸に灯った希望が早くも吹き消されそうになる。まず階段を登り、全ての扉を虱潰しに開けて中を捜索しながら上へ上へ……。そしてたとえ片方を調べ尽くしても、無限に長〜い階段はもう一本ある訳で…………。
「あ、ダメだ。考えるだけで気が遠くなりそう……」
ずぅっ、と全身から血の気が引き、僕は貧血を起こしたようによろめいた。
いくら兄さんと姉さんという精神的な支えがあっても、この数は無理。
第一、こんな光景は反則だ。鏡の中にある世界というなら、左右が逆転しただけの元居た場所と同じ世界で良いじゃないか――
「それだけ無駄口を叩く元気があるとは驚きだ」
不意に。何の前触れもなく。唐突と言うにはあまりに見計らったかのようなタイミングで。
その、この世のものとは思えない声は聴こえた。
「――ぅ、くっぃ!!!??」
心臓が止まる程の衝撃を浴びて、喉からおかしな声が漏れる。驚愕を抑えきれないままに急いで声のした方へ振り返ると、そこには――
「なるほど、思った以上に精神は図太くなっているようだな。少し見直したよ、タカチホ・ナオル」
紺色の分厚い法衣と、頭部を飾る大きなフェザーハット。手袋をはめた手に持った身の丈程もある樫の杖。そして何よりも、素顔を寸分余さず覆い隠す無機質な鉄仮面。
今の今まで、確かに僕以外誰も居なかった筈のこの地面に。
その異様な人物は、いつの間にか当然のようにそこに存在していた――。