第百五十話
「――ッ!」
上から迫る殺気にフォトラさんが気付いたのは、もしかしたら僕の言葉が届くより早かったかも知れない。
ガンッ! と勢いよく棚を蹴り、反動で背後に飛び退るフォトラさん。直後、一瞬前まで彼が立っていた場所に、一抱えほどの黒い塊が鈍い銀光を走らせながら落ちてきた。カツッ、と乾いた音を立てて床に突き立ったナイフが、ランタンの灯りを反射して妖しく煌めく。
「なっ――!?」
ランタンによって照らし出された“そいつ”の姿を見て、僕は絶句した。
天を衝くように頭部から生える耳。尻の部分から伸びる尾。大きく開かれた眼窩に収まる巨大な眼球、その中で縦長に細まった黒色の瞳孔。小さく窄まり、顔の中心に寄っている鼻と口。左右の頬から伸びる、何本もの細長い髭。
それは、ある動物の姿に非常に良く似ている。僕達の世界でも馴染み深い、あの――
「ね、猫!?」
そう、猫だ。“そいつ”の頭と尻尾は、確かに猫のそれだった。ナイフの柄を逆持ちに握る手も、履いている短パンから覗く脚も毛むくじゃらで、それでいて膝立ちに床に降り立ったその姿勢は、僕やフォトラさんと同じ直立二足歩行可能な人型の生き物が成せる挙動である。
――“獣人”。真っ先にその言葉が僕の頭に浮かぶ。猫の姿をした獣人だ。
「――シャアッ!」
怒った猫が相手を威嚇するように“そいつ”が口を開け牙を剥き出しにして吠えたかと思うと、次の瞬間には床に刺さったナイフを抜き取り、瞬きをする間もなくランタンの照射範囲外に逃れ出ていた。
「えっ!? 何処に――!?」
俊敏な猫そのものな動きに、僕は焦ってランタンを動かそうとする。
「伏せろ!!」
「っ!? うわっ!?」
するといきなりフォトラさんに胸ぐらを掴まれ、そのまま前に引き倒される。
ヒュン――! 虚空を切り裂く音が僕達の頭上で鳴り、俄に起こった風が後ろ髪を撫でる。僕の首があった場所をナイフが一薙ぎしたのだと理解するのに数瞬の時間を要した。
「ッ――! 下がれ!!」
そして脳が事態を把握して冷や汗をかく前に、またもフォトラさんが鋭い声が飛ばし、今度は僕を突き飛ばす。
「痛っ!?」
抗するべくもなく、僕はそのまま床に尻餅をつく。カランカランと音を立ててランタンが足元に投げ出される。
「貴様の相手は私だ!」
「チィッ!」
フォトラさんの掛け声と舌打ちの音。僕は尻の痛みも忘れて二つの声がした方向へ必死に目を走らせた。
薄闇の中で金と銀の光が交差している。猫獣人の持つナイフの銀閃が荒れ狂うように舞い、フォトラさんの艷やかな金髪が風雨に耐える梢のように揺れる。暗所でも目立つコントラストに更なる趣向を加えんとするが如く激しい金属音が響き、金と銀の光の間で小さく火花が散る。
フォトラさんと猫獣人が、今まさに文字通りの暗闘を繰り広げている。
「っ……! フォトラさんっ!」
僕は急いで転がったランタンを拾い上げ、戦いの場を照らすべく光を向ける。
手甲を構えたフォトラさんが光明の中に現れた。だが、対する猫獣人の姿は無い。何処へ――と思っていると、フォトラさんの側面に一瞬その影が映った。
「フォトラさん、左っ!」
「――!」
僕の声に、フォトラさんはすぐさまそちらに首を巡らす。
タンッ、と一際強く床を蹴る音がそこから上がる。
直後に、僕は悲鳴を上げた。
「――!? フォトラさんっっ!!」
右の暗闇で炯々と光る猫の眼。なんと、がら空きになったフォトラさんの右側面に猫獣人の姿があったではないか。闇から闇へ。自分の影を捉えようと必死に追い回す僕達を嘲笑うかのように、猫獣人は瞬足の疾さでフォトラさんの死角に回り込んだのだ。
生死を分ける、戦場の呼吸。無慈悲な暗殺者の刃が、一瞬の隙を晒したフォトラさんの腹部目掛けて一直線に突き出されようとしていた。罠だったと気付いた時にはもう遅い。
猫は、狩りの標的を射程に捉えてしまった。
「(しまった! 僕の所為でフォトラさんが……!)」
刹那によぎる強い後悔。全ての動きがスローモーションになっているような錯覚の中で、僕は為す術無くフォトラさんの脇腹にナイフが突き刺さる様を見届け――
「――フッ!」
……るかと思った瞬間、フォトラさんが体を開いて半身になった。
「ニャ!? ニャニャッ!?」
猫獣人の顔に、はっきりと焦りと戸惑いが生まれた。
ヤツの突き出したナイフは、フォトラさんの背中を僅かに掠めただけで空を裂く。攻撃の勢いが余って、猫獣人の体勢が流れた。
「ハッ!!」
そこへフォトラさんの反撃が炸裂した。思い切り身体を右に捻り、自分の背面に現れた猫獣人の後頭部に痛烈な肘打ちを叩き込む。
「ギャ、ブッ――!」
鼻に入った水を吹き出す時に出るような音を出し、猫獣人が前のめりにぶっ飛ぶ。激しく床に倒れ込み、そのままゴロゴロと転がってゆく音が続いた。
完全なクリーンヒット。紙一重の差で、フォトラさんはピンチをチャンスに変えたのだ。
「う〜〜〜っ! い、痛い! 痛いニャア〜〜〜!」
暗闇の中に、やたらハスキーな声が響く。
「…………え?」
この声……まさか、女の子?
僕は立ち上がり、ランタンの光を猫獣人の声がする場所へ向けた。
「ううぅ……! よ、よくも……! よくもやりやがったニャァ……!」
改めて光の下に曝け出されたその姿は、確かに人型の身体構造を持った猫そのもの。
だがよくよく見ると、頭部には人間やエルフのものと同じ毛髪が伸びており、可愛らしいショートボブの髪型を形作っていた。それに、全体のラインも何処と無く丸みを帯びており、黒色のハーネスを着込んだ胸の辺りには僅かな膨らみまで見える。
やっぱり、多分、そうだ。
コイツは――この猫獣人は、女の子だ。
「殺ったと思ったのに……! どうしてアタシの必殺の一撃がこうも簡単にいなされるニャ……!」
“彼女”は後頭部を擦りながら、涙目でフォトラさんの方を睨む。『ニャア』とかいう語尾といい、所作にそこはかとない“あざとさ”を感じるのはきっと気の所為だろう。思わず漏れそうになった「うわぁ……」という声を、僕は既の所で飲み込んだ。
「刺客の戦術には慣れているのでな。貴様らのようなヤツはとにかく相手の不意を衝こうとする。そこを逆手に取らせてもらったまでだ」
僕の横で油断なく構えを取りながら、フォトラさんが事も無げに言い放つ。
シャープオークのヴェイグと激闘を繰り広げたのはつい先日の話だ。あの時の経験が生きたと言うべきだろうか。
「ちくしょう……! さっきといい今度といい、とんだ番狂わせニャ……!」
猫獣人が歯を剥き出しにして悔しさを顕にする。対してフォトラさんは、あくまでも油断なく冷静に問いかけた。
「先程、此処に私と良く似たエルフとゴブリン、それに人間の三人が訪れた筈。貴様の言う“さっき”とは、その時か?」
「――!」
フォトラさんの質問に、僕もぐっと肚に力が入る。
コバやフィオラさんの姿が無いことに、この猫獣人の少女が関わっているかも知れない。恐らく、十中八九の確率で。
果たして、彼女は意味深に口元を歪めた。さっきまでの悔しさとは違う、嘲りの表情が顔に浮かぶ。
「だったら、どうだと言うニャ?」
「吐け――。知っていることを、全て」
フォトラさんの声にドスが加わる。憎悪の籠もった眼差しで、彼は眼前の猫獣人の少女を凝視する。
「フィオラは、必ず救い出す。貴様がどんな邪術を使ったとしても、だ。忌まわしき《黒の民》よ」
「え……!?」
《黒の民》。フォトラさんは確かにそう口にした。
それって、あのヨルガンが言っていた…………。
「そんな呼び方は、しないでほしいニャ。エルフといい人間といい、《後続の種》は今も昔も変わらず傲慢ニャんだから。少しは先人達に敬意を払ったらどうニャ?」
猫獣人の少女はムッとしたように眉根を寄せ、その黒い瞳を細めながら更にこう続けた。
「アタシら、“バレクタスのシー族”は、由緒正しい《原初の民》の一族ニャのだから――」




