第百四十九話
地下の酒蔵へと繋がる階段。暗い闇を備えた不気味な雰囲気を前にして、僕とフォトラさんは思わずお互い顔を見合わせた。
「おー……!」
「待てナオル殿」
「ぃ……っ!?」
取り敢えず階下に居るであろうコバやフィオラさんに向かって大声で呼びかけようとすると、フォトラさんが鋭い声で僕を制した。
「迂闊に呼びかけない方が良いかも知れん」
「それって……」
やはり不吉な予感を膨らませているのか、フォトラさんは警戒を顕にした表情で傍に架けられている燭台を拝借し、持ってきたランタンに火を入れる。そして灯火の宿ったランタンを胸のあたりに掲げ、階下の闇を見据えた。
「降りよう。私が前を行く」
「いや、待って下さい」
足を踏み出そうとしたフォトラさんを、今度は僕が引き止めた。
「僕が持ちます。フォトラさんは後ろで、いつでも戦えるように備えて下さい」
「ナオル殿、しかし……」
フォトラさんは心配するように僕を見た。彼の言いたいことは良く分かっている。
もし階下に何か……僕達に敵意を持つ得体のしれない何者かが潜んでいたとして、そいつが闇を味方につける算段をしているなら、まず真っ先に狙ってくるのは灯りを持つ相手だろう。ゆえにランタンを手に先頭に立つのはかなりの危険が伴う。その役目を僕に任せても良いものか……と。
だけどここは、それを踏まえた上でもやはり僕がその危険を引き受けるべきだろう。理由は明白だ。
「僕の魔法は、威力が強すぎて屋内では使えません。その上戦闘経験も乏しいですし、咄嗟に臨機応変の対応がとれるかどうかも自信がありません。なので、フォトラさんには後方で周囲の警戒に専念していてほしいんです」
フィオラさんの為に――。言葉にはしなかったが、その思いを込めてフォトラさんを見つめる。
「……かたじけない」
フォトラさんは少しだけ迷う様子を見せたが、やがて僕の提案を呑んでくれた。
「行きましょう」
ランタンを受け取り、僕は慎重な足取りで階段を下り始めた。
薄暗い闇の中、板張りの階段を一歩一歩踏み締めながら下ってゆく。構造がしっかりしているのかギィギィと踏面が軋む音は鳴らず、代わりにゴトッ、ゴトッ、と重厚な音を奏でて僕達の体重を迎え入れる。冷えた空気が頬を撫で、ランタンを掲げる手をくすぐった。闇の中で鋭敏になった五感が、それらの音や感触を否応にも高めて警戒心を刺激する。
まだ、階下から人の気配は感じられない。フィオラさんとコバは、そして二人と一緒に来たという使用人さんは、本当にこの下に居るのだろうか? といった疑問すら頭に浮かんでくる。
そんなことを考えつつ、僕達は階段を下りきって酒蔵へと辿り着いた。
「っ……!?」
瞬間、ぎょっ! とする。
闇の奥に、橙色の光が浮かんでいた。僕の掲げるランタンと寸分違わず同じ色、同じ高さだ。その向こうには、人影と思しき輪郭が朧に浮かび上がっている。
「フィオラさん……?」
背丈からしてコバじゃないことは確かなので、フィオラさんの名を出して呼びかけてみる。ところが、しばらく様子を窺っても返事が来ない。動く気配も無い。
「(フィオラさんじゃない……!? 返事もしないってことは使用人さんでも無いだろうし……じゃあ、まさか敵……!?)」
そう思った瞬間、全身が総毛立つ。もしあれが敵なら、フィオラさんとコバは既に――!?
「む……?」
戦慄で立ち竦む僕を尻目に、フォトラさんが後ろから身を乗り出して躊躇無くその人影に向かって進んでいく。あまりにもあっさりした挙動に、僕は一瞬彼を引き止めるのも忘れた。
「……あっ!? フォ、フォトラさん!?」
「よく見ろ、ナオル殿」
我に返って呼び止めた時には、フォトラさんは既に人影の前に立っていた。
そして、事も無げに告げる。
「これは鏡だ」
「……へっ?」
思わぬ言葉に素っ頓狂な声が出る。慌ててランタンを顔のあたりに掲げると、闇の奥に間抜けな顔を晒している僕の姿が映り込んだ。その横には、左右対称となった二人のフォトラさんも居る。
「あっ……ほ、本当だ……」
安堵の溜息を漏らして、僕も鏡へ近付く。近くに立ってみると、かなり大きい鏡であることが分かる。家庭で使う姿見より横幅があり、僕とフォトラさんの全身をすっぽり鏡面の中に収めている。縁は黒光りする金属製で、下方部が直角に、上方部は円形になっている。そして円形に曲がっている上部の両角には竜の翼、中央には竜の頭を模した装飾がそれぞれ施されていた。
「なんで、こんな鏡が此処に……?」
ランタンで隈なく鏡を照らしながら、僕は首を傾げた。どう考えても酒蔵に必要な物とは思えない。
「鏡面には傷も曇りも無いな。だが縁には所々傷跡や汚れが付着しているようだ。どうにも不自然に思える」
フォトラさんは鏡面や縁などを調べながら唸った。それから竜の形をした装飾に目をやり、ぽつりと言った。
「竜の大鏡、か……」
「…………」
その言葉に、僕は途轍もなく嫌な響きを感じた。マグ・トレドを焼き払った《棕櫚の翼》の姿が、竜の装飾に重なって見えてきた。
「いや、そんなことよりもコバとフィオラさんを捜さないと!」
頭に浮かんだトラウマを振り切るように声を上げ、僕は鏡から無理やり目を離してランタンの灯りを周囲に向けた。
三方の壁に大棚が置かれてあり、両側面には酒樽が、鏡の後ろにある奥の棚には瓶に詰められた様々な種類の酒が寝かせられていた。いずれも綺麗に整理整頓されており、床に散らばった物は無い。そういった見通しの良い場所であるにも関わらず、酒蔵の中に僕達以外の人の姿は見つけられなかった。
「誰も居ない……。もう、皆此処から出ていったんでしょうか? 僕達と入れ違いで、メルエットさんの所に戻ったとか……?」
そうだったら安心だ。あっちに戻ってとんだ取り越し苦労だったと笑い合えば良い。そうであってくれと願った。
「うむ……確かにフィオラもコバ殿も姿が無いが……。仕方ない、一度戻ってみようか」
「そうですね、そうしま――?」
フォトラさんに向き直った僕の言葉が途中で途切れる。フォトラさんの真上、奥の棚の上で、何かの影がのそりと動くのが朧気ながら見えたからだ。
ランタンの灯りに照らし出された影の持ち主。仄かに薄まった闇の中で、“そいつ”の双眸がギラリと光る。そして、白く輝くナイフを手に――
「――っ! フォトラさんっっ!!」
僕が叫ぶのと同時に、フォトラさんの頭上目掛けて“そいつ”が飛び降りた。