第百四十六話
国王との謁見は明後日。それまで身辺にはくれぐれも気をつけろ――。
極めて妥当なアドバイスをしたと思ったのも束の間、マルヴァスさんは渦中のメルエットさんを残し、戻ってくるところだったコバをも巻き込んでさっさと何処かへ行ってしまった。注意喚起を促すあまりにややキツい言い方になってしまい気不味くなったというのは分かるけど、何も暗殺の危険性を説いた傍から僕と二人きりにさせることも無いだろうに……。
僕は溜息をつきたくなるのを我慢して、横目でチラッとメルエットさんを窺う。
「…………」
メルエットさんは、何処かソワソワしながら指で自慢の紅髪をいじっていた。心なしか、頬が赤らみを帯びている。マルヴァスさんの言葉を受けて落ち込んでいるかと思ったけど、どうもそんな感じでは無さそうだ。いずれにしろ、常に堂々としている彼女にしては珍しい反応だと言える。
「あの、メルエットさん」
「――っ!? あ、な、何かしらナオル殿?」
声が裏返っているし、上擦っている。心ここにあらずといった様子だ。
「とりあえず、座って待ってようか。ずっと立ちっぱなしというのもあれだし」
「え、ええそうね! まったく、マルヴァス殿にも困ったものよね!」
眉根を寄せて口を尖らせながらボフン! と勢いよくベッドに腰掛けるメルエットさん。彼女の華奢な身体が、極上の肌触りと弾力を誇る分厚い敷布団の中に沈み込む。
ちなみに、この部屋にはベッドが二つ置かれてある。当然、僕とコバの分だ。メルエットさんがそう手配してくれた。こうした細かな気遣いにも、奴隷身分のコバを本当に心から仲間と認めてくれた彼女の心境が顕れており、僕は改めてメルエットさんの器量に感動を覚える。
……のだけれど、今の彼女からは指導者としての威厳というか仮面といったものが剥がれ落ちているように見える。ひとりの人間としての、あるいは女の子としての素顔を、僕の前で晒しているような気がするのだ。
「…………」
だとしたら、素直に嬉しい。先程マルヴァスさんも指摘していたように、あのネルニアーク山での戦い以降、コバだけでなく僕をも少しは信頼してくれるようになったと薄々感じてはいたけど、どうやら自惚れではなかったみたいで安心した。
僕は緩みそうになる口元を引き締めて、対面のベッドに腰を下ろした。
「まあ、マルヴァスさんが自由なのはいつものことだよ。そこがあの人の良いところでもあると僕は思うけどね」
顔は引き締まっても浮かれた内心までは御しきれないらしい。メルエットさんに応える僕の声に込められたニュアンスは、普段よりも更に砕けた感じになっていた。
「それはそうかも知れないけど、だからって長年仕えてくれているこの館の者達まで疑え、みたいなことまで言うなんて……」
メルエットさんは、ぷくーと頬を膨らませてマルヴァスさんへの不満を口にする。
「あははっ」
その子供が拗ねたような表情が可愛らしくて、僕は思わず笑った。
「……ちょっと、どうして笑うのよ!?」
「あっ、いやごめん! いや、何だかあの人らしいな〜って。遠慮が無いというか率直というか。メルエットさんを妹のように気にかけているからこその気安さなんだろうけどさ」
ジト目を向けられ、僕は慌ててごまかした。
「遠慮が無さ過ぎるの! 大体、あの人はいっつもそうなんだから! 根無し草みたいにあっちこっち気ままに放浪している癖に、マグ・トレドに来て私に会う度に子供扱いしてきて! 去年なんてわざわざ花かんむりまで作ってきて『メリーに似合うと思ってな。どうだ、綺麗だろう?』とかニヤニヤ笑いながら私の頭に被せようとしてきたんだから! バカにしてるのかしら!? 私だって日々成長してるのよ!? なのに、妙齢の女性に対して当然持つべき節度も諸々の配慮もまるで無いんだから! 私のこと、女だと思ってないのよ、あれは!」
プリプリとお冠なご様子で機関銃のようにまくし立てると、メルエットさんはベッドの上で腹立ちを紛らわすように身体を上下に揺らす。華奢な身体には不釣り合いな程の形の良い大きな双丘が、彼女の動きに合わせて激しく跳ねた。コルセットでも着けているのか、ドレスの胴回りが引き締まっているお陰で豊かな胸部が殊更強調されていて、余計に目の毒だ。僕は取り込まれそうになる意識を慌てて引き戻して、揺れる魅惑の果実から無理やり視線を引き剥がしながら言った。
「い、いや……! メルエットさんのは充分に立派な……じゃない、メルエットさんは充分に女の子らしいと思うよ」
「えっ!? そ、そうかしら!? ……あれ? でも、なんで今言い直したの? あとなんで目を逸らしているの?」
そりゃ逸らすって。不用意に目の前に居る男を惑わしていることに当の本人は気付いていないらしい。僕に対して気を許してくれるようになったのは嬉しいけど、ちょっと許しすぎでは無いだろうか?
それに、さっき一瞬、彼女の声が嬉しそうに弾んでいたような……? 気の所為か……?
「っ、と、とにかく! マルヴァスさんだって何も本気で館の人間を疑ってかかれなんて言ってないんだしさ! 用心の為に、場合によっては疑った方が良い状況になるかも知れないよ、って注意を促してくれただけで!」
「……まあ、それは分かるけど。なんだかんだ言っても、マルヴァス殿の言うことは大抵筋が通っているもの。でも、言い分が正しいのと言い方に配慮してくれるのとは別よ。あの人はもっと、女性に対する礼儀を学ぶべきだわ!」
「本人は、これまで数々の女の子を虜にしてきたって豪語しているみたいだけどね……」
「レバレン峡谷でフィオラ殿相手に言っていたこと? どうせ口から出任せでしょう。マグ・トレドの館で何人ものメイドに言い寄ってるのを見たけど、全然相手にされてなかったもの。他でもきっと同じだわ。長年の付き合いだから分かるの」
「……ふぅ、ん。メルエットさんの方も、結構マルヴァスさんを良くみているじゃないか」
チクリ、と。何故だか急に胸に小さな痛みが走った。
僕のようなぽっと出の人間とは違う。メルエットさんとマルヴァスさんの間には、これまでの年月で積み重ねてきた時間がある。領主の娘として厳格に育てられ、父親との間にさえ壁を感じていたメルエットさんにとって、マルヴァスさんは心に潤いを与えてくれる数少ない存在だったに違いない。
言うまでもなく明らかなことだった。それでも、その事実を意識した途端、メルエットさんと一緒に居るこの部屋がほんの僅かに色褪せたように見えた。
――何だろう、この気持ち……。
「そうでも無いわよ。一緒にいる時より、傍に居ない期間の方がやっぱり圧倒的に長いもの。貴方もさっき言ったように、マルヴァス殿は自由を愛する人だから。旅をするのも気の向くまま、マグ・トレドに寄るのも風向き次第――。そんな人だから、私だってまだまだ知らない部分が沢山あるわ。……まぁ、特段知りたいとも思わないけど」
「……そういう、ものなの?」
「兄のようだと思っているけど、人生を重ねたいとまでは思えないから。意地悪だし」
さらっと酷いことを言ってのけ、メルエットさんは朗らかに笑う。悪意の無い、信頼の裏返しのようなその笑顔が素直に眩しい。
「私が知りたいのは、むしろ…………」
と、そこでメルエットさんが言葉を切り、僕の方をじっと見つめてきた。
「えっ? な、なに?」
意味深な彼女の視線に戸惑っていると、彼女の方もはっとしたようになり、
「あっ、べ、別に深い意味は無いわよ!? こうして王都に無事に辿り着いて色々と余裕も得られた頃だし、良い機会だからお互いの理解を深めておきたいかな……ってだけで!」
と、慌てて言い添えた。
「な、なんだ、そうなんだ! あはは……!」
「ええ、そうよ! ふふ……!」
僕達は互いに引きつった顔を見合わせ、乾いた笑い声を浮かべる。お風呂を頂いたばかりだと言うのに、背中に変な汗が浮き出てきた。なんだ、この空気は……。
「例えば、そう……」
メルエットさんの顔から和やかさが消えた。上目遣いに、遠慮がちに、僕の様子を確かめるように一言一句を慎重に口に出す。
「“あの娘”とは、どんな関係だったのかな――って」
「――!?」
妙な雰囲気が一気に冷めた。全身の汗が急速に引き、僕の心身から温かさが消えてゆく。
“あの娘”――。メルエットさんが口にしたのはそれだけだが、僕にはそれが誰を指すか、即座に理解した。……理解、出来てしまった。
「……ごめんなさい。嫌なことを訊いているのは分かっているわ」
固まった僕を前にして、メルエットさんは頭を垂れて謝る。
だけど、前言を撤回したりはしなかった。
「それでも、ね。知りたいの。貴方にとって、“あの娘”はどういう存在だったのか。貴方と“あの娘”の間には、どんな結び付きがあったのかを――ね」
「……どうして?」
浅い呼吸を繰り返しつつ、僕はどうにか言葉を紡ぎ出す。
「メルエットさんは……知っているじゃないか。事情、イーグルアイズ卿から聴いたりしてないの?」
「経緯は概ね把握しているわ。でも、そういうのじゃなくて、貴方の――ナオル自身の口から、ナオル自身の言葉で、聴きたいの」
「……なんでさ?」
自分で思っているより低い声が出た。
「メルエットさんには、何ひとつ、関係が無いじゃないか」
そんなつもりは無かったのに、吐いた言葉が棘を含んでいるのが自分でも分かる。どうにもならない怒気が、喉を突き抜けて口から飛び出していきそうだ。
「――けじめ、かな。それとも、未練を断ち切る為、なのかも」
メルエットさんはそんな僕から目を逸らさず、しかし寂しげな微笑みを口元に浮かべてそう言った。
「それって、どういう…………」
僕が詳しく問い質そうとした時だ。
視界の端、バルコニーの方で、何かが光ったのが見えた。
「――?」
思わずそちらに目をやる。すると、手すりの上に何やら黒い塊が蹲っているのが見える。鳥にしては大きく、人間にしては小柄な…………子供?
そしてその懐と思しき辺りには、キラリと白い光を反射する、小ぶりのナイフ――
「――っ!? 誰だ!!?」
叫びざま、僕は弾かれるようにベッドから立ってバルコニーに直進した。
『――フン』
黒い影は僅かに身体を揺すった後、夜の闇に溶け込むように視界から消えた。
「っ!? ……!?」
僕は影の居た場所に辿り着くと、手すりを掴んで急いで下方部を見渡した。
だけど……
「……居ない!? 逃げられた……!?」
眼下にあるのは広大な館の中庭。いくら目を凝らしても、先程の黒い影と思しき存在は何処にも見当たらなかった。
「ナオル……!? 一体何が……!?」
背後からメルエットさんが心配そうに声を掛けてくるが、僕にはそれに応えるゆとりが無い。
ただじっと、得体のしれない不気味さに身体を震わせながら、中庭に蟠る闇を見据えるばかりだった――。