第百四十四話
「(コバを……僕の世界に連れていく……!?)」
マルヴァスさんが言い放った言葉を咀嚼し、意味を飲み込むまで数秒かかった。そして理解した途端、心を剣でぐさりと貫かれたような痛みと緊張が全身を駆け抜ける。
「そっ、それ……は……っ!」
喘ぎつつ、どうにか返事をしようとするが、息が詰まってまともな言葉にならない。ひゅうひゅうと、短く浅い呼吸を無様に繰り返すだけの僕を見て、マルヴァスさんは「やっぱりな」と言うように嘆息した。
「考えてなかったなんだな? それとも、あえて考えないようにしていたか?」
「っ!?」
またも急所に鋭い衝撃が打ち込まれる。百発百中を誇る彼の矢と同じように、その言葉もまた躱しようも防ぎようもなく無情に標的の精神を射抜いてしまう。
考えていなかった……つもりではない。あえて目を逸らしていたんだ。
僕は別の世界から来た“渡り人”で、この世界の人間じゃない。いつかは去るべき、泡沫に等しい存在だ。他の皆のように根を下ろしてはいないし、また下ろすべきでも無いと思っていた。
僕には帰るべき場所があり、そしてそこはこの世界とはきっと地続きではないのだ。たとえどれだけの縁を結ぼうとも、やがては切れる。マルヴァスさんとも、メルエットさんとも、そして……コバとも。
日本に帰る時が、皆と永遠の別離を迎える時。心の何処かで、それは理解していた。しかし――
「サーシャは、死に際にコバをナオルに託したな。どうか一緒に連れて行ってほしい、と。お前も覚えているだろう?」
「……はい、覚えています。僕は、彼女の願いを聴きました。コバを……引き取ったんです」
目を閉じれば、瞼の裏に生々しく蘇ってくる。あの竜――《棕櫚の翼》に焼かれ、今際の際にあったサーシャが最期の力を振り絞って口にした願い。
「コバは、奴隷でした。奴隷であることに拘り、主人に尽くすことを信条にしてこれまで生きてきたんです。コバにとって、サーシャやシラさんは世界の全てでした」
「そうだな。そして今、コバの主人はお前だ。サーシャが、ナオルを見込んでコバを譲渡したんだ。コバの方もお前を慕っている。当然、お前が何処に行こうとひたすら後に従って付いていこうとするだろう。――お前が、元の世界に帰る時でもな」
「…………」
自分の顔が、苦渋に歪むのが分かった。
「……連れてはいけない、って顔をしているな。お前の世界でも、ゴブリンは拒絶されてるのか?」
マルヴァスさんが静かにそう問いかける。責めるような口調ではない。それでもその言葉は、甘ったれていた僕の心を容赦なく切り刻んだ。
ゴブリンも、オークもエルフも、それから竜も。彼らは尽く、僕の世界では幻想の産物だ。“実物”が存在するなんて誰も思わないし、僕だってこっちに渡ってくる前はそうだった。
そんなところに、コバを連れて行ったらどうなる?
「……きっと、コバにとって良くない事が起こります。奴隷として虐げられるより、もっとずっと酷い事が……」
具体的な言及を避けて、僕はそれだけをどうにか口にした。具現化した空想を目の当たりにした人々の好奇心が生み出す――悪意。それがコバに何をもたらすかは、正直考えたくもない。僕の手で匿ったとしても限界がある。遅かれ早かれ、コバの存在は露呈してしまうだろう。そうなったら――もう、コバを守れない。
「じゃあ、置いていくのか? 主人としての責任も何もかも、コバに対する一切の行きがかりを捨てて。サーシャとの約束を反故にして」
「――っ!? それ、は……!」
今度こそ咎めるような言い方をされ、僕はまたも返事に窮する。マルヴァスさんの目をまともに見られず、俯いた。
「ナオル、厳しいようだが言っておくぞ。お前は自分の世界に帰る前に皆の恩に報いるつもりだといったが、考えが甘い。大事なことから目を逸らしてしまっている」
僕は何も言い返せず、黙ってマルヴァスさんの訓戒を聴く。
「コバだけじゃないぞ。お前の事を頼り、心の支えにしている奴は他にも居る。お前は、自分がどれだけの重きを成しているのか、もっとしっかり自覚するべきだな」
ぐっ、と。思わず肚に力が入る。僕を……僕なんかを心の拠り所としてくれている人。それが誰なのか、心当たりは無いではない。流石に、そこまで鈍感じゃない。
「……とまあ、俺が言いたかったのはそんなところだ」
険しさが消え、いつもの軽妙さが戻った声でマルヴァスさんが僕の肩を叩いた。
僕は顔を上げて彼の顔を見た。人懐っこい、見るものを安心させるいつもの柔らかい笑顔がそこにはあった。
「色々と強めに言っちまったが、まああまり深刻に捉えるなよ。まだ帰る方法を見つけてもいないしな。ただ、ナオルにはきちんと分かっておいてほしかったからさ」
「いえ、言ってもらえて良かったです。僕は、その辺のことを漠然としか考えていませんでした。というよりむしろ、マルヴァスさんが言ったようにあえて目を逸らしていたんだと思います。いつかは別れないといけないから、考えたくなかった。大事なことから、逃げていたんです」
それこそ、マルヴァスさんが前置きとして話した水と酒のたとえのように。大事なことを考えずにいれば、面倒を避けられる。そんな錯覚を無意識の内に抱いて、表面上の綺麗さに酔い痴れていた。見た目は澄んだ水に見えても、内実は辛くて熱くて、苦い。僕と皆の関係性は実質そんなものなのだ。そこから目を逸らしていてはいけない。最終的にどのように清算するのか、確かな考えを纏めておかなくてはならない。全てをなあなあのままにして帰ったら、僕は救いようがない人でなしになってしまう。
「そう思ってもらえるだけで今は充分だ。一朝一夕に答えが出る問題じゃないからな。帰る方法を探す傍らで良い。お前がこっちで築いた“縁”とどう折り合いをつけるのか、じっくり考えてみてくれ」
「分かりました。ありがとうございます、マルヴァスさん」
僕の返事に満足そうに頷いて、マルヴァスさんはもう用は済んだとばかりに僕から背を向けた。
「良し、これで言うべきことは言った。そんじゃ、俺は自分の部屋に戻って寝るわ。流石に旅の疲れが溜まってるみたいでな、実を言うとすげー眠い」
「ええ、おやすみなさいマルヴァスさん」
僕は彼を見送る為に一緒に扉のところまで行く。
「おっ?」
「あっ――」
マルヴァスさんが取っ手を掴んで扉を開けた時、その向こうから誰かが声を上げた。
マルヴァスさんの肩越しに見える、困惑の表情を浮かべたその人は他でもない。
「メルエットさん…………」
今まさにノックしようとしていたのだろう、手を胸のあたりにまで振り上げた姿勢のままで紅色の髪を揺らしながら数歩下がる、彼女の姿がそこにあった。