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竜の階  作者: ムルコラカ
第四章 忍び寄る闇雲
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第百四十三話

 「ふ〜……」


 お風呂上がりの火照った身体を冷ましながら、僕はコバを伴って充てがわれた自分の部屋に戻った。

 王都におけるイーグルアイズ伯爵家の館は、その外観に負けず劣らず内部も精巧な意匠を凝らした造りになっており、それはこの客室においても例外では無い。家具ひとつ、調度品一品をとっても各々の高級感は元より、設置場所や向き等がまるで計算され尽くしたかのような存在感を放っていて、部屋自体が一個の美術品として完成されているみたいな印象を受ける。カリガ領のモントリオーネ卿の館ですらこれ程の拘りは見なかった。

 貴族階級の格式の高さを改めて目の辺りにし、ゆっくり湯船に浸かったにも関わらず未だに落ち着かない気分が続いている。僕ですらそうなのだから、傍らのコバは言わずもがなだ。


 「ま、まだ……身体の震えが止まりませんです……! あのような巨大で美しい浴場に、卑しいコバめが入れるとは……! それに、このような上等極まるお召し物を着させて頂けるなんて……!」


 キャパを超える感激と畏れを同時に抱いているのであろう、コバは現実を受け止めきれない様子でシルクのガウンを纏った自分の身体を両手で掻き抱いてブルブルと震えている。


 「すごかったよね、何もかも至れり尽くせりって感じで。入浴の前に頂いた食事だって豪勢だったし、これまでの旅を考えればありえないくらいの贅沢を堪能させて貰っちゃったな」


 僕は苦笑いしながらコバの頭を撫でる。僕もまた、これまで来ていたブレザーを脱いでコバと同じくガウン姿になっていた。


 「でも、これはちゃんと現実だよ。コバが頑張ったから、メルエットさんやイザベルさん達が感謝の気持ちを表してくれたんだ」


 「勿体無う……ございますです……! コバめはただ、ナオル様の御命令通りに致しただけ……! コバめの功績と申されるのなら、それは全てナオル様の……!」


 「いいや、コバ自身の手柄さ。僕が命令した以上の事を、コバは沢山やってくれたよ。コバが居てくれなかったら、僕達はあのネルニアーク山でとっくに生命を落としていた筈だからね。改めて、ありがとう、コバ」


 「そ、そんな……! 恐れ多うございますです……!」


 心からの言葉なのだが、受けた方のコバは増々縮こまってしまう。それでも、その口元には僅かに嬉しそうな笑みが浮かんでいる。

 それが分かったから、僕もそれ以上しつこく言わず、代わりにコバをバルコニーに誘って共に夜風に当たった。この館は高台に位置しており、僕に割り当てられた部屋からは貴族区の街並みが見渡せる。もう夜も更けていたが、彼方に見える街はまるで眠りを知らないかのように光の粒で満ちていた。


 「綺麗な、夜景でございますですね……」


 街の灯りに目を向けながら、コバがうっとりしたように言う。コバの言う通り、大小様々な灯火が彩る貴族区の街並みはまるで色鮮やかな光の川のようで、バルコニーから望める景色としては申し分無い。

 だけど――と、僕は夜空を見上げる。地上の光が充実しているからであろう、暗い空に瞬いている筈の星々の光はいずれも弱く、今にも消え入りそうだった。

 マグ・トレドでサーシャと一緒に見た星空も、ネルニアーク山の崖下でメルエットさんやコバに介抱されながら見上げた星海も、この王都には無い。それが何故か、無性に寂しく感じられた。


 「お〜い、ナオル〜? 居るか〜?」


 コバと二人で夜景を堪能していると、不意にノックの音と扉の向こうから呼びかけてくる声がした。


 「マルヴァスさん? 今開けます」


 のそのそと扉に近づいて開けてみると、案の定マルヴァスさんがそこに立っていた。手には飲み物の瓶を抱えている。


 「一緒に呑もうと思ってな」


 「お酒ですか? 前にも言ったと思いますけど、僕お酒は……」


 「良いから、取り敢えず入れてくれ」


 入り口での問答はもどかしいと言わんばかりにマルヴァスさんが急かす。僕は苦笑いを浮かべて扉を押し広げ、彼を中に招き入れた。

 コバにグラス(彼の元主人の名では無い)の用意をお願いしつつ、マルヴァスさんと共にバルコニーへ戻る。


 「綺麗なもんだ。コンラッドの奴、良い場所に館を建てたようだな」


 「マルヴァスさんは、この館へは来たことが無かったんですか?」


 「ああ、今日初めて足を踏み入れたよ。俺が奴やメリーと知り合ったのはマグ・トレド攻防戦においてだからな」


 「メルエットさんも、当時はマグ・トレドに住んでいたんでしたね」


 「メリーも五歳くらいまでは母親と一緒にこっちで暮らしていたらしい。母親が亡くなってから、マグ・トレドに移ったんだと。あのイザベルって婦長は乳母で、病弱な母親や多忙な父親に代わって幼かったメリーの世話を担っていたそうだ」


 「四年ぶりに会った、とか言ってましたが……」


 「戦後の論功行賞が行われた際に、コンラッドに伴われて王都に戻っていた時期があったからな。子供の成長は早い。綺麗になったメリーを見て、イザベルさんも感無量だったろうよ」


 「メルエットさんも、イザベルさんと再会出来て一際嬉しそうでしたね」


 そんな風に他愛もない話をしていると、コバがグラスを二つ持って戻ってきた。


 「お待たせ致しましたです。こちらでよろしかったでしょうか?」


 「ありがとう、コバ」


 ひとつで良かったのだが、僕は素直にお礼を言ってグラスを受け取り、片方をマルヴァスさんに差し出した。

 マルヴァスさんはそこに持ってきた瓶を傾け、並々と中身の液体を注いだ。


 「王都の到達を祝って、乾杯だ」


 「いや、だからお酒は……ん?」


 注ぐだけ注いで僕からグラスを受け取ろうとはせず、代わりに意味深な笑みを浮かべてこっちを見てくるマルヴァスさんに苦言を呈そうとした時、僕はグラスの中に注がれた液体がやけに澄んでいる事に気付いた。

 

 「これ、もしかして酒じゃなくて、水ですか?」


 鼻を近づけて匂いを嗅いでみるが、アルコールの刺激臭がツンと鼻を刺すことも無く、無臭だった。


 「ダナン王国南部のルー山脈に湧く、最高峰の天然水だ。中々手に入らない高級品なんだが、これだけの館なら置いてあるかなと思って物色してみたら案の定見つけてな。幸運だったぜ」


 「物色って、人の家で勝手に……」


 「大丈夫だ、ちゃんとメリーの許可は取ってある。つまらんことは気にしないで、ぐぐっと飲めよ」


 僕はもう一度グラスの中を見た。やっぱり、何度見てもただの水にしか見えない。一点の濁りも無く、底まで見通せる。匂いもしない。

 考えすぎか、と思って僕はグラスに口をつけた。高級な天然水と聴いて心が動かされたのも事実だ。どれどんな味がするのかと期待を膨らませてその水を飲んだ。


 「――? ――ッ!!?」


 口に含んだところで違和感を覚えたが、遅かった。そのまま“水”が喉の奥まで流れてゆく。

 途端に口内から喉にかけて、焼けるような熱さと刺されるような痛みが押し寄せる。僕はグラスを取り落し、喉に手をやって地面にうずくまって激しく咳き込んだ。


 「ゲホッ!! ゲホッ!! ウ、ゲッ……!! こ、これ、は……!?」


 上手く言葉が出てこない。喉全体に激しく暴れまわるような熱さと痛さが広がり、涙が溢れてくる。同時に、口元からせり上がって鼻に抜ける、炭酸を飲んだ後に来るような刺激。


 「ナ、ナオル様っ!!?」


 慌てふためくコバの姿が視界に映ったが、とても応えているゆとりは無い。僕は喉を抑えながらひたすら荒い咳を繰り返すだけだ。


 「はははっ、引っ掛かったなナオル」


 からかうようなマルヴァスさんの声が頭上に降ってくる。信じられない気持ちで上を見上げると、いたずらっぽい笑みを浮かべたマルヴァスさんが満足そうにこっちを見下ろしていた。おまけに、しれっと僕が取り落したグラスをキャッチしている。


 「水だと思っただろ? 実はこれ、酒なんだよ。“マクリールの滴”って言う、無臭と透明度を売りにしている王都の銘酒だ。その癖、割かし度が高いと来ている」


 「だ、だ、だま……した……っ!」


 「睨むなよ、悪かったから。ほれ、今度こそ本当の水だ」


 傍らに酒の入ったグラスを置き、もう片方のグラスを手にとってマルヴァスさんは別の瓶から液体を注ぎ込む。……どこから取り出したのだろう?

 差し出されたグラスを、僕は当然のように受け取らなかった。


 「〜〜〜〜っ!!」


 代わりに、怒りを込めて涙目でマルヴァスさんを睨み付ける。今度こそ水だと言われたところで信じられるか。


 「マルヴァス様! まずはコバめに、それを!」


 僕の心中を察してくれたコバが、マルヴァスさんからグラスを受け取り、中を傾けて自分の掌に液体を僅かに零してからそれに口をつけた。


 「ナオル様! ご心配無く! マルヴァス様の仰られた通り、これは水でございますです!」


 コバの言うことなら信用出来る。僕は急いでコバからグラスを受け取り、中身を一気に煽った。

 清涼な水が、口内と喉にひりついたアルコールだかエタノールだか良くわからない成分を流し落としてゆく。痛みと熱さが少しだけ薄れ、話せるだけの余裕が戻ってくる。


 「ゴホッ! ゴホッ! ……ありがとう、コバ」


 かすれ声を発しながら、僕は空になったグラスをコバに渡した。それから、キッ! と改めてマルヴァスさんを睨み付ける。


 「悪かったって。許してくれよ」


 降参というように両手を広げたポーズで苦笑いするマルヴァスさん。どう見ても然程悪いと思っているようには見えない。


 「……なんで、こんなことを?」


 色々と言いたいことはあるが、取り敢えず僕は感情を抑え込んでそれだけを尋ねた。いくら他人をからかうのが好きだと言っても、こんな風に度を越した悪戯なんて彼はしなかった筈だ。それが、何故?


 「こうした方が分かりやすいと思ってな」


 マルヴァスさんは苦笑いをやめて、真顔になった。それからおもむろに、傍に置いた酒入りのグラスを手に取って持ち上げた。


 「お前も今味わったように、この“マクリールの滴”は酒だ。水じゃない」


 ――ええ、味わいましたよ。死ぬかという程に。

 そう恨み節を言ってやろうかとも思ったが、今のマルヴァスさんからは真剣な雰囲気が漂っている。茶々を入れるべきではないだろう。


 「ナオルも、最初は水だと思っただろ? こんな風に透き通っているし、匂いもしない。予め酒だと知らなかったら、誰でも最初は同じような反応をするんだ」


 ……何が言いたいのだろう? 僕は探るような目でマルヴァスさんの様子を窺った。


 「外見だけでは、清浄な水に見える。ところが実際に飲んでみると辛味と酸味が喉を焼き、胸を焦がす。本質は、見た目とは異なる場合があるんだ」


 マルヴァスさんは、彼方に広がる貴族街の夜景に顔を向けた。横顔となった彼の瞼に、僅かに険しさが増したように見えた。


 「この王都もそうさ。華やかで、栄えていて、争いや貧苦とは無縁に見える。此処に居ると、マグ・トレドやモルン村の惨状がまるで夢だったんじゃないかとさえ思えてくるだろう」


 「…………」


 僕は口を挟まず、マルヴァスさんの言葉に耳を傾けた。


 「だが、夢なんかじゃない。地続きの、現実さ」


 マルヴァスさんはグラスを掲げ、中に残った酒を一息に飲み干す。ほう、と息を吐いてから続けた。


 「この王都にも、暗部はある。庶民区の片隅に儲けられた貧民街や、捨てられるようにそこに押し込められた人々。普通に過ごしていたら気付きにくい、恥部なんていうものがな。戦争のしわ寄せは、此処にだってしっかり及んでいるんだ」


 マルヴァスさんが僕に向き直る。彼の目は、相変わらず真剣な光を湛えていた。


 「尤も、それは分かりやすい一例に過ぎない。そんな具体的な話だけじゃなく、もっと抽象的な意味でも理解すべき事柄だ」


 「……どういう、意味ですか?」


 上手く意図を汲み取れず、僕は訊き返した。


 「今言った貧民街云々は、実のところ俺達にはそれ程関わりが無い。……けどよ、見た目と本質が違うってことは、ナオルにもよくよく肝に銘じておいてもらわなきゃならねぇんだ」


 マルヴァスさんはそこでコバの方を見た。


 「コバ、すまねぇがメリーかイザベルさんのとこまで行って、何かつまめる物が無いか訊いてきてくれないか? うっかり用意してくるのを忘れてな」


 「え……? で、ですが……!」


 コバは困惑した表情で、指図を仰ぐように僕を見た。


 「……僕からもお願いするよ、コバ。マルヴァスさんの話は長くなりそうだし、お茶菓子でも無いと間が持たないかも」


 「か、かしこまりましたです。それでは、おつまみの他に飲み物も追加で貰えないか、伺って参りますです」


 「ありがとう、ゆっくりで良いよ。メルエットさんやイザベルさんも忙しそうにしてるかも知れないし、頃合いを見て頼んでみて」


 「承知致しましたです。それでは……」


 恭しくお辞儀をして、コバは部屋を出ていった。しばらく間を置いてから、僕はマルヴァスさんに向き直る。


 「……コバにも聴かれたくない話ですか?」


 「まァな。というのも、とどのつまりはお前の去就についてだから」


 「僕の、去就?」


 思わず、眉を顰めた。マルヴァスさんは表情を変えずに言葉を続ける。


 「原点に立ち返ろうか。ナオル、お前は他の世界からやって来た“渡り人”だ。そして、元の世界に帰る方法を見つける為にこの王都までやって来た」


 「……そうですね。それが、当初からの僕の目標です。僕は、家に帰らなくちゃならないんです。父さんが……待っているから」


 「ああ、そう言っていたな。勿論、今更それにケチを付けようって訳じゃない。美しい理由で、素晴らしい目的だと俺も思う。まるで一欠片の不純物も混じっていない“水”のように」


 「…………」


 嫌な予感が、胸騒ぎがする。ドクン、ドクン、と心臓の音が大きくなる。


 「……ただ、帰ろうと思っているつもりは、無いです。こっちの世界に来て、色んな人にお世話になりました。勿論、マルヴァスさんにも。たとえ帰る方法を見つけられたとしても、まずはその恩を返してからにしよう……と、思っています」


 若干の喘ぎが混じった声で、彼にそう伝える。それでも、彼の様子に変化は表れなかった。


 「そうか、それは立派だな。お前のそういうところ、俺は好きだぜ。……けどよ、」


 そこで、マルヴァスさんは少し言葉を溜めた。

 

 「お前がこっちの世界で築いた“縁”は、恩義って言葉には収まりきらないんじゃないのかい? ――例えば、あのコバとかよ」


 「――っ!?」


 息が、詰まった。


 「単刀直入に訊くぜ、ナオル」


 マルヴァスさんは、しっかりと僕を見据えて口を開いた。








 「――お前、コバを自分の世界に連れていく心積もりがあるのか?」

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