第百三十八・五話
フォトラ視点の回。彼の《誓約》と本心が明かされます。
これにて第三章は終了です。
「腹部の打撲痕と少々の内出血、それと絞められた首筋に少しだけ痣が出来てる。他には目立った負傷は無い。大丈夫、生命に別状は無いよ」
フィオラの診察と手当を担当した軍医官が、見る者に安心感を与えるような微笑を添えながら穏やかに説明してくれる。
「オークの力で気絶する程殴られたら、肋骨の一本や二本は折れてもおかしくなさそうだけど、診た限りじゃ骨は全部無事だね。はは、逞しく頑丈なお嬢さんだ。ワイルドエルフの生命力が為せる業かい?」
軽口も混ざっているが、そこに嫌味は籠もっていない。先程からずっと深刻な顔をしているフォトラの気持ちを和ませようという心遣いであろう。
それが分かっているフォトラは、ただ黙って彼に頭を下げた。
「まぁ、とにかく必要な処置はしておいたから。後はぐっすり眠ればすぐに元気になるよ。それじゃ、僕は他の兵士達の診察があるから、これで失礼させてもらうね」
そう言って、軍医官は荷物を纏めて幕舎を出ていく。今日の盗賊との戦闘で、第二王子率いる《ドル・ドナ騎士団》側にも多少ながら負傷者が出た。軍務に忙しい間を縫って妹の治療に当たってくれた彼の背中に、フォトラはもう一度深く頭を下げた。
小さな幕舎の中に残されたのは自分と、横たわって安らかな寝息を立てているフィオラだけだ。
「フィオラ…………」
フォトラは妹の隣に腰を下ろし、その寝顔を見詰めた。自分と良く似た造りでありながら険のない眉目。自分と同じで滑らかで鮮やかな金色の長い髪。成人を迎えていながらあどけないとさえ言える程の天真爛漫さを保った、自分の半身。
「すまない…………」
眠っているフィオラに対し、フォトラは項垂れるように詫びた。
妹の危機に、自分は何も出来なかった。妹の腹にヴェイグの拳がめり込むのを、為すすべなく見ているだけだった。全て、自分の責任だ。
「《誓約》を立てたというのにな。こんな有様では、お前の事を責められた義理では無いな、はは……」
自嘲の笑みが溢れる。不肖のワイルドエルフなのは、自分も同じかも知れない。
『長よ、大地に眠る我らが祖先よ、万物に宿る我らが神々よ、我が《誓約》を聞き届け給え』
フォトラは思い出していた。成人の儀を迎えた時の事を。あの日、族長と神々の祭壇の前で打ち立てた自分の《誓約》を。
『我、フォトラはこれより、我が妹フィオラを生涯を通して護らんと誓う。嵐が来ようと、戦が起ころうと、彼女と共に歩み、彼女を支え続ける』
それが、物心ついた時より決めていた、自分の決意。
常日頃から諍いの絶えない相手だが、本心では他の誰よりも大切に想っている存在だった。妹の全てが、自分の一部であると言っても良い。
だから《誓約》として宣言するのも何の抵抗も無かった。
『――本当に、それで良いのかフォトラよ』
だが年老いた族長は、そんなフォトラの心を危ぶむようにそう質した。
『フィオラはそなたの妹であり、素晴らしい才能を秘めた吟遊詩人じゃ。故にそれを護ろうとするそなたの《誓約》は、神々にも我らが祖霊達にも祝福を以って受け入れられよう。じゃがのう……』
族長は、少しだけ眉根を下げて表情に慈しみを混ぜた。
『如何にそなたらが強い絆で結ばれた兄妹であろうと、本当に生涯を共にする事が出来ようか? そなたもやがては妻を娶り、フィオラもいずれは夫となる者を見出そう。種の営みとは、そのようにして続いてゆくのじゃ。それを枉げ、兄妹二人だけの世界に閉じ籠もるのが幸福と呼べるであろうかの?』
フォトラははっとして顔を上げた。自分を見下ろす族長の顔は穏やかで、自分と妹の将来を想う優しさで満たされていた。
『心するのじゃ、フォトラ。そなたと妹は、結局は違う存在。兄妹には兄妹の、夫婦には夫婦の、それぞれにおいて最も適切な距離、そして助け合う方法というものがある。それを踏まえ、今一度《誓約》を申してみよ』
フォトラは考えた。陽が傾き、祭壇に灯された炎が小さくなる程の間が空いた。
そして、考えに考え抜いた彼は、今度こそ自分の《誓約》を口にする。
『我、フォトラはここに誓う。我が妹フィオラの傍らに、彼女を心から愛し護り支える存在が現れるまで、我自身がその役目を担うと。妹の伴侶に全てを委ねる日が来るまで、我が手で彼女を襲うあらゆる災厄、理不尽な悪意を打ち払わんと――!』
それが、フォトラの《誓約》だった。
赤枝従士隊から抜けたのも、追放されたフィオラを追って故郷を後にしたのも、彼女と共にここまで旅を続けてきたのも、全てはこの為だ。
あの日に誓った、ワイルドエルフとしての、フィオラの兄としての決心。
当然フィオラは知らない。たとえ族長がそれを許したとしても、彼女に教えようとは思わない。
この《誓約》は、フォトラだけのものだ。
「……今後は、より一層注意すると改めて誓おう。もう二度と、他の誰にもお前を傷付けさせない」
規則正しく上下するフィオラの胸と、穏やかな彼女の寝顔に向けて、フォトラは自分の覚悟を口にする。妹の耳に入る事は無い、兄の想いを。
「これからも、私はお前の傍に居るよ。嫌がられようと、煙たがられようと、お前と共に歩み続けるよ。お前に……」
『心から愛する男が出来るまで――』
その言葉をぐっと飲み込み、代わりとばかりに、フォトラは妹の頭を優しく撫でるのだった。




