第百十六・五話
メルエット視点の間話です。
前回の終わりから彼女の心境を綴っていきます。
フィオラが寝ていた部屋から居間に至るまでの間に厠がある。
ナオルとコバを置いて廊下を進んでいたメルエットは迷わずその扉を開き、逃げるように中に滑り込んだ。
「はぁ…っ! はぁっ……! ううぅ……っ!」
壁に手をついて嗚咽を押し殺す。悔しくて、情けなくて、恥ずかしくて、後から後から涙が湧き出てきた。
「バカ…ッ! ナオルのバカ……ッ! 頭でっかち! 朴念仁! 唐変木……ッ!」
荒くなった呼吸の合間合間に、ナオルへの呪詛を垂れ流す。あんな勘違いをするなんて、いくらなんでもあんまりだ。自分のモヤモヤする感情に気付いてもらえたのかと、一瞬でも期待したのが恥ずかしい。
ナオルに指摘されるまでもなく、先程自分がフィオラに対してとった態度が非礼極まるものだと頭では理解していた。自分が見せた豹変ぶりに、ナオルだけでなくコバも困惑しただろう。
でも止められなかった。フィオラに抱き締められるナオルを見て、一気に頭に血が上った。自力では制御できない、ドス黒い感情が心の底から泉の水のように湧き出してきて、あっという間に噴出した。
思い返せば、前日にも同様の衝動があった。
フィオラと初めて出会った際、彼女から溢れ出る明朗さと有り余る元気さに圧倒された。あんな風に好奇心丸出しで活発に他者と関わろうとする積極性は、受動的に生きてきた自分には無いものだと思った。
その時は、フィオラの躍動感に圧倒されただけで、彼女に負の感情は抱かなかった。彼女がローリスにすり寄った時も同様だ。煽てられて良い気分になっている彼を見て呆れはしたものの、満更悪い気はしなかった。むしろ、自分が目にかけているローリスが、他の人からも認められたようで嬉しくなったものだ。
ところが、ナオルが戻ってきた時にそんな気分は消し飛んだ。
嬉々としてナオルに抱き着いたフィオラを見て、頭が真っ白になった。次の瞬間、怒りに全身が支配され、気付いたら手が出ていた。……被害に遭ったのはナオルの方であったが。
『《棕櫚の翼》が襲来した時の話を聴かせてほしい』というフィオラの要望を一刀両断したのも、大部分は彼女の無神経な物言いに腹立ちを覚えたからだったが、ナオルの存在が占める割合も少なくなかったのだ。
自分の、この感情がどういうものかは知っている。貴族の娘として受けた教育の中で、知識としては学んでいた。
嫉妬――。
自分は、フィオラに嫉妬した。
ナオルに対して親しげに接する彼女を、憎らしいと思った。
ナオルの傍に彼女が立つのが、とにかく気に入らなかった。
ああ認めよう。自分は、醜い嫉妬心を起こして、必要以上にフィオラに辛く当たってしまったのだ。
何故か?
その答えも、メルエットは知識としては知っている。親しい異性に対して“その感情”を抱くのは、何ら不自然ではないのだと。
しかしながら、自分の気持ちが“それ”に該当するのかと想いを馳せた時、一抹の疑問が喉に引っ掛かる小魚の小骨のようにメルエットの心に異物感を残してゆく。
彼と出逢ってからまだ日が浅いのに? 一緒に旅をしていく中でいくらか理解を深められたとはいっても、まだまだお互い知らない部分の方が多いのに? 彼よりずっと長い付き合いのマルヴァスには、そんな感情一切抱いていないのに?
もし本当にこの気持ちが“それ”だとしたら、どうして? 彼が《渡り人》だから? 特異な存在だから? 見たことも無いような強力な魔法を使えるから? 何度も自分を助けてくれたから? 利用価値があるから? 彼の持つ力に魅せられたから? 彼に備わった人となりに惹かれたから?
……分からない。どれだけ考えても明確な答えは出ない。
この辺りが、机上の勉強に終始してきて対人能力を磨いてこなかった自分の限界なのだろうと、メルエットは寂しげに結論付けた。
ただ、自分の想いがどういうものであろうと、変わらない事実がひとつある。
自分は、ナオルに激しく執着している。
それだけは確かだ。主観的に見ても客観的に見ても、自分ことメルエット・シェアード・イーグルアイズは、ナオルという一個人に強い執着心を抱いているのは間違いない。
それは、良くない事だ。執着は迷いを生み、迷いが決断力を鈍らせる。共に旅するマルヴァスやローリス、コバは元より、死んでいった兵士達にも顔向けできない。
使命にも、支障が出るかも知れない。
「抑えるのよ、メルエット……。気持ちを抑えて……深く心にしまい込んで……。そして、出来れば忘れてしまいなさい」
ようやく落ち着いてきた呼吸を意識しながら、メルエットは目を閉じて懸命に自分に言い聴かせた。
それから、袖で乱暴に目元を拭うと、決然とした足取りで厠を後にするのだった。
乙女心は複雑。置かれている立場も相まって、メルエットは中々自分に素直にはなれないようです。




