第百十六話
「メ、メルエットさん! あの……そろそろ、離して……」
フィオラさんとフォトラさんを残して部屋を出た後も、メルエットさんは僕の右腕を胸に掻き抱いたまま解放してくれない。密着した身体から感じる彼女の体温に内心ドギマギしながら、ずんずんと進むメルエットさんに対して僕は控えめに願い出る。
「ダメ!」
実に素っ気なく言い捨てると、メルエットさんは離すどころか逆に両腕に込める力を強めてきた。掴まえられた僕の右腕が増々彼女の豊かな胸元に押し付けられ、二の腕に柔らかな膨らみが容赦なく襲い掛かる。彼女が足を踏み出す度に美しい紅色の髪がふわりと揺れ、芳醇な色香を含んだ優しい匂いが鼻先を撫でる。少し目線を下げれば、白磁のように綺麗な横顔がすぐ目の前にあった。透き通った長い睫毛の一本一本まで鮮明に見える程だ。
「ううっ……!?」
男を惑わせる甘美な刺激の数々に目眩すら覚えてきた。とりわけ僕のような思春期男子にはきつい劇薬だ。視覚も触覚も嗅覚も、尽くがメルエットさんで埋め尽くされる。前後の感覚が麻痺していき、足元が覚束なくなる。飲酒の経験なんて無いけれど、もしかしたら“酩酊する”ってこんな感じなのかな?
朦朧としながらも助けを求めて後ろから付いてくるコバに視線を送るけど、コバは心底申し訳無さそうに上目遣いで見上げてくるだけだった。それも仕方無い。僕とてフィオラさんに抱きかかえられたコバを眺めていただけだったし、責める気は起きない。
だけど、これは……もう……げ、限界……っ!
「だ、だからっ! 当たってるからっ! メルエットさんの、胸が……っ!」
心身を激しく揺さぶる官能に耐え兼ねて、僕はつい正直に吐露してしまう。
「え……? ……あっ!? そ、そうね! ごめんなさいっ!」
一瞬何を言われたのか意味が飲み込めないと言った風に、メルエットさんは俄に立ち止まると怪訝な顔でこちらを見つめてきたが、一呼吸置いてからようやく今の自分達の状態に気付いたのか、彼女は慌てて両腕の拘束を解いて僕の右腕を解放した。二・三歩僕から距離を取りつつ、気まずそうに顔を背ける。横を向いた彼女の頬は、先程のフィオラさんとフォトラさんみたく耳元まで朱に染まっていた。
「あ…………」
勝手なもので、そうなると今度はさっきまで腕を包み込んでいた魅惑の感触や、鼻孔をくすぐる甘やかな香りが無くなってしまって寂しい、と心の何処かで名残惜しさを覚えてしまうのは人情というものだろうか? ……むしろ劣情という線が濃厚かも知れないが。
とりあえずこのままでは気不味い。何か言わなきゃ。煩悩に振り回されている場合じゃないぞ、僕。
そこまで考えて、ふとさっきの部屋でのやり取りが意識に強く上がってきた。
「ほ……本当に、あの二人を残してきて良かったのかな?」
何食わぬ顔を装いたかったが、無理だった。どうしても声が上ずってしまう。
「むしろあのまま部屋に残る方が酷よ。彼らの傷を余計に広げるだけだわ」
メルエットさんはそっぽを向いたまま、少々投げやり気味に答えた。
「起き抜けにあんな無防備な振る舞いを晒したフィオラ殿は勿論だけど、兄御前であるフォトラ殿も相当恥ずかしかったでしょう。しばらくそっとしておくほうが良いわ。二人の頭が冷えた頃を見計らって、また訪いましょう」
「えっ? そ、そう……なの?」
戸惑いの声を上げると、彼女は不満そうに横目で睨んできた。
「何よ、その顔は。私だって、それくらいの機微は分かるわよ」
「い、いや、別にメルエットさんが鈍感とか言うつもりは無いんだけど……」
言及するのが躊躇われて、僕はモゴモゴと言い淀む。それが癪に障ったのか、メルエットさんは正面に顔を戻して苛立たしげに言った。
「言いたい事があるならはっきり言いなさい! 見苦しいわよ!」
「っ! わ、分かった! 言うよ……!」
彼女の剣幕に押されるように僕は頷いた。ひとつ、大きく深呼吸をして肺の中の空気を入れ替える。
……うん、良し、少しは落ち着いた。僕は改めてメルエットさんを見ると、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「メルエットさん、本気であの二人を気遣ったんだとしたら……さ。さっきのフィオラさんへのあの言葉、あれが、その……ちょっと、分からないんだけど……?」
「………………」
メルエットさんは僅かに視線を落としたものの、何も答えない。
「さっきのメルエットさんの様子は、どう見ても怒っているようにしか見えなかったよ。フィオラさんに侘びなきゃ、とか言っていたのに、逆にあんな追い撃ちのような言葉まで投げ掛けて。正直言って……」
『良くなかったと思う』と続けようとして言葉を飲み込んだ。メルエットさんの言い分を聴かずにそこまで言うのは説教臭い。矩をこえている。
「…………」
メルエットさんは沈黙したままだ。話の合間にチラチラと上目遣いで僕を見上げてくるものの、その口が開かれる様子は無い。
「一体どうしたのさ? 何か気に障る事でもあった?」
「……貴方だって、大方の予想はついているんじゃない?」
僕が更に追及すると、メルエットさんは拗ねたように口を尖らせて言った。彼女の恨みがましげな目を見返しながら、僕は少し考えた。
「…………まさか!?」
そしてはたと思い当たる。
「っ!? き、気付いてくれた?」
メルエットさんは一瞬肩を震わせて、もじもじと両手の指を手慰みに絡ませながら所在なさげに視線を彷徨わせる。白磁のような彼女の頬は、今や茹で上がったみたいに真っ赤だ。
この反応、そしてさっきの部屋でのあの言葉。もう間違いない。僕の勘違いでは無い。
僕は敢然と口を開く。彼女の望む答えをその舌に乗せて。
「メルエットさん、フィオラさんが羨ましかったんだね」
「…………は?」
たっぷりと間を開けて、彼女が発したのは呆気にとられたような声。僕はそんな彼女の目を真っ直ぐ見返して自信満々に言った。
「起き抜けで前後不覚だったとはいえ、素直に家族に、お兄さんに甘えるフィオラさんの様子を見て、自分を重ねちゃったんでしょ? お父さんのイーグルアイズ卿の事とか、お母さんの事とかを思い出して」
ネルニアーク山の崖下で、夜の帳に抱かれながら彼女と交わした会話が脳裏に蘇る。
親子としての時間を過ごせなかった父と自分。幼い頃に亡くなった母。メルエットさんが家族の愛に飢えていたのは、彼女の語る言葉の端々から十分に察せられた。ワイルドエルフ兄妹の、お互い素直になり切れないながらも支え合っている様子を見て、ふとコンプレックスを感じてしまった。
如何にもありそうな話だ。これが正解で間違いないだろう。
「でも大丈夫だよ、メルエットさん! マルヴァスさんが居る! ローリスさんだって、コバだって、それに僕だって傍に居るじゃないか! 辛い時はいつだって頼ってよ! お父さんには及ばないかも知れないけど、メルエットさんを寂しがらせたりしないから! 全力で力になるから!」
両手で握り拳を作り、力強く僕は断言する。メルエットさんの不安を断ち切るべく。
これで彼女の心も少しは軽くなるだろう…………あれ?
「……………………」
メルエットさんの様子が変だ。片方の頬だけをピクピクと痙攣させるように上下に動かしているだけで、僕の言葉に答えるでもなく固まってしまっている。
「……メルエットさん?」
怪訝に思って声をかけると、メルエットさんはフイッと顔を横に向けて早口で言った。
「ええそうねどうもありがとう、ナオル殿の有り難いお気遣いには感謝感激雨霰よ」
「メ、メルエットさん!?」
物凄い棒読みだった。言葉の内容とは裏腹に、そこに感謝の意図が込められているとは全然感じられない。心做しか言葉選びも何処かぞんざいだし。
「あー私って恵まれてるなー。よく気がつく従者達に囲まれて幸せだなー」
抑揚のない声を出しながら、メルエットさんはそのままひとりで廊下を進んでいく。しかも早歩きで。
「あ、あのー? メルエットさーん……?」
「さて、フィオラ殿も起きた事だし、そんな頼りになる従者達と今後の方針を相談しないといけないわねー。丁度今、村長や牧師殿と一緒に居間に集まっているんだしー」
まるっきり僕を無視して、そのままメルエットさんは吸い込まれるように奥へと消えていった。最後に少しだけ見えた彼女の頬に、何か光るものが流れているように見えたけど、気の所為だろうか?
「…………コバ?」
僕は後ろに居るコバを振り返った。なんでも良いから何か言って欲しくて。
「ナオル様……今のは、少し…………」
コバはほんの一瞬だけ何かを言いたげに僕を見たけど、結局はそのまま口をつぐんで申し訳無さそうに頭を下げた。
メルエット不憫。女性の色香に年相応に反応する癖に、ナオルくんは肝心要な部分で鈍感なようです。
頑張れメルエット!超頑張れ!