第百十五話
「っ!? フィオラさん!?」
場の空気が一瞬で硬化し、僕達の間に緊張が走る。僕も、メルエットさんも、コバも、フォトラさんも、息を詰めて寝台に横たわるフィオラさんの様子を窺った。
「はぁ……! んっ……!」
未だ完熟リンゴのように赤みがかった顔を歪め、フィオラさんが苦しげに身じろぎする。少なくとも、楽になっているようには見えない。
「っ……!」
奥歯を噛み締め、息を殺しながら僕はフィオラさんの回復を必死に祈る。胸の内で渦巻く想いに突き動かされるように寝台に詰め寄ると、前のめりになって彼女の顔を覗き込んだ。
すると…………。
「う……うぅ……」
吐息のようなささやき声を吐き出して、フィオラさんの目蓋が薄っすらと持ち上がる。
「フィオラさんっ!」
意識が戻った!?
「ぁ……ぁ…………」
フィオラさんの開いた半目の奥で、琥珀色の瞳が心細げに揺れる。焦点の定まらない目を忙しなく動かしながら、何かを訴えかけるように彼女の口元がわなないた。
「フィオラ、私だ。分かるか?」
僕の斜め後ろでやや控えめに立って様子を見守っていたフォトラさんが、小さな子供に言い含めるような調子で一言一言ゆっくりとフィオラさんに語りかける。
すると、兄の言葉に導かれるようにフィオラさんの瞳が一点を捉えた。
「………………」
僕とフィオラさんの視線が交差する。彼女が見つめているのは、僕だ。
「おにい、ちゃん…………」
「え……?」
半開きの彼女の口から発せられた一言。少々予想外のその単語に疑問の声を返す間も無く――
「お兄ちゃぁぁぁぁん!!!」
いきなり、フィオラさんは身体を跳ね上げて僕に抱き着いてきた!
「わぷっ!?」
あまりに突然の事で僕は全く反応出来ず、気付いたら彼女に頭を掻き抱かれて寝台に引きずり込まれていた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!! お兄ちゃんッッ!!!」
「フィ、フィオラさん……っ! ちが……! 人違い……っ!」
く、苦しい!? フィオラさんの胸元に顔が呑み込まれて、息が……っ!
必死に抗議の声を上げながら拘束から脱しようとするが、虚しい抵抗だった。細身な体型に似合わず、更にはついさっきまで半死半生を彷徨っていたにも関わらず、フィオラさんの力は圧倒的に僕の上を行く程に強い。マンドリン振り回してオーク達と渡り合った彼女である。情けない事この上ないが、力比べならひょろい僕では勝ち目が無い。
「やだよ! 見捨てないで!! 傍から離れないで!! ずっと一緒に居てよ、お兄ちゃんっっっ!!!」
「――!?」
切羽詰まったフィオラさんの叫び。それを聴いた瞬間、息苦しさも顔面に押し付けられる柔らかな感触も後頭部を締め付ける万力のような痛みも、全てが消し飛んだ。
代わって、火花のように瞬いて僕の脳裏を灼いたのは――
『兄さん! 何処に行っちゃったんだよ!! 帰ってきてよ!!』
『兄さんが居なくなった!! ナミ姉さんと一緒に消えちゃった!!』
『やだ! やだよ!! 僕を棄てないで!! ひとりにしないで!!!』
ゴンッッッ!!!
「あだーっ!!!??」
鈍い音。振動。ハスキーでありながらも野太い悲鳴。
それらが一気に押し寄せたかと思うと、急に僕の頭から圧迫感が消え、視界が開けた。同時に、過去に飛んでいた僕の心も戻ってくる。
「……私は此処だ、フィオラ」
フォトラさんが、眉間にシワを寄せて目を瞑りながら拳を突き出していた。彼の顔色は臥せっていたフィオラさんの比にならない程に真っ赤に染まっており、口元は苦虫を噛み潰したかのようにヒクヒクと蠢動している。
羞恥。今のフォトラさんの心中で渦巻いている感情は、それ以外の言葉では表現出来ないだろう。
「あ、あ、あに……き…………?」
一方のフィオラさんは、殴られた事で夢うつつの状態から醒めたのか、理解が追いつかないといった様子で僕達を見比べている。
しかし、段々とさっきまでの記憶を意識に読み込んでいったようで…………
「え……? あっ……! まさ、か……!? 私…………!?」
次第に目が見開かれ、わなわなと震えだす。フィオラさんも今、さぞかし兄と同じく羞恥心を味わっている事だろう。
「『お兄ちゃん』、ですか。中々可愛らしい呼び方をなさっていたんですね、フィオラ殿」
絶対零度の冷えた声がした。恐る恐る振り向くと、顔に満面の笑顔を貼り付けたメルエットさんが立っていた。
「〜〜〜〜〜〜っ!!?」
自らの醜態を裏付ける言葉を投げ付けられ、フィオラさんの顔が紙のように白くなる。というより、燃え尽きたと言わんばかりに全身から色素が抜け落ちてる。……いや、勿論それはただの比喩表現だけど、要はそれくらいはっきり分かる具合に全身から血の気が引いていた。
「思ったよりもお元気そうで安心しました。何せ、起き抜けに突然ナオル殿を抱き締め、寝台に引きずり込む程“お盛ん”な御様子ですものね。もっとも、実際に甘えたい相手とは違っていたようですが」
笑みを崩さないメルエットさんだが、全身からは背筋が薄ら寒くなるような威圧感が放たれていた。平坦で冷えた声音といい、普通に怖い。
「ナオル殿、メルエット殿。すまないが、しばらくフィオラと私だけにしてもらえないだろうか?」
こちらに向き直る事も無く、依然として羞恥一色に顔を染めたままのフォトラさんが、肩を震わせながら懇願するように頼んでくる。最早僕達を直視するのも困難らしい。
「ええ、それが良さそうですね。……行くわよ、ナオル殿。コバも」
メルエットさんは即座に了承すると、乱暴とも言える動作で僕の腕を掴んだ。
「ちょ、メルエットさん待って……!」
「行・く・わ・よ?」
圧を纏った笑顔が迫りくる。抗弁しようと構えた気持ちが、その一瞬で跡形もなく叩き折られた。恐怖に支配された僕は口を閉じ、ひたすら上下に頷く。視界の端で、コバも同様にしていた。
そうして、僕はメルエットさんにしっかりと腕を取られ、引き摺られるように部屋を後にするのだった。