第百十三話
「…………っ!」
誰かが息を呑む気配が伝わる。いや、それは僕が発したものだったかも知れない。
フィオラさんが顎を上げ、一糸乱れぬ挙措で静かに立ち上がる。尖った長耳は先端までピンと張り詰め、綺麗な金髪が月明かりを反射してふわりと揺れる。満月の光に照らし出された彼女の顔は、より一層の美しさと、更には神々しささえも備えているように感じられた。
「…………」
強い瞳で夜空に浮かぶ満月を見上げながら、フィオラさんがマンドリンの弦に指を這わせる。一、二回撫でるように上下に滑らせてから、おもむろに弦を弾いた。
ボロン――
「――――」
そして、彼女は口を開く。
尽きぬ嘆きが聴こえる
香る血と脂の匂い 室を満たす瘴気
悲痛と苦痛に終わり無く 死の影ばかりが忍び寄る
臥せる人々が見える
顔に浮かぶ汗と痘痕 指が凍る震え
皮膚と臓器は蝕まれ 手足は既に枯れ果てた
昨日までの日々を思い描き 朽ちる己に涙が落ちる
だけど歌いましょう まだ抗う意志があるならば
唄に合わせてフィオラさんの身体が舞う。颯然とマンドリンを奏でながら、悠々と魔法陣の中を歌い踊る。緩やかに歩んだかと思えば急に地を滑り、宙を跳ね回ったかと思えば俄に立ち止まる。風に吹かれる柳の枝のように身体をしならせ、水に流れる木の葉のように足を運ぶ。そうやって美しい舞を演じながらも、弦を弾く手は決して止めない。喉から迸る歌声も途切れない。その彼女の舞台を、満月から降り注ぐ蒼い光が華やかに彩る。淡く縁取られた世界の中で、彼女の瑞々しい金色の髪がまるで別の生き物のように流麗な軌跡を描き続ける。
月光を浴びてキラキラと煌めくフィオラさんの姿に、声に、雰囲気に、僕は勿論この場の誰もが圧倒されていた。
地面に直接描かれた魔法陣は、フィオラさんの足に踏まれてもまるで崩れる様子がない。むしろ彼女の唄が進むごとに、徐々にその線を濃くしているような気さえしてくる。
やがて芽吹き 地に栄える
どの生命であろうとも 最初に通る門は同じ
やがて萎れ 地に還る
どの生命であろうとも 最期に辿る道は同じ
其は神の思し召し
抗うは理への叛意
だけど願いましょう まだ生きる意志があるならば
我らを統べし 大いなる母よ
貴女の慈悲を 哀れなる子に注ぎ給へ
我らを宿せし 大いなる大地よ
汝の恵みを 今しばし授け給へ
代わりに捧げよう 我が詩を――――!
「……っ!? こ、これは!?」
錯覚では無かった。
暗い水底から浮かび上がってくるかのように存在感を増していた魔法陣が、突如黄色く発光し始めた。それは見る間に大きくなり、ストロボのように地表を照らす。月光のベールを掻き消す程の、黄色い光のアーチが垂直に立ち上ってフィオラさんを取り巻いた。
そして更に――
「見て! 魔法陣の光が……!」
メルエットさんが指差す先で、光のアーチは何本もの帯状の形に変わり、引き寄せられるように次々とフィオラさんに巻き付いた。まるでミイラの制作シーンを早回しで見せられているかのように、瞬く間にフィオラさんの全身は黄色く光る帯で覆われていく。いや、ミイラというより最早あれは……
「なんだありゃ? 繭でも作ってるのか?」
マルヴァスさんの言う通り、幾重にも巻かれた光の帯はどんどん太さを増し、蚕が作るような繭状の形態に変化していた。フィオラさんの姿は完全にその中に仕舞われ、今は指先すらも見えなくなっている。
「お、おい! 大丈夫なのかよ、あれ!?」
ローリスさんが焦ったようにフォトラさんに詰め寄るが、彼は落ち着いたものだった。
「問題無い。ここからが“秘癒の儀”の本領だ。……気にせず見届けてくれ」
「……?」
最後の言葉を言い終える時、フォトラさんの表情が陰ったような気がした。なんだろう、と思ったその時。
「――ッ!?」
フィオラさんを覆う光の繭が、解けた。
繭の中から、再び帯状となった黄色い光が無数に放たれる。その内一本は、蛇のように中空を這いながら明らかに僕目掛けて飛んできた。
「えっ!? う、うわぁっ!?」
文字通り光のような速さで進むそれを、防ぐ術も避ける術もありはしない。僕が気付いて悲鳴を上げた時には既に、光の帯は腕やら胴体やらに螺旋状に巻き付いてきていた。
締め上げられる! と一瞬思考が恐怖に染まる。
しかし、次に起きた事はその予想と全くの真逆だった。
「……? あ、温……かい……?」
光の帯からもたらされたのは、痛みとも圧迫感とも違った。帯が巻かれた箇所から、仄かな熱量が身体に流れ込んでくる。同時に感じる心地良さ。触れているだけで、芯から暖められるような、優しい温もり。
見ると僕だけでは無い。メルエットさん達も、それぞれ全員が光の帯を受けて同様の熱を感じているようだ。
「な、なんだねこの光は……? くねくねと、まるで蛇みたいに……気味の悪い……」
ホワトル牧師が悪態をつくが、何処かそれが弱々しい。気が抜けたように眉間のシワが緩み、口元が力無く半開きになっている。目も虚ろというか、眠そうに見える。
「う……! なんだ、これ……。力が、入らね……」
「でも、この光……。なんだか、安らぎます……」
ローリスさんもメルエットさんも放心しかけているようだ。
「ナオル……さま……。とても、心地の良い……光で、ございます……ね……」
コバに至っては、殆ど寝かけているかのように目が蕩け切っていた。
「なるほどな……。これが癒やしの秘術、その真髄ってワケか……」
「マルヴァス、さん……」
マルヴァスさんは、他よりも比較的意識を保っているようだ。僕は眩む頭を抑えて彼に尋ねた。
「この、光……。いったい……?」
「ナオル、お前の右腕を見てみろ」
「え……?」
言われて右手を見た。そこには、ワームとの戦いで出来た傷が沢山刻まれている……のだが。
「っ!? 傷が……!?」
眠りに落ちかけていた意識が一気に覚醒し、僕は瞠目する。
魔法を行使した反動によって付けられた数々の切り傷が、見る見る消えてゆく。まるでそんなものは最初から無かったかのように、僕の右腕は痣ひとつ無い綺麗な皮膚に立ち返った。
「じゃあ、こっちも……!?」
僕はブレザーとシャツに手を掛け、左肩の部分をまくる。案の定、オークに斬られた肩口の傷が塞がってゆく。未だ変色したままだった肌の部分も、元通りの瑞々しさを取り戻した。
「凄い……! これがフィオラさんの……吟遊詩人の“秘癒の儀”!!」
僕は今しがた出てきた教会の方を見る。僕達の身体に巻き付いているのと同様の光の帯が、開け放たれたままの扉に吸い込まれるように何本も何本も奥へと続いている。
僕は光の帯を纏ったまま、急いで扉に取り付き礼拝堂の中を見渡す。そこでは、また別の形で秘術が施されていた。
礼拝堂の上空で、光の帯同士が幾重にもぶつかり合う。帯と帯が接触した箇所から黄色い光の粒子が溢れ、下の負傷者達に散りばめられるように降り注いだ。
するとどうだろう。帯に巻かれた僕と同じく、粒子を浴びた負傷者達の怪我が癒えてゆく。傷口が塞がり、血色も良くなり、表情も穏やかなものへと変わる。死に片足を突っ込んでいた人々が、次々と生気を取り戻していったのだ。
それは何処か、あの泉で目にしたスファンキルが舞う風景にも少し似ていた。
「おお、これは……? この、光は……。皆が、治ってゆく……!?」
オズマ村長も、薬師さんも、他の村人達も、上で行われる帯達のダンスとそこから生まれる光の粒子に目と心を奪われている。
そして――
「あ…………」
どれくらいその眺めを見ていたのだろう。
礼拝堂に集っていた光の帯が消えてゆく。目を落とすと、僕の身体に巻かれていた帯も色が薄れ、溶けるように消え去った。
“秘癒の儀”が、終わったのだ。
「うう……! うん……? 此処、は……?」
「……! ああっ、あなた! あなた!! 良かった、気がついたのね!」
「父ちゃん!!」
手前に寝かされていた男の人が目を覚ますと、それに気付いた奥さんと息子さんが感極まって彼に縋り付く。
そして、それを皮切りに次々と礼拝堂内に歓喜の声が上がった。
瀕死の状態から蘇生した人も、不安と緊張で張り詰めながら枕頭に詰めていた家族も、それぞれが九死に一生を得た幸運を噛み締め、涙ながらに生還を祝い合う。
「奇跡じゃ……! 皆がこうして、無事に還ってくるとは……! くぅっ……!」
「おじいさん……! あたしゃ、夢を見ているんじゃないかえ……!? 違うわいの!? これは真の現実じゃろうのぅ!? ああっ……! ほんに良う……ほんに良う……!」
オズマ村長も、彼の奥さんも喜びに胸を打ち震わせ、涙ぐんでいる。
「やった……! やったよ皆! フィオラさんの回復魔法が成功したんだよ!」
僕も気持ちが高ぶり、声を弾ませながら振り向いた。
「ありがとう! 何もかも、全部フィ……!」
そして、心も声も凍りつく。
「フィオラ! しっかりしろ! フィオラっ!!」
余裕を失ったフォトラさんの声が、固まった僕の胸を貫く。
彼の腕の中で、フィオラさんはぐったりと気を失っていた。
“秘癒の儀”を完遂させた影響により、憔悴して気絶したフィオラ。
果たして彼女は無事なのか?




