第百十二話
奇妙な、それでいて何処か神秘的な光景だった。
地面の上に描かれた巨大な魔法陣。その中心で、マンドリンを膝に抱えながら瞑目して正座するフィオラさん。満月がその上に光を垂らし、彼女と魔法陣を仄かに照らしている。
目を閉じたフィオラさんは神妙な佇まいで静黙を保っており、いっそ眠っているかのような印象を受ける。今さっきのホワトル牧師の怒声にも反応を示さない。
「おい貴様! ワイルドエルフの女! 楽器を抱えて座ってるお前だ! 聴こえているだろう!? これは何だと訊いているのだ!!」
無視されたと思ったのか、顔を朱に染めながら眦を上げてホワトル牧師が魔法陣に踏み込もうとする。
「待たれよ牧師殿! 魔法陣に入ってはならぬ!」
横から鋭い制止の声が上がった。フォトラさんだ。真剣な眼差しで真っ直ぐ僕達の傍までやって来る。
「貴様! あの女の兄であったな!? 一体どういう事か説明してもらおう! 神聖な教会の前で何をしているのかね!? 地面にあんないかがわしい魔法陣など描きおって!」
「牧師殿、貴殿に説明も断りも入れなかったのは申し訳なく思う。だが、事は一刻を争うのだ。負傷者達を救う為には、やらねばならん」
「な、なんだと!?」
ホワトル牧師が目を剥いた。フォトラさんは表情を変えずに続ける。
「今より、フィオラが“秘癒の儀”を執り行う。どうか妨げないで頂きたい」
「“秘癒の儀”!?」
オウム返しに僕が繰り返すと、フォトラさんはこっちに顔を向けて説明してくれた。
「ワイルドエルフに伝わる、吟遊詩人のみが行使出来るという秘術だ。その効果は、あらゆる負傷・病毒の消去。どのような怪我を負っていようと、致死率の高い毒を盛られようと、通常では治療不可能な難病を患っていようと、全てを癒やして消すのだ」
「それって、つまり回復魔法!!? フィオラさんが、それを使えるって事ですか!?」
僕の声は驚きで弾んだ。期待と高揚の混じったであろう僕の目を、フォトラさんはしっかりと見ながら頷いた。
「回復魔法、か。厳密には違うが、まあそのように受け取ってくれて構わない。これを成功させれば、瀕死の村人達も必ず助かる。あまりに強力な秘術ゆえ、欠けたる部分の無い月が出ている間でなければ扱えぬが、幸いにも今宵はその月の満ちた夜だ」
フォトラさんが夜空を見上げる。それにつられるように僕も目を上げた。
綺麗な円を形作る満月は、自らの美形を主張するかのように今も皓々とした輝きを放っており、フィオラさんを包む光のシャワーを降り注いでくれている。
「それが本当なら願ってもない話ですが、フォトラ殿。その秘術の効力が及ぶ範囲はどのくらいなのでしょうか?」
メルエットさんが進み出てそう尋ねた。
「フィオラの歌声が届く距離なら何処までも。このモルン村であれば満遍なく全域に“秘癒の儀”の効果を及ぼす事が可能だろう」
「歌声、か。つまりあの姉ちゃんの歌を使った魔法……秘術の類なんだな?」
マルヴァスさんも口を挟む。
「如何にも。故に我らワイルドエルフにとって、吟遊詩人とは特別な地位であり、神聖な職分なのだ。たとえ追放者の身であっても、フィオラなら問題なく“秘癒の儀”を成せる筈」
そう言うフォトラさんの顔は何処か誇らしげに見えた。なんだかんだ言っても、妹さんの事はちゃんと信頼しているのだろう。
「馬鹿な! 勝手に話を進めているようだが、ちょっと待ち給えよ!」
しかし、そこでホワトル牧師が歯を剥き出しにしながら突っかかる。
「君達はハイエルフではない! ワイルドエルフだ! 魔力に乏しいただの下級エルフではないかね! 負傷者全員の生命を救うに足る回復魔法が使えるなど、眉唾ものの話だと思うのだがね!?」
フン! と厭味ったらしい鼻息を挟んで、彼は更に続ける。
「時間の無駄だ! それよりも、村人達を救う気があるなら君達も我々と共に来たらどうかね!?」
下手に正論が混じっているだけに反論しにくい。確かに、フォトラさんの言う“秘癒の儀”が失敗したなら無駄骨も良いところだ。此処でこうしている間にも刻一刻と時間は過ぎてゆく。そしてその分、今も生死の境にいる人々は死の方に近付く。ならばここは、それぞれがそれぞれの方法を試すべきだろう。僕は手を上げて言った。
「それなら、フォトラさん達はフォトラさん達でその“秘癒の儀”を試してもらい、僕達は僕達で必要な素材を取りに行きませんか?」
「そうだな、ナオル。それが一番確実だ。メリー、行こうぜ」
「え? ええ、ですが……」
すぐさま賛成してくれたマルヴァスさんと異なり、メルエットさんは何故か躊躇っている。チラチラと、彼女は伺うように僕を見る。どうしたというんだろう?
しかし、僕が口を開く前にフォトラさんが断固とした口調で声を上げた。
「無用だ。わざわざ危険を犯して村の外へ出る必要は無い」
そして、彼はホワトル牧師に向き直ると切々と訴えかけるように述べた。
「牧師殿、どうか我々を信じてほしい。確かにワイルドエルフにはハイエルフ程の魔力は無いが、それでもエルフなのだ。吟遊詩人であるフィオラであれば、ハイエルフにも負けぬ秘術を操れる。彼女の培った技は、研鑽してきた演奏は、磨き上げた歌声は、全て私がこの目で見、この耳で聴いてきた。フィオラなら、必ずや奇跡を起こしてくれる」
「フォトラさん…………」
妹を信じてほしいと訴えかけるその姿は、紛れもなく兄のものだった。
だが、ホワトル牧師は僅かに声を詰まらせたが、すぐに調子を戻して言った。
「……フン! 随分と妹を信頼しているようだがね、兄君殿。その秘術とやらはあらゆる怪我は元より病の類も治してしまうという話だっただろう?」
「無論。“秘癒の儀”は、対象となる負傷・病毒の大小新旧を問わない。全てを癒す。これが終われば、今宵の被害者のみならず村人全員から全ての負傷が消えるだろう。加えて、かねてから患っている病があればそれも無くなる。長年持病等で苦しんでいた者にとっても得があると思われるが?」
「なぬ!? じゃあ俺の古傷も全部消えちまうのか!? おいおい冗談じゃねェぞ! これァ、俺が打ち立てた武勲の証なんだ! あらゆる戦場を戦い抜いた名残りなんだ! 消されちゃたまんねェよ!!」
「ローリス殿、お控えなさい!」
突如会話に割り込んだローリスさんに、メルエットさんの鋭い叱責の声が飛ぶ。その口調も顔付きも、これまで見た事がない程に厳しかった。日中フォトラさんとの口論中に自分の制止を聴いてくれなかったから、根に持っているのだろうか?
「うぐ……!? す、すいやせんお嬢様……」
初めて自身に向けられた強い言葉にローリスさんも衝撃を受けたのか、彼は即座に口をつぐんで俯いてしまった。そんな彼を尻目に、ホワルト牧師が咳払いをして続ける。
「持病を治す……そこが問題なのだよ。確かにこの村にも、長年の病で難儀している人はちらほらいる。だがね、彼らの身体は病との付き合いを続ける内に病に慣れた状態なのだ。私は医術にも魔法にも疎いが、それでも聴いた事はある。回復魔法で病を治した者が直後に何故か苦しみだし、そのまま息を引き取ったという例をな。そしてその理由が、急速な病の治癒による体内環境の変化に当人が耐えられなかったからだとな!」
うっ! とホワトル牧師の言葉に僕ですらも胸を衝かれた。確かに、ありえそうな話だった。単なる彼の難癖と片付けるには現実味があり過ぎる。
つまり彼が言いたいのは、フィオラさんの“秘癒の儀”で逆に村人達に死者を出してしまう危険性だ。実際、その辺はどうなのだろう?
「なるほど、もっともな懸念だ」
フォトラさんは素直に頷いた。
「しかし――」
それでも、彼の自信は揺らがない。
「その点も心配無用。ワイルドエルフの秘術とは、そのような卑小なものでは無い」
「答えになっておらんね! その理由を説明せよをさっきから私は……!」
「むっ、静かに牧師殿!」
不意にフォトラさんが唇に人差し指を当て、強い言葉でホワトル牧師を制す。それからゆっくりと後ろに振り向いた。
「……機は熟したようだ。“秘癒の儀”が始まるぞ」
「……!」
場が、水を打ったように静まり返る。僕達は揃ってフィオラさんに目を向けた。
「――――」
寝ているようにも見えた彼女の目蓋が、舞台の幕のように悠然と持ち上がった。




