第32話 森の中の魔女
湧き水から始まる小さな川に沿って歩いていく。
時々ぬかるんでいたり、足場が悪かったり、崖になっていたりと危険はあったが、数日かけて、なんとかそれなりの川幅になるところまで降ってくることができた。
何かに使えるかと思って取っておいた保存食の容器に、なんとか湧き水を貯めておいたが、いまのところは川から直接水を飲みながら歩いている。
幸い、かなりの川幅になっても水は透き通っており、今のところ二人とも、腹は壊していない。
川にいる魚も小さなものばかりだ。危険はなさそうで、あまり離れない位置で野営するようにした。
そうして数日したある日、突然霧が立ち込めてきた。視界が急激に悪くなり、歩くこともままならない。
流石に川からは少し離れることにしたが、今や手を繋ぐラーデ様の顔も見えない。
「異常な霧です。もう歩くのはやめましょう」
「そ、そうですわね。何も見えないのは不安ですわ」
そうして休もうとした時だった。
『だめよ、もう少し進んでいらっしゃい』
突然頭の中に声が響いた。
霧に反響しているのか、直接頭に聴こえてきたような声だ。若い女性の声だった。上質な楽器のような、心地よい音の声。
しかしこれは…日本語だ。
『寺田誠司君。ライアルラーデ嬢を助けたければ、声に従うことね』
流暢で完璧な発音の日本語、そして俺の本名が聞こえてくる。何が起こっているのか分からない。異常なことだらけで考えがまとまらない。
『リスタードの姫…貴方には、アルトラヴィクタが呼んでいる、と言えば分かるわね?』
「!…まさか…?」
今度はこちらの言語だ。正確にはアステリードを始めとしたこの大陸の国々で使われる、ヴィト語と言われる共通言語。
アイザや、紅龍連邦など東の国はそれぞれの言語があるし、グレーイルの西辺りからはまた違う言葉らしい。
「ラ・アストラ。アルトラヴィクタというのは?」
ラーデ様に聞くが、つい数日前に聞いたばかりだ。ヴィクタは魔術や魔術師の意味。ということは恐らく…。
「アルトラヴィクタ…この大陸で最も有名で、最も古くから存在し、最も強大な、大魔女の名前ですわ」
ラーデ様の言うには、大魔女に逆らうなど無意味だし危険とのことで、声に従って歩いていく。
やがて霧が晴れ、荘厳な城が目の前に現れた。
地球やこの世界でこれまで見た、どの国の建物や城よりも美しい、白亜の城。敷地の広さはそこまでではなく、天に向かって高く高く聳える様は、塔と言ってもいいかもしれない。
扉に近付くと、俺の身長の三倍はあろうかという高さの大きな門は、音も立てずに勝手に開いた。
恐る恐る足を踏み入れてみるが、やはり誰もいない。
ただ、進むべき道を示すよううに、一際明るく照らされている部分がある。
照らされている道に従い、大きな階段を登り、長い廊下を歩き、螺旋階段を登り、やがて現れた大きな門。
やはりひとりでに開いていく。中には美しい女性がいた。
俺の中のイメージの魔女のように、とんがり帽子もローブも身につけてはいないし、全身黒ずくめでもない。淡い水色のドレス姿だ。ただし、この世界のドレスとは意匠が違う。どちらかと言うと、地球の洋画で見るようなドレスだ。
髪は日本人以上に黒く、闇よりも深い漆黒が腰より下まで伸びている。
顔はラーデ様にも負けない、この世の美を追求し切ったような完璧な配置の美人だ。ただし、耳はエルフのように長い。肌はどこまでも白く、瞳は紅。白と黒のコントラストの中で、瞳と唇だけが紅く目を牽き付ける。
「ようこそ。ああ、言っておくけれど、私が転移させたわけではないわよ」
「あなたたちの名前なんて、分かって当然。私は過去も未来も、次元の違う別な宇宙も異世界も、何もかも知っているから。言葉だって、話せない言語はない」
「ええ、魔女はつまらないことで人に干渉しない。ましてや、悠久なる大魔女たる私はね」
「ここに呼んだのはほんの気まぐれよ。何万年も生きていると、暇なのよ」
こちらが何かを言う間もなく、疑問を全て見通しているかのように魔女は次々と言葉を紡ぐ。いや、実際に見通しているのだろう。彼女の言葉が本当なら、この人ならざるモノに、知らないことなど本当にないのだ、何一つ。
「気まぐれ…でございますか。では、矮小なる人の子に、一体何をお望みであらせますか」
「別に?ただ、このまま放っておくと死んでしまうからね。それだと色々な人が困るわけだけど、遠い遠い将来、私としても面白くないことになるのよね」
「だから、干渉なさるのですか?」
魔女は美しい微笑みを、ほんの少しだけ深める。
「魔女が人に干渉する時は、他の魔女が人の世界に大きな変化をもたらした時…それと、もう一つある」
「あらゆる時間、あらゆる時空、あらゆる次元、あらゆる世界に私は存在するけどね、一応基準になる世界線はあるのよ。その時空は壊したくないし、無限にいる私のたった一人とはいえ、宇宙を無為に彷徨い続けるのもつまらないわ」
言っている意味がいまいち分かりにくい。しかし…今の言葉通りに考えると、俺たちが死ぬと、この世界線のこの星は滅びるということか?
「そう、貴方たちがここで死んだ場合、この星は星の寿命よりかなり早く滅びを迎える」
「まさか、そんな…なんてこと」
「でも、じゃあ助けてくれるんですね?」
恐れ慄くラーデ様だが、俺にはいまいち実感がわかないので、単刀直入に結論を聞く。
人の理解を超える存在のイメージがないから、恐怖もしにくいのだろう。
「ええ、助けますとも。二つの選択肢をあげる」
「二つ?」
「ええ、一つは、ここから最も近い人の街に二人で転移させること。もう一つは…」
魔女は、俺をしっかりと見ながら言った。
「君を元の世界に帰す」
俺もラーデ様も、一瞬思考が止まった。そんなことが可能なのか…!
「安心しなさい。姫は近くの街に一人で飛ばされるけれど、その場合もちゃんと家には帰れる。二人で飛ばされるよりも多大な苦労をするし、何年もかかるけどね」
「な、なんでですか?」
「それは言えない。それに、姫を直接リスタードに飛ばすことはできない。かつて女神との間で結んだ不干渉原則を超えるからね。できないことじゃないわ。難しいことでもないけれど、私はそれをしたくない。したくないからしない。絶対に」
できるけどしない。
俺たちを助けるのは善意ではないのだ。人ではない魔女に、人への同情や憐憫など期待してはいけない。
「誠司君を帰すのは、世界への異物を取り除くようなモノだからね。全くもって問題がない」
「今回みたいな遠い場所は飛ばされる転移は魔素の関係で起きる事故みたいなものだから、この世界の流れの一つと言っていいけれど…あの世界落下の穴は不愉快なのよね。この世界の流れを崩すから」
「ほっといたって、魔法と科学はいずれ一つになるのにね。別な世界からの干渉で流れが変わるなんて、美しくないわ」
「さあ、どうする?…まぁ、もう私には答えが分かってるんだけどね」




