狐と煙草
その犬が、ある者の使いに呼ばれるままに鳥居をくぐったのは、秋も去り冬の入り口に向かう頃のことでした。
澄み渡る冷えた空気いっぱいに香る、色づき果てて枯れゆく落ち葉たち。それらが立てる乾いたそよ風の音に包まれながら束の間、犬は少しだけ昔のことを思い起こすのでした。
その犬には、かつて人間の家族に迎えられ飼い犬として過ごしていた時がありました。
飼い犬の時代は、ゆるやかなようでいて、あっという間に過ぎ去ったかけがえのない日々でもありました。
流れるような日々を過ごした犬もやがて晩年を迎え、背骨も曲がり後ろ足も衰えて歩くのもやっとになり、いよいよ飼い主の下を離れて旅立つ時を迎えたのです。
犬はその時を静かに受け入れました。すると言う事を聞かなかった後ろ足や真っ直ぐに伸びる事もなくなった背骨は昔のように当たり前に動くようになりましたので、犬は苦労する事もなく歩き出す事が出来ました。
犬にとって旅の始まりは必然でしたが、その犬はその旅の目的を、実は知らないのです。行く先がわかっているようで、わからないような。当てがあるようで、ないような。そんな旅なのです。
そんな旅の途中、犬がいつものように歩いておりますと、冒頭で申しました、ある者の使いだというものが現れて、犬を導きこの鳥居をくぐらせたのです。
それはとても不思議な感覚でした。ある者の使いだというその姿は、たしかに犬の前に現れてはいるのですがとても朧げで捉えどころが無く、話した内容は覚えているのに姿形は覚えていない……まるで夢の中の記憶のようでした。
見たばかりなのになぜか思い出せない。いうなれば見えているはずなのにほかの風景ばかりがくっきりと残ってしまってしっかりと見ていなかったというのか。たとえば煙の形をいつまでも同じ形でとどめておく事ができないように、それは移ろいながら消えてゆく、今までそこにあったことはわかっているのですが、その形はさてどうだったのかなあという様な……そんな感じでしょうか。
そのように不思議ではあるものの、犬はその出来事を少しも不安に感じませんでした。その姿は不安定で捉えようがないのに、こちらをじっと見つめて相対し、静かに語りかけてくる落ち着いた感じ。どこにいても知らず見られているようでありながら、それは見張られているというわけではなく、自分を含めたその周囲の全てを包み込んでいるかのような、見られているというよりも知っている知られているというほっとした気持ちが心の奥に拡がってくる感覚。朧げであっても、それをしっかりと受け止められる現実味があり、いつも理解してくれているような安心感に包まれている。そのような雰囲気を使いの者に感じたからこそ、犬は鳥居をくぐってみたのでしょう。
旅の途中でようやく辿り着いた、ひとまずの目的地であるような、ここはきっとそんな場所なのだろうと犬は思いました。
「遠路はるばる誠に御苦労であった」
鳥居をくぐった先にある祠の奥から声が聞こえました。
その方向を見てみると、そこには狐の面を被った人間のような姿がありました。
祠には、木で作られた小ぶりの賽銭箱や、漆の塗られた四脚の台のようなもの、榊の活けられた陶器の水差しが見えます。そして招かれて訪れてみたはいいものの全く勝手がわからず、祠の入り口にぽつんと佇むしかない犬の頭上には、太い縄の結わえられた大きな鈴が下げられていました。
「実は縁があっての頼みごとじゃ」狐の面の姿のものは犬に向かいこちらへ来いと手招きしました。
犬が近付くと狐の面は煙草を取り出し、一本どうか? と犬に勧めます。しかし犬は喫煙の習慣が無いので困った顔をしました。
すると「わかった」と狐の面は自分だけ煙草に火を点け、うまそうに吸い始めたのでした。
すー、ぷはぁー。すー、ぷはぁー……。吸い込み吐き出される煙草の煙ですが、犬はその匂いに懐かしさを感じました。それが何だったのか、ゆったりと漂いながら形を変えていく煙の姿を眺めながらぼんやりと考えていました。
それからよく見ると、狐の面と思っていたのは正真正銘、狐の顔でした。白塗りの面と見間違えるほどの、真っ白で滑らかな毛並がゆっくりと膨らみ、それからぷはぁーと煙を吐き出しています。
「これはお前の飼い主からの頂き物じゃ」狐の言うとおり、それは飼い主が吸っていた煙草と同じ匂いであると犬は思い出しました。そして狐は話しました。
その飼い主だが、自分とは妙に波長が合い、これが自分の好物と知ってからはどういう風の吹き回しか、たまにこの祠へ立ち寄り煙草を置いていく。それを遠慮なく受け取り喫煙しているのだが、つい最近、その飼い主の知り合いの者がついに旅立つと言う話を風伝えに聞いた。そこで日頃のよしみもありここはひとつその知り合いとやらの旅に大過無きよう供をつけようではないか。と言うのでした。
「そのお供に、お前はなってもらう。頼んだぞ」
犬はますます困った顔になり首を傾げるのでした。
*
ある時、その人は旅に出ました。それは自ら望んだものでもあり、運命でもありました。
運命というからには逃れることの出来ない必然なのですが、自らの決心とでもいいましょうか。その人の旅は、そこから一歩を踏み出すことで始まったのです。
その人は、旅に出かけるちょうどその時、お供が付いて来ている事にも気付きました。
お供は、遠くもなく近くもない、ぎりぎり干渉できないような、微妙な距離を保ちつつ付いて来ているように見えました。
「お前は犬だね、ずっと付いて来るの?」その人は訊ねてみました。
声を掛けられた犬は、驚くでもなく、ましてや嬉しそうに尻尾を振るようなこともなく、すっとその人に近付きました。
寄り添うような犬を従えてその人はまた歩き始めました。
ほんのりピンクがかったなだらかな真っ白い地面がずっと続く平野を、人と犬は歩き続けます。
この道は終わりが無い。そう思いかけた頃、どこからか声が聞こえました。
「この平野は無限に続く、終わらせたければ小石か汚いものを三つ拾いなさい」
やはり終わりが無いのだ、そう思いつつその人はあたりを見廻しました。
地面はなだらかにうねってはいるが、小石どころか塵ひとつ落ちていない。まるで赤ん坊の肌のようにとても綺麗で滑らか。
しかたなくその人は歩き続けます。引き返す場所も無く、寄り道をしようにもそもそも目的地が無い。ただ犬が寄り添っています。
気が付くと犬の姿が消えていました。このだだっ広い真っ白な平野のどこに隠れてしまったのか、犬はいなくなりました。
代わりに、遠くに何かが見えました。それは犬ではありませんでした。人が近付いてきます。何故かその人からはとても嫌な予感がしました。
遠くからやってきた人は、予感したとおりの嫌な人でした。近付くやなじり蔑み、さんざんに汚い言葉を投げ付けてきます。
嫌な言葉を散々に投げつけられたその人は、とても嫌な気持ちになりました。知らず知らずのうちに眉根を寄せて、自分も嫌な顔をしてしまいます。
するとどこから戻ってきたのか、犬が低いうなり声を上げながら飛び掛り、嫌な人を布切れのように引き裂いて飲み込んでしまいました。
嫌な人はいなくなり、ぼろ布のような模様をした小石がひとつ残りました。その人はほっとしてその小石を拾うと再び歩き出しました。
また犬がいなくなりました。そしてまた別の人がやって来ます。
別の人はとてもいい人でした、行く先を色々と心配してくれました。でもあれやこれやと頼みごとやお願いごとをしてきます。
その人は、別の人のことが段々と重たく感じられました。一つ一つならいいのだけれど、抱え切れないほどの望みなのです。
そのうちに、その人は明るい笑顔で応えながら愛想の良い相槌を打つことに疲れ、ただ耳を傾けることさえも億劫になり、ついには表面だけを取り繕って心を閉ざしてしまおうかとも考えはじめました。
その途端に犬があらわれて別の人を噛み砕いてしまいました。後には黒い小石が残り、その人は石を拾ってまた歩き出しました。
しばらく行くと、泉がありました。水は透明ですが、深く、あまりにも深いので、光の届かないその先には底があるのかどうかもわかりませんでした。
泉にはその人の顔が映りました。その人は、三十路を超えているかもしれませんが、まだ若く見える女性でした。
その人は思い出しました。泉に映る自分の姿を見て。自分が生きていた頃の事、楽しいこともあったが、嫌なことも多かったつらい日々の思い出。
職場での物事がうまくいかず、気に病んだ毎日を過ごし、折り悪く健康も害し、落ち込んだ気持ちのまま病床に伏せ、死んだ。
「あなたはそれで良いと思っていましたか?」声が聞こえ、その人……彼女は顔を上げました。
「わたしは、しょうがないと、思った……」とてもか細い声で彼女はつぶやきました。
「あなたは自ら命を断ったわけではない、それどころか精一杯ほんとうに、愛おしいほど誠実に生きていました。でも今のあなたは地獄と呼ばれる場所にいるのですよ?」
「わかんない、良く分らない……です」涙があふれて俯く。泉には年老いてしわくちゃになって干からびてしまったこれまでに見たこともない彼女の姿が映りました。
「もう、そこまでで良いと考えたのでしょう。あと少しだけ、頑張れることをやめてしまったのでしょうね」優しい声でした。
「わたし……」声が詰まって黙り込んでしまいました。そのまま彼女は発すべき言葉も見つからずしばらく待ちましたが、もう声は聞こえてきませんでした。
老婆のような自分を映す泉をただじっと眺め、やがて彼女は意を決して手のひらに握った小石を泉の中に投げ込みました。
水面に映った顔が波紋に揺れて、少しの間だけ彼女の表情を不確かなものに見せました。
このままでは小石も集まらず、終わらない旅を永遠に続けていかなくてはならないでしょう。
しかしわずかな望みとなるあの小石は、彼女にとっては手に入れても決して嬉しいものではなかったのです。
泉の奥に目を移すと、小石はひらひらと舞うように水の中を落ちていき、とうとう光の届かない底なしの彼方へと消えてしまいました。
「……憎んでいないって言ったら嘘になる……逃げてないなんて大嘘もいいところよ!」
突然、彼女は泉の底へ届けとばかりに大きな声で叫びました。
「わたしはあいつが嫌い! あの子のことが憎くてしょうがない! お節介も煩いだけだしそんなこと自分が一番わかってる! もう大人なんだから、大人だから責任持ってつらい仕事もこなしたし、重くて投げ出したくて、逃げ出したくなって、でも頑張ればいいことがあるからって! でもまた繰り返しで、うんざりして、笑う気力もなくって、惨めで、嫌で、嫌だった! 嫌だった! 嫌だった! 嫌い! 嫌い! 嫌い! 嫌い! 大っ嫌い! 自分も鏡も職場も電話もメールも何もかも! いなくなってしまえばいい! ばか! 馬鹿! 莫迦! 馬鹿ばか莫迦馬鹿馬鹿莫迦! バカァ――――――――――――――――!!」
あたりはしん、と静まり返り、泉は何事も無かったように透明で澄んだ水を深く、深くどこまでも湛えています。
彼女は落ち着きを取り戻しました。ふう、と息をついて少しだけ微笑みました。
「意地悪はわたしじゃない。意地悪なんて嫌いだもの、もっとケンカすればよかった。お節介も押し付けも出来ることだけやってあとは放ってしまって、逃げたり、あきらめたりサボったりして。少しぐらい自分には正直になって、そんな自分を責めないで、もっと自分のために頑張ればよかった。嫌いになる自分を、嫌いにならないで。苦しんでいる自分に苦しまないで……。わたしは嫌われたくないから、好かれようとする自分を自分で責めていたんだ。人のために無理をしていたと思っていたのって本当は自分のために無理をしていたんだね。何もしてくれない人たちを恨んでいた。でもそれって結局、自分自身を恨んでいただけなんだね。ごめんね、ありがとう。だからもう、わたしは……わたしを、許します」
泉に写る彼女の姿が、老婆の顔がぱりぱりと割れてたくさんの小石に変わり剥がれ落ちました。
彼女はどんどん若くなり、やがてピンクがかった白い肌の赤ん坊になりました。
いままで歩いていた白い平原の、その全貌が次第に露になってゆき、それが母親のふくよかな胸とやわらかい腕の中だった事に気付きました。
それが彼女の本当の母親なのか、母親のような神様だったのかは分りません。
彼女はもう、今度こそ本当に旅立ってしまいましたから。
*
「大役御苦労であった。ささ、一本」狐は犬に煙草を差し出しますが、犬は困った顔しかできません。
では。と自分の煙草に火を点け、すー、ぷはぁー。と喫煙する狐の顔をただじっと眺めていました。
煙草を吸っている間、狐は何処かへ旅をしているのかも知れない。と犬は思いました。
というのも、犬はお供へなど行かず、ずっと狐が煙草を吸うのを見ていただけですから。
犬にとっての煙は今そこにありながらも留め置く事の出来ない流れ行く情景であり、薄まりつつもかすかに届く匂いはかつての飼い主と過ごしたかけがえの無い思い出を彩る記憶への架け橋でした。
吐き出される煙の形と、漂ってくる匂いの中、犬は生きていた頃の色んな事を思い出すのでした。
おわり