年上との接し方
読みやすいようにしてみました。
「土屋保少将閣下、顔色が悪い様子ですが、大丈夫でしょうか。」
藤伊は人事局局長室の局長である土屋の机の前に立ち提出する書類を持ちながら土屋に尋ねた。土屋は誰が見ても具合は悪そうに見えた。
最近、退役海軍の政治家達から土屋に、、(ぜひ政界の表舞台にでてほしい)、、と沢山の手紙が彼の元に送られていた。土屋本人は退役したら田舎でのんびり暮らそうと思っていたため、送られてきた全ての手紙に御断りの返事を書くことに限界で更に現役の海軍大将からの手紙を見て仕事がまた増えると思い呆然としてしまったのである。
藤伊に声を掛けられた土屋は自分に優秀な秘書がいることを思い出し、・・・藤伊ならなんとかしてくれかもしれないから押し付けてしまえばいい・・・と考えすぐに体調が悪い素振りをして話し始めた。藤伊には病気の人に優しくするくせがあることをしっていたからである。
「いいタイミングで来てくれた。この手紙をことで相談してみたいと思っていたところだった。まずは、この手紙を読んでくれ。差出人は海軍大将山本権兵衛だ。」
そう言って土屋は藤伊に自分宛の未開封の海軍大将山本権兵衛からの手紙を差し出す。
藤伊は手紙を貰いながら局長である土屋海軍少将のようすを観察していた。
【海軍大将からの手紙だけで顔色が悪くなるのかよ。今、1911年6月だから土屋少将は62歳。爺さんだから仕方ないかな。そもそも海軍の定年退職ないの。ずっと現役なのか。俺も定年退職したくないよ。だって収入減るし。】
史実では1911年3月で人事局局長を辞めている。だが、今回の歴史では辞めずに人事局局長を継続していた。秘書の藤伊大尉が人事に関して土屋に助言し、海軍内の勤務先での人間関係のトラブルを減少させていたからだ。
海軍では創設以来人間関係のトラブルが後を絶たない。主に上司の部下に対する暴力が一番の原因である。これが引き金となり、部下の自殺、イジメ、酷い時には自身が乗艦している船の武器庫や火薬庫を爆破して無関係な海軍軍人を巻き込んで自殺することもあった。
人間関係のトラブル(上官の部下に対する暴力)は制度を変更しても解決しないと海軍高官たちの大半が思っていた。だが、それを土屋人事局局長の対策により減少しているとなれば何らかの理由をつけて呼び出し話を聞こうとするのは当然と言えるだろう。
土屋の説明を聞いたら海軍高官たちはすぐに彼を海軍中将に昇格させるつもりでいた。なぜなら土屋が海軍を1912年3月には自ら海軍を退役すると海軍の中枢とも言われる海軍軍令部の職員に土屋が人事局局長室に一人でいる時にポツリと言った言葉を偶然聞いてしまったからである。土屋が海軍を去ってしまうと減少していた人間関係のトラブルがまた増加するかもしれないので海軍としては困る。土屋を海軍中将に昇格させるのは彼を海軍に留めておくためであった。
彼の同世代の者たちは土屋が海軍中将に昇格する確率が高いと推測していた。土屋が人事に疎いことを彼の同世代の者たちは知っていたので、、(土屋は優秀な部下を持って羨ましい)、、と思っていた。
藤伊は自分がやった人事移動に関しての抗議手紙かと思い恐る恐る手紙を読んでいた。
【手紙の内容は要約すると、、(海軍の幹部(少佐、中佐、大佐、少将)、ボス(中将、大将、元帥)たちの中で重要なポストにいた者が昇進して海軍省から追い出されていることについての説明。場所と時間は後日追って連絡する)、、かちょっと気づくのが早いな。民衆の騒動が起きて俺のことには気づかないだろうと予想していたのだが。俺が人事局勤務になったのは1910年11月中旬。半年ぐらいで気づいたのか。やるな海軍のボス(中将、大将、元帥)達。】
【それよりも説明の場所が問題だな。手紙には、、(後日追って連絡する)、、と書いてあったから良かった。横須賀海軍鎮守府、呉海軍鎮守府を指定されたら最悪だった。】
【パリ講和会議がいい例。第一次世界大戦の終戦のための講和会議の名前だよ。まあ、フランスのパリで開催したから会議中もフランス国民が会場の周りに押し寄せて、、(ドイツから全てを絞り取れ)、、とか、、(旦那が戦争で死んで働き手がいなくて生活に苦しいなとかしてほしい)、、などの訴えをした。そんな事を聞いてしまった戦勝国(イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本など多数)の国の講和会議代表たちも一応人間で感情はあるからフランス国民に同情してフランスになるべく譲歩してもいいと思い、結局フランスが一番得をするようなベルサイユ条約を敗戦国のドイツに結ばせたよなあ。つまり、支持してくれる人々が多い場所で説明すれば自分に有利な条件を引き出すことが出来るかもしれない。】
藤伊は土屋に不安を与えないような顔をして言った
「分かりました。この案件は自分が処理します。説明の場所を海軍省で行いたいと考えているため、説明の会議に出席される可能性が高い将校たちで地方勤務している方々の東京周辺に人事移動を行いたいと思っています。呉、佐世保、舞鶴、横須賀海軍鎮守府勤務の高官名簿一覧をお借りしても宜しいですか。」
藤伊は土屋に不安を与えないような顔をして言った。
「藤伊よ、策はあるのだろうな。」
藤伊の言葉を聞いた土屋は笑顔になった。呉、佐世保、舞鶴、横須賀海軍鎮守府勤務の高官名簿一覧を差し出しながら藤伊の目を見て言った。
「勿論であります。」
いつものように藤伊が土屋にはっきりと言った。藤伊がはっきりと言う時は自分の策に自信があることを示していた。土屋は藤伊の行動、態度の様子から彼に自信があると確信した。
「海軍大尉では何かと不便なことがあるだろうから海軍大臣に最近会った時にお前を海軍少佐に昇格させてほしいと頼んでおいた。26歳で海軍少佐になると色々なところから反対意見が出るだろう。最悪の場合には暗殺をしてくる者も出ると思う。儂はここ数日の英吉利、亜米利加の新聞を見てある考えが浮かんだ。お前が日本にいなければいい、そう思ったのだ。」
局長の椅子に座って窓の外を見ながら藤伊に言った。
「大使館付き武官になれるのは少佐以上の軍人しかなれないことが殆どです。人事局の力を使えば不可能なことではありませんが、我々が身の危険に晒される可能性が高くなるため、自分としてはあまりお勧めしません。」
珍しくいつも局長室でのんびりと読書している土屋が意見を言ったことに藤伊は驚いていた。藤伊は局長室で自分以外の人である土屋の背中を見つめて言った。
「外国に行くやり方は他にもある。観戦武官だよ。行先はフランスがいいと思ってる。いざ、ヨーロッパで戦争が勃発すれば独逸VS仏蘭西の戦いは必然的に起こるだろう。二か国は資源地帯のアルザス・ロレーヌ地方で何百年も争っているからね。英吉利がダメな理由は日英同盟だ。同盟国だから海軍省もすぐに英吉利に観戦武官を派遣してしまうからな。」
土屋が椅子を回転させ藤伊を見て言った。
「観戦武官ですか。いい考えだと思います。1912年の4月から現地入りできるように最善を尽くします。メンバーは土屋少将閣下、自分の二名とします。要望があれば、後6人ほど同行できますが。」
土屋が観戦武官という考えにたどり着いたのは藤伊の手帳を偶然見てしまったからだ。藤伊自身は故意に手帳を局長室に忘れたのだが……。
藤伊は作戦成功したと内心思っていた。
【第一次世界大戦は1914年~1918年までよって、五月蠅い精神論バカの現在、中将、大将たちのほとんどが60歳を超えてしまうから、俺がヨーロッパから帰国した時にはそいつらが皆、定年で退役してるはず。それに大戦中に30歳の誕生日を迎えるから少佐になっても殆ど問題ない。下手したら帰国と同時に中佐になれるかも。】
そんな簡単に中佐になれるはずがない。藤伊は海軍大学校を卒業せずにヨーロッパに行ってしまうため、帰国したらまず卒業をしなければならないのだ。卒業しなければ、簡単に中佐にはなれないことを藤伊は知らなかった。
「ここの中から後6人まで選べ。お前が欧米列強同士の戦いを見る必要がある者も連れていく。これからの海軍を背負う者たちだ、ゆっくり考えてきなさい。明日メンバーを教えてくれ。」
土屋は海軍兵学校第32期生の卒業生一覧を机の引き出しから取り出して言った。
土屋は真剣な顔をして話し、藤伊に海軍兵学校第32期生の卒業生一覧を渡した。
藤伊は自分がしてきた中で一番きれいな敬礼をして、局長室を出た。
【操り人形かと思っていたら現実的な考えを持っている人だったか。一杯喰わされた感じだ。元々メンバーは決まっている。山本、堀君、吉田、塩沢、嶋田の5人だ。土屋が他の奴らを同行させたいと言っても強引に押し切ってこの5人を連れて行くつもりだったからなあ。海軍大将たちへの説明の場所は海軍省でやるべきだな。海軍鎮守府同士で技術者の短期間交換をさせよう。そうしたら鎮守府で短期交換による別の問題が浮上してきて会議なんかやる時間なくなるからな。必然的に海軍省でやらざる得なくなる。】
藤伊は内心結構酷いことを考えながら人事局技術者人事課に向かった。
「技術者の短期間の鎮守府同士での交換ですか。藤伊大尉、どうしてやる必要があるのですか。そもそもやる理由がありませんよ。」
担当責任者で年上の中佐は、、(またこの人がなんかやらかそうとしている)、、と思いながら必死に拒否していた。なぜなら、中佐は藤伊の政策(現実的な考えができる人を人事局に入れる)の対象となっていたからだ。予備役の少佐であった彼を人事局職員として現役にし、尚且つ中佐に昇格させたため藤伊には年上だけど恩人であるから頭が上がらないでいた。
藤伊にとってみれば書類を幾つか細工したり、改ざんしただけで有能かつ彼に忠実で自分よりも高い位の人間が簡単に手に入るから、政策実行中は大量に書類の細工、改ざんをやっていた。見つからなかったのは危険人物たちをその当時(1910年11月~1911年2月)インフラが整い始めた佐世保鎮守府、下関条約で日本領になった台湾に送っていたからである。
「中佐、理由はあります。技術者の学びのためです。軍人たちには理解できないような技術的理由をつけて行ってください。脳筋たちには東郷閣下をプレゼントしましょう。我流の東郷閣下に意見を言われると全国の閣下を慕う海軍軍人たちが五月蠅くなりますから。それと東郷閣下の説得にも時間がかかるため閣下の日露戦争の日本海海戦の話を全国でしてもらいましょう。9月中旬までにはどんなことが起きても今言ったことをやっておいてください。」
藤伊は自分では真剣な顔して言っているつもりでも他人から見たら全然真剣な顔に見えていないのであった。
ただ、失敗してしまったらただではすまされないことを責任者の中佐や技術者人事課メンバーたちは知っているためこの案件をまだやらなければならない別の仕事がたくさんあるのに最優先事項として取り組むとになってしまった。