願いを叶える人
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「……」
「お茶になさいますか? お風呂になさいますか? それとも……」
一日の仕事を終えて自室に戻ってきた少女は、この日もまた望まぬ出迎えに遭遇し、大きな大きなため息をついた。
少女は、四方を山に囲まれた国の王宮に侍女として仕えている。
両親は少女がまだずっと幼い頃に不慮の事故で亡くなり、肉親は祖父だけとなった。
彼女の一族は代々、この国で一、二を争う大貴族に仕えてきた。
少女の祖父がもう数十年もの間執事を務めるその邸宅の、現在の当主は女性である。
一度は先の国王陛下に第二王妃として嫁いだが、三年後性格の不一致を理由に離縁していた。
彼女は男児を一人産んだが、当時すでに第一王妃の産んだ王子が立太子していたこともあり、先の国王は第二王子が母親とともにその生家に移り住むことを許した。
そして今、恭しく腰を折って少女を出迎えた人物こそが――
「……お戯れが過ぎます、陛下」
かつての第二王子であり、現在の国王陛下その人であった。
幼少時代を母の生家で過ごし、五つ年下の少女を妹のように可愛がった彼だったが、十五の年に立太子して王城へと住まいを移した。
何故、すでに王太子として周辺各国に顔見せまで済んだ第一王子がありながら、この国が第二王子を改めて立太子させなければならなかったのかというと――
「明日は、女王陛下と兄を王宮に迎える予定となっております。明晩は、お嬢様の執事としての仕事が滞ることをお許しいただけますでしょうか」
「存じ上げております。もとより、陛下がわたくしごときを気遣われる必要はまったくありません。どうかご公務に専念なさってください」
第一王子は山を二つ隔てた隣国の女王陛下と恋に落ち、周囲の反対を押し切って婿入りしてしまったのだ。
父王が二人の恋仲に気づいた時には、すでに女王の腹には新しい命が宿っており、両国の誰も彼らを引き裂くことができなかった。
そこで、国王の跡継ぎとして白羽の矢が立ったのが、母親の生家で育てられていた第二王子だったというわけだ。
幸い、大貴族の次期当主として高度な教育を受けていた彼には、国王となるに充分な知識と能力があった。
一度は母とともに王宮を追い出された身としては、個人的には父王に対して複雑な思いがあっただろう。
しかし、尊敬する老執事に王族として生まれた責任を説かれ、聡明な王子は父に対するわだかまりをぐっと堪えたのだ。
そうして、十八才という若さで一国を担うことになった。
そんな彼が、まさか自分が玉座に就くなどと思ってもいなかった幼い頃に夢見ていたのが、“執事になる”ということだった。
彼は、母の生家に仕える執事――少女の祖父の完璧な仕事ぶりに、強く憧れを抱いていたのだ。
「さあ、お嬢様」
「あ……」
国王陛下は少女が外した白いエプロンドレスを取り上げると、いつまで経っても世話を焼かれることに慣れない彼女を椅子に座らせ、お茶の用意を始めた。
時計の長針が後二周ほどすると日付が変わるという時刻。
一日の仕事を終えた二人は、昼間と立場を逆転させる。
国王陛下と侍女から、執事とお嬢様へ。
こんなおかしな関係を少女が望んでいないと知っていながらも、国王陛下はこの一時の楽しみを譲るつもりはなかった。
「ところでお嬢様。騎士団の第五隊長に交際を申し込まれたと小耳に挟みましたが?」
「な……何故それを……」
「あの男はおよしなさい。無類の女好きで、他にも何人もの女に声をかけています」
「どうして陛下が、私が彼に声をかけられたことをご存知なのですか!?」
「私は執事です。主人たるお嬢様の全てを把握するのは当然の勤め」
少女が侍女として城に上がったのは二ヶ月ほど前。
成人後もそのまま祖父が執事を務める家に仕えるつもりだった彼女を、半ば無理矢理城に呼び寄せたのは国王陛下だった。
彼が玉座に就いて三年が経っていた。
本当は少女を自分付きの侍女にしたかったようだが、国王の執務室に仕える侍女は貴族の子女ばかりで、当然プライドも高い。
対して、少女は国王陛下の生家に仕える執事の孫――つまりは庶民にすぎない。
先輩侍女達に苛められてはたまらないと思ったらしい国王陛下は、彼女を腹違いの妹に託すことにした。
先代の第一王妃の娘である。
国王陛下がいまだ独身であることと、母が長兄の出奔の責任をとる形で城から去ったため、現在彼女が奥の宮の責任者となっているのだ。
そんな王女は、兄の趣味の良き理解者でもある。
兄王が通いやすいように考慮して、侍女として預かった少女の部屋を離れに配置した。
身分の低い侍女を不便で古めかしい離れに追いやると見せかけて、実のところ一番広くてプライバシーが保証された部屋を与えたのだ。
元々、離れ部屋は王族の秘密の逢瀬のための場所だったらしいが、それを知っているのはほんの一握りの人間だけ。
おかげで、国王陛下は私室からこっそり少女のもとに行き来ができ、彼女が他の侍女達のやっかみに晒されることもないというわけだ。
ただ、国王が過ごすことを前提に整えられた調度は、少女にとっては何もかもが豪華すぎて落ち着かない。
彼女はもう数えられないほどついたため息を、また一つこぼして言った。
「やめましょう、もうこんな茶番劇。陛下が私の執事だなんて、あり得ないです」
「私は戯れのつもりはありませんよ。国王が本職だとしたら、執事は副職です。皆、アルバイトをかけもちしたりするでしょ? あれと同じです」
「玉座を庶民のアルバイトと同列にしないでくださいっ!」
「何故ですか? 労働に重いも軽いも、貴いも賎しいもありませんよ。すべてに意味があり、全て尊ぶべきものなのです」
「おっしゃることは素晴らしいですが、やはり陛下が一介の侍女の執事を兼任するなんて、非常識です」
「では、つまらない常識など捨ててしまいなさい」
執事に扮した国王陛下は、困惑する少女ににこりと微笑みかけて、自ら淹れたお茶を差し出した。
少女は慌ててそれを両手で受け取る。
「……これが副職だとおっしゃるのでしたら、私は執事に給金を支払わねばなりません」
「その給金の代わりに、私に“執事として過ごす時間を提供する”ということで、いいではありませんか」
「……それでは本末転倒です」
ますます頑なになる少女に苦笑し、国王陛下は自分もカップを持って向かいのソファに腰を下ろすと、長い脚を組んで寛いだ。
おおよそ執事らしからぬ態度ではあったが、元よりそれを彼に望んでいない少女が咎めるはずもない。
ぐっと唇を噛み締めカップに口もつけない彼女に、国王陛下は囁くような声で言った。
「私があなたを独り占めできるのは、この時間だけなのですよ。私を癒すと思って、黙って仕えさせなさい」
国王陛下は、在位三年の間に着々と味方を増やしていた。
すっかり心酔しきってしまっている側近たちは、主人のささやかな趣味を邪魔するつもりはない。
むしろ、毎夜ほんの一時少女の執事を演じるだけで国王陛下の心が健やかに保たれるのならば、安いものだとでも思っているのだろう。
その生け贄となる少女の戸惑いを、慮ってくれる者は誰もいない。
「……それは命令ですか? 陛下」
彼女が蚊の鳴くような声で問うと、国王陛下はにやりと口端を引き上げ「さて?」と曖昧に答え、再び立ち上がっては少女の側までやってきた。
そして、彼女の前に跪いたのだ。
さらには侍女のお仕着せのスカートの裾を持ち上げ、恭しく唇を押し当てた。
「陛下っ……!?」
それに対し、少女は赤くなるどころか真っ青な顔をして、悲鳴のような声をあげた。
「お嬢様、どうぞ名を」
「……」
「あなたの執事を、名で呼んでくださいませ」
「そ、そんなことできませんっ……」
「あなたには、名で呼んでいただきたい」
「陛下……」
少女は途方に暮れたような顔をして、大きく大きくため息をついた。
そして俯くと、頭を静かに横に振った。
「どうかお許しください。陛下」
「お嬢様」
「いいえ、陛下。私はただの使用人です」
国王陛下は今度は少女の右手を取って懇願するように見上げたが、彼女の頑な態度が改まることは決してなかった。
少女の侍女としての生活は、国王陛下の趣味に振り回されることを除けば実に平和なものだった。
幼い頃から大貴族の邸宅に仕えるべく祖父に教育されていたので、王宮での仕事で粗相をして叱られることもなく、控えめな少女の性格は敵を作ることもなかった。
ただし、直接の主人である王女殿下に気に入られてしまったらしく、奥の宮から出て城下に遊びに行く彼女の供をすることもしばしば。
その際、もちろん護衛の騎士も同行するわけだが、初々しい侍女は彼らの間でちょっとした人気者になっていた。
王女殿下のような高嶺の花では無理でも、慎ましく咲く野の花ならばたやすく手が届くとでも思うのだろうか。
しかし、少女に対して必要以上の接触を望んだ騎士は、どういうわけかすぐに王女殿下の護衛から外されてしまい、奥の宮の侍女と顔を合わせる機会がまったくなくなってしまうのだ。
そういうわけで、少女はいまだ誰の告白にも応えたことがない。
「お兄様ったら、すごい独占欲だわ」
しばしば王女殿下がそう言って苦笑していたが、少女には何のことだかさっぱり分からなかった。
「ちょっと、あなた。お待ちなさい」
「はい」
その日、王宮の廊下を歩いていた少女を呼び止めたのは、きらびやかなドレスをまとった美しい令嬢だった。
国一の美人と名高い彼女は、国王の母の生家と並ぶ大貴族のお姫様。
最も王妃の椅子に近いと噂される女性で、自身も当然そうなるべきだと思い込んでいる。
高慢な性格で敵も多いが、他の令嬢とつるんで誰か一人を苛めたり、こそこそ嫌がらせをしたりというような陰険な真似は絶対にしない。
だから、少女はこの令嬢のことが嫌いではなかった。
それに、実をいうと少女と令嬢、それから国王陛下の三人は幼馴染みでもあるのだ。
令嬢の邸宅は、国王の母の生家の隣に建っている。
それぞれ屋敷も庭も広大で、両家は高い塀で隔てられてはいたが、幼い頃は互いの屋敷を行き来して遊んだこともあった。
ゆえに、令嬢は国王陛下と侍女が兄妹のように育ったことも、自分の夫となるかもしれない人が執事に憧れていたことも知っていた。
さらには、国王となった今も彼がその夢を捨て切れず、侍女として王宮に召し上げた少女相手に執事の真似事に興じていることまでも、令嬢は知っているのだ。
「あなた、相変わらず身の程も弁えずに陛下に使用人の真似事をさせていますの?」
さすがに国王陛下相手に大きな口は叩けないが、少女には会う度に「ふさわしくない戯れだ」と苦言を呈する。
「できることなら、遠慮させていただきたいのですが……」
少女も令嬢の言う通りだと思って、毎回大きく頷くのだが……
「まあ、なんともったいないことを言うの!? あなたのような庶民にとっては、身に余る光栄でしょうにっ!」
「……」
とたんに「この罰当たりめっ!」と少女の両肩を持ってガクガク揺する令嬢は、国王から彼女を引き離したいのか、それとも彼の趣味に付き合わせたいのか、もはや分からない。
ただし、先にも述べた通り女同士でつるまない令嬢は、少女に対する国王の特別扱いっぷりを言いふらすこともない。
おかげで、彼女の存在が少女の平穏な日々に影を落とすことはないのだった。
一通り馴染みの少女に向かって説教を垂れると気が済んだのか、令嬢は懐から出した雅な扇をパンッと響かせて広げると、今さら口元を隠して「それにしても」と続けた。
「あなたったら随分と薄情ではなくって?」
「はい?」
「陛下のご生家の執事といえば、あなたのたった一人の肉親でしょう?」
「……祖父のことでしょうか?」
「そうよ。おじい様が倒れたというのに、見舞いに帰るつもりはないんですの?」
「――え……?」
――祖父が……倒れた?
そんな話は寝耳に水であった少女は、思わず身分も忘れて「今、なんとおっしゃいましたか?」と令嬢に詰め寄った。
その必死の形相に、令嬢は目を丸くして続けた。
「執事が倒れたとうかがいましたわ。かの家の家令が申しておりましたから間違いありません」
「そ、そんな……」
「あら、あなた……知らなかったの?」
いつもは淡々としている少女だが、祖父が倒れたと聞かされてはさすがに平静ではいられなかった。
令嬢が言うには、それは一昨日の午前中の出来事らしい。
少女にとっても実家のようなかの屋敷とは、祖父相手はもちろんのこと、国王の生母である現当主やメイド達とも頻繁に手紙のやりとりもあるというのに、祖父の一大事を誰も彼女に知らせてくれてはいなかった。
「おじいさまっ……」
祖父も、もう随分と年である。
最悪の予感が頭をよぎり、みるみるうちに少女の顔は蒼白となって、華奢な身体はぶるぶると震え始めた。
たった一人の肉親を失うかもしれないという恐怖、そして足元から忍び寄る孤独感。
「ちょっ、ちょっとあなた、しっかりなさい!」
そんな少女の様子に驚いた令嬢は、飾りたてられたお気に入りの扇をほっぽり出し、崩れ落ちそうな彼女の身体を慌てて支えた。
「王女殿下に事情を話せば、きっとお暇をいただけますわ! 何でしたら、このままわたくしの馬車でおじい様のもとまで送ってさしあげてよ!」
「お嬢様っ……」
「つ、ついでですわよ。ついで!」
ツンデレ令嬢の行動力は素晴らしかった。
彼女は少女を半ば抱えるようにして王女殿下の私室へと連れて行き、「この子はいただいて行きますわっ!」と、ひどく誤解を生みそうな、しかし随分と男前な宣言をした。
ぽかんとする王女殿下が思わず頷くと、令嬢はくるりと踵を返して王宮の正面へと回り、待たせていた自分の馬車に少女もろとも乗り込んだ。
その間、顔色の戻らない少女はされるがままだ。
ところが、令嬢がいざ御者に出発の合図を出そうとしたその時、せっかく閉めた馬車の扉を断りもなく開く者があった。
王家に次ぐ大貴族である令嬢に対し、そんな無礼が許されるのは――
「――へ、陛下!?」
この時間、執務室にこもっているはずの国王陛下は、扉を開くや否や馬車の中に両腕を差し入れ、真っ青な顔の少女を抱き上げた。
気づけば、令嬢の馬車に横付けされる形で立派な白馬が一頭立っている。
それは、国王陛下が生家から連れてきた愛馬であった。
「へ、陛下……」
「爺の件、私も先ほどうかがいました」
腕の中で震える少女に向かい、国王は静かに頷いた。
彼は、最も信頼の置ける諜報部員を少女に付けていた。
彼女に関わる全ては、どんな小さなことでも逐一国王に報告される。
少女にちょっかいを出そうとした騎士がことごとく移動になる理由は、言わずもがな。
もちろん、少女本人は監視されていることなど知らない。
さきほど、祖父が倒れたと聞いて真っ青になった少女のことも、諜報部員はすぐさま国王陛下に報告した。
その直後、日頃少女を預けている妹王女が「令嬢にあの子を攫われた!」と叫んで、真っ青な顔をして駆け込んできたものだからなおのこと。
その後の国王陛下の行動は、かの令嬢に負けず劣らず早かった。
その時彼の執務室のソファに座っていたのは、三日間の予定で外遊に来た隣国の女王陛下とその伴侶となった腹違いの兄であった。
王族らしからぬ結ばれ方をした二人は、その尻拭いをした形の弟王には頭が上がらない。
「私のお嬢様の一大事です。当然今日のお茶会も晩餐も中止ですよ。――文句なんてありませんよね?」
二人にはもちろん、頷く以外の選択肢は用意されてはいなかった。
生家の執事の件は、国王陛下のところにも何の連絡もきていなかった。
確かに、一介の執事が倒れたくらいで、国主にわざわざ知らせることはないかもしれない。
しかし、孫である少女にまで知らせがなかったのは何故だ?
国王陛下は馬車から抱き下ろした少女をいったん地面に立たせると、周囲の目もはばからずその前に跪いた。
「陛下……」
「なんなりと命じてください、お嬢様。全ては、あなたの望むままに」
「そんな……」
「あなたの願いを叶える栄誉は、私にこそお授けください、お嬢様」
ざわざわと人々が戸惑う気配がする。
それはそうだろう。
一国の主が、侍女のお仕着せを纏った少女に向かって跪いているのだから。
国王陛下はそのまま少女の手の甲に唇を押し当てた。
執事というより、まるで忠誠を誓う騎士のようだ。
馬車から顔を出した令嬢が、「何を血迷っていらっしゃいますのっ!?」と赤い顔をして叫んだ。
しかし、この時の少女にそれらにかまっている余裕はなかった。
祖父のことを思うと、足が震えて立っていられなくなる。
それに気づいて支えるように両手を握った国王が「さあ」と促すと、彼女はついに声を震わせて言った。
「……一緒に、祖父に会いにいっていただけますか?」
「もちろん」
その言葉を聞いたとたん、力強く頷いた男の腕は少女を抱き上げ、愛馬の背にのせた。
そして自身もその後ろにひらりと飛び乗ると、唖然とする聴衆が自然と開けた花道を颯爽と駆け抜けて行ってしまった。
国王陛下の白馬は街道を駆け抜け、瞬く間に懐かしい生家の門をくぐった。
驚き慌てる家人達にはかまわず庭を通り抜け、玄関扉の前で愛馬の手綱を引いた国王陛下は、膝の間に座らせていた少女を抱き上げ地面へと降り立った。
祖父の容態を案ずるあまり、少女の顔からは血の気が失せて、華奢な身体はカタカタと震えている。
「いついかなる時も、私はお嬢様の側におります」
国王陛下が耳元でそう囁くと、少女は薄く涙の膜を張った目で彼を見上げ、小さくこくりと頷いた。
いつもなら、国王陛下の執事の真似事に困った顔をする彼女だが、今はそんな余裕もないのだろう。
不安に押し潰されそうになる少女を守りたくて、国王陛下はしっかりと彼女を抱き直して玄関扉をくぐった。
そうして、二人が向かった私室のベッドの上で
「おじい様っ……!」
「爺」
執事は、
少女の祖父は、
――ピンピンしていた。
「……え? ……ぎっくり腰?」
「いやはや、まだまだ若い者には負けられんと、ワイン樽を持ち上げようとしたのがそもそもの間違いでしたな」
かっかっかっと、白い歯を見せて軽快に笑う老執事からは、死の気配は皆無。
国王陛下と少女はポカンとして顔を見合わせた。
執事を襲ったのはぎっくり腰だった。
たかが腰痛と侮るわけではないが、直接命に関わるものではない。
国王陛下にも孫娘にも、わざわざ知らせがこなかったわけだ。
少女はようやく強張っていた表情を緩めた。
彼女の足をそっと床に立たせてやった国王陛下もため息をつき、「普段元気な爺が倒れたと聞いて、最悪の事態を想像してしまったよ」と苦笑した。
それに、老執事はまたも軽快な笑い声を上げると、若い二人に目を細めて言った。
「坊ちゃまの奥方様を拝見するまでは、私も死ぬわけにはいきませんから」
「坊ちゃまはやめてください……」
「それに、孫の花嫁衣装も見ずに逝けば、あの世で息子夫婦に顔向けできませんからねぇ」
「おじい様……」
少女は祖父のベッドへと駆け寄り、彼の手を取った。
彼女に唯一残された肉親の温もりだ。
それがまだ失われることはないと確認して、少女はほっと安堵のため息をつく。
一方、その背後で何やら閃いたらしい国王陛下は、眩しいほどの笑みを浮かべて老執事に向かって口を開いた。
「爺の願いを、両方一度に叶えられる方法がありますよ」
「おや? それは、どういった方法でございましょう?」
問い返す老執事に、彼は祖父の手を握り締めている少女の髪を労るように撫でると、笑みを深めて続けた。
「私と彼女が結婚すればよいのです」
――は?
と、少女は思ったが、声にはならなかった。
人間、驚き過ぎると声も出せないらしい。
「そうなれば、私はもう思い残すことはございませんなあ」
国王陛下がまさか本気で言っているなどと思わない老執事は、笑ってそう答えた。
少女も背後に立つ国王陛下を振り返る。
しかし、彼の少しの戯れも感じさせない顔を見れば、先ほどの言葉を笑い飛ばすことなどできなかった。
決して、冗談ではないのだ。
自分が一国の主の妻に――?
そんなあり得ない話に気が遠くなりかけ、少女は己を叱咤しつつ慌てて口を開いた。
「お、おじい様が死んでしまっては嫌なので! ――私、一生結婚しませんっ!」
「――ええっ!?」
少女は本気だった。
孫娘の突然の生涯独身宣言に、老執事は驚いた。
そればかりか、別の人物の口から続けて出た言葉に、彼はさらに目を丸くすることになる。
「でしたら、私も一生結婚せずに執事としてお嬢様に仕えます」
そう言って、老執事の孫娘の傍らに膝をついたのは、国王陛下。
もちろん、彼も本気だった。
「――えっ、えええっ!?」
――グキチョ!……
驚き過ぎて仰け反った老執事の腰が、鈍い音を立てた。
結局、孫娘と国王陛下の見舞いによってギックリ腰を悪化させた彼は、その後十日間執事の仕事を休むことになった。
その後、少女と国王陛下は本当に長い時間を独身のまま過ごした。
庶民である少女はともかくとして、国王陛下には何とか妃を娶らせようと周囲の者達が躍起になったが、彼が首を縦に振ることはなかった。
かつては王妃最有力候補と自他ともに認めていた令嬢も、一向になびかない国王陛下に愛想を尽かし、さらには自分の婚期が遅れることを嫌って、さっさと別の貴族に嫁いでいってしまった。
やがて、少女は子供を三人産んだ。
子供達の父親は、もちろん国王陛下である。
事実婚とはいえ国王陛下が認知したことで、子供達は母親とともに王宮の中に部屋を与えられた。
さらに、三人の男子のうち長男が、十歳の誕生日を期に立太子した。
と同時に、それを邪魔しようと別の王族を担いだ一派も現れた。
その王族とは、国王陛下の腹違いの兄と隣国の女王陛下との間に産まれた男児だ。
しかし、かつて身勝手な理由で責務を放棄した者の血を、国民は認めなかった。
逆に、庶民の少女への一途な愛を貫く国王陛下は国民の心を掴み、二人の間に生まれた子が玉座を受継ぐことはおおいに支持された。
――やがて
百才を越えて長生きした執事が大往生を遂げると、国王陛下は玉座を下りることを決意した。
そして、新国王となった息子の立派な姿を見届けてから、その母親であるかつての侍女とともに生家へと移り住み、そこで二人はようやく式を挙げて正式な夫婦となった。
ところが。
その後も元国王は妻を“お嬢様”と呼び、大貴族の当主でありながら執事も兼ねるという、おかしな立場を楽しんだのだそうだ。