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第一話 薬師リゼル・アルヴェイン


誰もが皆、奇跡で救われる。

病はすべて、聖女の奇跡で癒される。


少なくとも、この国では幼い頃からそう教えられている。

病に倒れた者は神殿へ向かい、傷を負った者は跪き聖職者に祈る。

神の祝福を受けた治癒術師が手をかざせば、傷口は塞がり、熱は下がり、苦痛は消える。これが世の理。

それがここ-------ヴァレンス王国における、揺るぎない常識だった。

眼の前で起こる事柄に誰も疑問を抱くことはない。


だからこそ、王都の片隅で薬草を煎じて暮らすリゼル・アルヴェインは、少しばかり時代遅れの人間だと思われていた。

彼女自身そう思っていたし、その評価を否定するつもりはなかった。

特に人生を邪魔されるものではないし、そんなことより王都に暮らすものに薬を用意せねばならない。

神殿で祝福をもらえるのは一部の王族や富裕層などのお金持ちのみだ。

その恩恵を受けることのできない人がこの王都にはたくさんいる。

その人達のために今日もリゼルは父親から受け継いだ薬房で薬を煎っている。

それがリゼルの幸せなのだ。

     *

「だからさぁ、お嬢ちゃん。ここの薬は苦いんだよ」


朝から三度目となる苦情を聞きながら、リゼルは小さな陶器の壺に軟膏を詰めていた。

「苦いのは飲み薬だけです。こちらは塗り薬なので、味は関係ありませんよ」

「そういう問題じゃないんだ。薬ってのは、もっとこう、ありがたい感じがしないと」

「ありがたい感じ、ですか」

「そうさ。神殿の薬なんて、瓶が光ってるんだぞ」

目の前に座る老人は、得意げに胸を張った。

(そんなわけないだろ)

リゼットは手元の壺を見下ろす。

茶色い平凡な陶器。

飾り気のない蓋。何ならちょっと欠けている。

中身は薬草の成分を油脂に移した、ごく普通の軟膏だ。

このうるさいじいさんのための軟膏だ。


「では、次から瓶に金粉でも塗りましょうか」

「おお、それはいい!」

「薬代は三倍になりますけど」

「……今のままでいい」

リゼルは小さく笑った。

このうるさいじいさんの名はバルター。

王都の市場近くで靴修理を営む職人で、もう十年以上、この薬房に通っている。

今日の相談は、手のひらのひび割れだった。

「前より赤みが減りましたね」

「ああ。お嬢ちゃんの薬のおかげだ」

「それもありますけど、革をなめす薬液に素手で触れないようにしたのが大きいと思いますよ」

「面倒なんだよ、手袋は、それに感覚が狂う」

「面倒でも使ってください。薬を塗っても、原因に触れ続けたら繰り返しますから」

「はいはい。まったく、父親そっくりだ」

その言葉に、リゼルの手がぴくっと止まった。

バルターは気づかなかったらしい。

「クラウド先生も、よく同じことを言ってたよ。薬を出す前に、どうして病気になったのか一回考えろってな」

「……父をご存じだったんですか」

「そりゃあ、昔はこの辺りで知らない者なんていなかったさ」

バルターはそこで口をつぐんだ。

薬房の奥に飾られた、小さな古い肖像画へふと目を向ける。

リゼルの父、クラウド・アルヴェイン。

十七年前、異端の医師として広場の中央で処刑された男。

その名前を口にすることは、今でも王都では歓迎されない。

----------十七年経った今でも。


「悪かったな」

「いいえ」

リゼルはありがたい感じのしない壺の蓋を閉めた。

「父の話を聞けるのは、うれしいです」

それは本心だった。

リゼルの中には父の記憶は、ほとんど残っていない。

覚えているのは、大きな手と、古い紙の匂い。

いつも忙しい人だった。

覚えているのは、夜中に熱を出した自分の額に触れた、少し冷たい指先。

それだけだ。


「お代は銅貨三枚です」

「前より安くないか?」

「前回の軟膏が少し残っているでしょう?使い切れないかと思って今回は小さい壺にしました」

「商売が下手だねえ」

「よく言われます」


バルターが帰ると、薬房にはようやく静けさが戻った。

リゼルは窓を開けた。

春の終わりを告げる風が、乾燥させた薬草の束を揺らす。

(いい香りね)

通りの向こうでは、パン屋の主人が焼きたての丸パンを並べていた。

石畳を荷馬車が通り、教会の鐘が朝の九刻を告げる。

いつもと変わらない王都の朝。

リゼルは、この時間が好きだった。

別にお金持ちじゃなくたって心が豊かになる方法はいくらでもある。

健康でさえあれば人は前向きでいられる。

そうやって、人々の暮らしは続いていく。

「父さんの話をしたからちょっと浸っちゃったかしら」

リゼルがお湯を沸かそうとしたその時、


「先生!」

勢いよく扉が開いた。

飛び込んできたのは、見習い薬師のララだった。

十四歳の少女で、赤毛を二つに結んでいる。

「大変です!」

「どうしたの。買い出し用のお金を落とした?」

「違います!」

「じゃあ、裏庭の置物を割った?」

「それも違います!」

「なら、落ち着いて話せるでしょう」

ララは大きく息を吸った。

「神殿の聖女様が、今日、中央広場にいらっしゃるそうです!」

リゼルは瞬きをした。

「そう」

「そう、じゃありませんよ! ルナフィーナ様ですよ!王国で一番強い治癒魔法をお使いになる、あの!」

「知ってるわ」

「見に行きませんか?」

「行かない」

「どうしてですか!」

「薬草を仕分けないといけないから忙しいの」

「そんなの、あとでもできます!」

リゼルは棚の上に並んだ瓶を見た。

「昨日、あなたが月白草と銀葉草を同じ箱に入れたせいで、仕分け直しが必要なのよ」

ララの勢いが止まった。

「……それは」

「葉の形は似ていても、作用は違うの。間違えて使えば危険なこともある、教えたはずよ」

「はい……」

しゅんと肩を落とす少女を見て、リゼルはため息をついた。

「午前中に終わったら、午後は見に行ってもいいわよ」

「本当ですか!」

「ただし、薬草の名前を全部答えられたらね」

「先生の意地悪!」

ララは頬を膨らませながら奥へ消えていった。

リゼルはその背中を見送る。


聖女ルナフィーナ。

神殿が誇る、奇跡の象徴。知らないものはいないだろう。

彼女が触れた傷は跡形もなく消え、どんな高熱もたちまち下がるという。

その力を疑う者は、王国にはほとんどいない。

リゼルも、治癒魔法が実在することまで否定しているわけではなかった。

実際に、目の前で傷が塞がるのを見たことがある。

酷かった傷は光りに包まれた後消え去っていた。

気になるのは、その先だった。

傷が塞がれば、本当に治ったと言えるのか。

熱が下がれば、病気は消えたことになるのか。

そもそも病の原因はなんだ?

この聖女の奇跡とはどういうものなのか。

そんな疑問を口にすれば、たいていの人は困った顔をする。

ひどい場合には、異端者を見るような目を向けてくる。

だからリゼルは、最近ではあまり口にしなくなっていた。

答えが欲しいなら、自分で調べればいい。

父がそうしていたように。

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