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歴史小説 【新しい歴史】本能寺の変の真実

作者: 虫松
掲載日:2026/08/25

挿絵(By みてみん)

天正十年六月二日。


あの日から、もう四十年が過ぎた。


世間では今でも、明智光秀様はこう呼ばれている。


主君を裏切った逆臣。


天下を狙った謀反人。


そして人々は、まるで自分の耳で聞いたかのように語る。


「光秀は桂川を渡るとき、こう叫んだのだ」


『敵は本能寺にあり!』


だが私は断言する。


そんな言葉を、光秀様は一度も口にしていない。


なぜなら私は、あの夜、光秀様のすぐ近くにいたからだ。


私の名は、三宅弥平次。


明智家に仕えた、名もなき家臣の一人である。


今から語ることを信じるかどうかは、あなた方に任せよう。


だが私が死ぬ前に、これだけは残しておきたい。


本能寺で起きたことは、


最初から計画された謀反などではなかった。


すべては


恐ろしいほど小さな勘違いから始まったのである。



◇◇◇



そのころ、羽柴秀吉殿は中国地方で毛利軍と戦っていた。


信長様は秀吉殿を援護するため、光秀様に中国出陣を命じられた。


我々明智軍は一万を超える兵を集め、丹波亀山城を出発した。


ところが出陣の少し前。


光秀様は妙なことを気にしていた。


「上様は今、どこにおられる」


「京の本能寺にございます」


「供の兵はいかほどだ」


「百ほどとも、二百ほどとも……」


光秀様の顔が曇った。


「少なすぎる」


私は少し意外に思った。


京の都は織田家の勢力下にある。


信長様を襲おうとする大名など、いるはずがない。


だが光秀様は慎重な御方だった。


「上様は天下人になられた。それだけ敵も多い」


そう言って地図を睨んだ。


「もし浪人ども、反織田の残党、あるいは刺客が大軍を装って本能寺を襲えばどうなる」


誰も答えられなかった。


信長様の周囲には、あまりにも兵が少ない。


「中国へ向かう途中、数千を京へ回そう」


私は聞き返した。


「本能寺へ、ですか?」


「そうだ」


光秀様は頷いた。


「上様の警護を固める」


それだけだった。


天下を奪う話など、一言も出なかった。


信長様を殺す話など、なおさらである。


光秀様はむしろ、信長様が討たれることを恐れていたのだ。



◇◇◇



深夜。


我々は亀山を出発した。


暗い山道を、大軍が松明を掲げて進んでいく。


ところが問題が起きた。


本能寺に、


「明智軍を警護のため派遣する」


という知らせが届いていなかったのである。


伝令が遅れたのか。


途中で何かがあったのか。


それとも、そもそも誰かが伝えるのを忘れたのか。


今となっては分からない。


ただ一つ確かなのは、


本能寺の織田兵は、何も知らなかったということだ。


夜明け前。


物見の兵が、大軍の接近を確認した。


「軍勢だ!」


「どこの軍だ!」


「桔梗紋!」


「明智だ!」


本能寺の中に緊張が走ったという。


数千の明智兵が、夜中に本能寺へ向かってくる。


しかも事前の知らせがない。


織田兵からすれば、答えは一つしかなかった。


狂った明智による謀反。


「明智光秀が謀反を起こしたぞ!」


その叫びが、すべてを変えた。


門が閉じられた。


弓兵が配置された。


鉄砲に火が入れられた。


そのころ我々はまだ、


本能寺の兵が歓迎してくれると思っていた。


私は先頭近くにいた。


「止まれ!」


本能寺側から声が飛んだ。


こちらの武将が叫び返す。


「明智日向守様の兵である!」


その瞬間。


ヒュッ。


一本の矢が飛んできた。


隣にいた兵の兜に当たった。


「攻撃だ!」


誰かが叫んだ。


「織田兵が攻撃してきたぞ!」


明智兵は混乱した。


なぜ味方が撃ってくるのか。


本能寺側も混乱していた。


なぜ明智軍が引かないのか。


そして二本目の矢が飛んだ。


続いて鉄砲が鳴った。


ドン!


これで終わりだった。


「敵襲!」


「応戦せよ!」


「本能寺から撃ってきたぞ!」


誰も全体を把握していなかった。


前方の兵が押し返し、


後方の兵は事情を知らないまま前へ進む。


本能寺側から見れば、


大軍が突撃してきたように見えた。


明智側から見れば、


理由もなく織田軍が攻撃してきたように見えた。


戦は始まってしまった。


 

◇◇◇



「やめろ!」


光秀様は叫んだ。


「攻撃するな!」


だが一万の兵が動き始めた戦場で、


一人の声など届かない。


「旗を下げさせろ!」


「無理です!」


「使者を送れ!」


「近づけば射殺されます!」


光秀様の顔から血の気が引いていた。


「違う……」


何度も呟いていた。


「これは違う……」


やがて本能寺から煙が上がった。


火が放たれたのか。


戦闘で燃え移ったのか。


それすら分からない。


炎は瞬く間に広がった。


そして信長様が亡くなった。


その知らせを聞いた光秀様は、


馬上でしばらく動かなかった。


天下を取った男の顔ではなかった。


勝利した武将の顔でもなかった。


ただ、


取り返しのつかない失敗をした男の顔だった。


「……上様が」


光秀様は震える声で言った。


「死なれた……?」


誰も答えられなかった。


 


◇◇◇


だが、歴史は待ってくれない。


織田信長様が死んだ。


本能寺を囲んでいたのは明智軍。


ならば、明智光秀が信長を殺した。


人々にとって、それが最も分かりやすい答えだった。


光秀様にも、もう後戻りはできなかった。


「警護のため兵を送った」


などと言ったところで、


誰が信じる。


主君が死に、


その周囲を自分の軍が囲んでいたのだ。


やがて羽柴秀吉殿が中国から驚くべき速さで戻ってきた。


山崎の戦い。


明智軍は敗れた。


光秀様も死んだ。


死人は何も語れない。


そして勝者が歴史を書いた。


「明智光秀は天下を望み、信長を討った」


その方が物語として分かりやすかった。


さらに年月が過ぎると、


誰かが言い始めた。


「光秀は出陣のとき、こう言ったそうだ」


『敵は本能寺にあり』


私はその話を初めて聞いたとき、笑ってしまった。


そんな言葉は聞いていない。


だが十年後には、


「そう言ったらしい」


が、


「そう言った」


になった。


二十年後には、


誰も疑わなくなった。


本能寺の謀反の物語は事実になった。



◇◇◇



歴史というものは、不思議だ。


百人が見た出来事でも、


百年後には一つの物語になっている。


そしてその物語を作るのは、


必ずしも真実ではない。


勝った者。


生き残った者。


面白く語った者。


分かりやすく書いた者。


彼らの言葉が歴史になる。


あの夜、本能寺へ向かった明智軍の兵たちは、


自分たちが謀反軍だと思っていなかった。


少なくとも私は違った。


我々は主君を守るために京へ向かった。


だが本能寺の兵は、我々を敵だと思った。


そして我々は、攻撃されたことで相手を敵だと思った。


敵など、最初はいなかったのかもしれない。


互いに相手を敵だと思った瞬間、


敵が生まれたのだ。


もし一本目の矢が放たれなければ。


もし伝令が一刻早く到着していれば。


もし誰かが、


「待て、話を聞け!」


と言えていたなら。


織田信長様は死ななかったかもしれない。


明智光秀様も逆臣と呼ばれなかったかもしれない。


羽柴秀吉殿が天下を取ることもなかったかもしれない。


そして日本の歴史そのものが、


まったく違う姿になっていたかもしれない。


だが歴史に、「もし」は残らない。


残るのは結果だけだ。


本能寺が燃えた。


信長が死んだ。


そこに明智軍がいた。


それだけで、光秀様は謀反人になった。


私はもう老いた。


間もなく、この世を去る。


だから最後に書き残しておく。


明智光秀様は、


あの日、


「敵は本能寺にあり」


などと言ってはいない。


私が聞いた言葉は、


ただ一つだった。


出陣前、光秀様は静かにこう言ったのだ。


「上様の兵が少なすぎる」


そして


「何かあってからでは遅い。兵を送り、守らねばならぬ」


皮肉なものだ。


信長様を守ろうとして送った軍勢が、


信長様を死なせた。


後世の者たちは、


それを「裏切り」と呼んだ。


だが私は違うと思っている。


あれは謀反ではない。


陰謀でもない。


天下取りでもない。


ただ、一つの命令が正しく伝わらなかった。


一つの軍勢の目的が正しく伝わらなかった。


そして、互いが互いを敵だと思った。


それだけだ。


歴史を変えたのは、


英雄の野望ではない。


ほんの小さな、「勘違い」だったのである。


明智家旧臣 三宅弥平次、最期の手記。


【完】

漫画版をジャンプラにて公開中

https://rookie.shonenjump.com/series/TWpXKpYa08M/TWpXKpYdQLQ


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