歴史小説 【新しい歴史】本能寺の変の真実
天正十年六月二日。
あの日から、もう四十年が過ぎた。
世間では今でも、明智光秀様はこう呼ばれている。
主君を裏切った逆臣。
天下を狙った謀反人。
そして人々は、まるで自分の耳で聞いたかのように語る。
「光秀は桂川を渡るとき、こう叫んだのだ」
『敵は本能寺にあり!』
だが私は断言する。
そんな言葉を、光秀様は一度も口にしていない。
なぜなら私は、あの夜、光秀様のすぐ近くにいたからだ。
私の名は、三宅弥平次。
明智家に仕えた、名もなき家臣の一人である。
今から語ることを信じるかどうかは、あなた方に任せよう。
だが私が死ぬ前に、これだけは残しておきたい。
本能寺で起きたことは、
最初から計画された謀反などではなかった。
すべては
恐ろしいほど小さな勘違いから始まったのである。
◇◇◇
そのころ、羽柴秀吉殿は中国地方で毛利軍と戦っていた。
信長様は秀吉殿を援護するため、光秀様に中国出陣を命じられた。
我々明智軍は一万を超える兵を集め、丹波亀山城を出発した。
ところが出陣の少し前。
光秀様は妙なことを気にしていた。
「上様は今、どこにおられる」
「京の本能寺にございます」
「供の兵はいかほどだ」
「百ほどとも、二百ほどとも……」
光秀様の顔が曇った。
「少なすぎる」
私は少し意外に思った。
京の都は織田家の勢力下にある。
信長様を襲おうとする大名など、いるはずがない。
だが光秀様は慎重な御方だった。
「上様は天下人になられた。それだけ敵も多い」
そう言って地図を睨んだ。
「もし浪人ども、反織田の残党、あるいは刺客が大軍を装って本能寺を襲えばどうなる」
誰も答えられなかった。
信長様の周囲には、あまりにも兵が少ない。
「中国へ向かう途中、数千を京へ回そう」
私は聞き返した。
「本能寺へ、ですか?」
「そうだ」
光秀様は頷いた。
「上様の警護を固める」
それだけだった。
天下を奪う話など、一言も出なかった。
信長様を殺す話など、なおさらである。
光秀様はむしろ、信長様が討たれることを恐れていたのだ。
◇◇◇
深夜。
我々は亀山を出発した。
暗い山道を、大軍が松明を掲げて進んでいく。
ところが問題が起きた。
本能寺に、
「明智軍を警護のため派遣する」
という知らせが届いていなかったのである。
伝令が遅れたのか。
途中で何かがあったのか。
それとも、そもそも誰かが伝えるのを忘れたのか。
今となっては分からない。
ただ一つ確かなのは、
本能寺の織田兵は、何も知らなかったということだ。
夜明け前。
物見の兵が、大軍の接近を確認した。
「軍勢だ!」
「どこの軍だ!」
「桔梗紋!」
「明智だ!」
本能寺の中に緊張が走ったという。
数千の明智兵が、夜中に本能寺へ向かってくる。
しかも事前の知らせがない。
織田兵からすれば、答えは一つしかなかった。
狂った明智による謀反。
「明智光秀が謀反を起こしたぞ!」
その叫びが、すべてを変えた。
門が閉じられた。
弓兵が配置された。
鉄砲に火が入れられた。
そのころ我々はまだ、
本能寺の兵が歓迎してくれると思っていた。
私は先頭近くにいた。
「止まれ!」
本能寺側から声が飛んだ。
こちらの武将が叫び返す。
「明智日向守様の兵である!」
その瞬間。
ヒュッ。
一本の矢が飛んできた。
隣にいた兵の兜に当たった。
「攻撃だ!」
誰かが叫んだ。
「織田兵が攻撃してきたぞ!」
明智兵は混乱した。
なぜ味方が撃ってくるのか。
本能寺側も混乱していた。
なぜ明智軍が引かないのか。
そして二本目の矢が飛んだ。
続いて鉄砲が鳴った。
ドン!
これで終わりだった。
「敵襲!」
「応戦せよ!」
「本能寺から撃ってきたぞ!」
誰も全体を把握していなかった。
前方の兵が押し返し、
後方の兵は事情を知らないまま前へ進む。
本能寺側から見れば、
大軍が突撃してきたように見えた。
明智側から見れば、
理由もなく織田軍が攻撃してきたように見えた。
戦は始まってしまった。
◇◇◇
「やめろ!」
光秀様は叫んだ。
「攻撃するな!」
だが一万の兵が動き始めた戦場で、
一人の声など届かない。
「旗を下げさせろ!」
「無理です!」
「使者を送れ!」
「近づけば射殺されます!」
光秀様の顔から血の気が引いていた。
「違う……」
何度も呟いていた。
「これは違う……」
やがて本能寺から煙が上がった。
火が放たれたのか。
戦闘で燃え移ったのか。
それすら分からない。
炎は瞬く間に広がった。
そして信長様が亡くなった。
その知らせを聞いた光秀様は、
馬上でしばらく動かなかった。
天下を取った男の顔ではなかった。
勝利した武将の顔でもなかった。
ただ、
取り返しのつかない失敗をした男の顔だった。
「……上様が」
光秀様は震える声で言った。
「死なれた……?」
誰も答えられなかった。
◇◇◇
だが、歴史は待ってくれない。
織田信長様が死んだ。
本能寺を囲んでいたのは明智軍。
ならば、明智光秀が信長を殺した。
人々にとって、それが最も分かりやすい答えだった。
光秀様にも、もう後戻りはできなかった。
「警護のため兵を送った」
などと言ったところで、
誰が信じる。
主君が死に、
その周囲を自分の軍が囲んでいたのだ。
やがて羽柴秀吉殿が中国から驚くべき速さで戻ってきた。
山崎の戦い。
明智軍は敗れた。
光秀様も死んだ。
死人は何も語れない。
そして勝者が歴史を書いた。
「明智光秀は天下を望み、信長を討った」
その方が物語として分かりやすかった。
さらに年月が過ぎると、
誰かが言い始めた。
「光秀は出陣のとき、こう言ったそうだ」
『敵は本能寺にあり』
私はその話を初めて聞いたとき、笑ってしまった。
そんな言葉は聞いていない。
だが十年後には、
「そう言ったらしい」
が、
「そう言った」
になった。
二十年後には、
誰も疑わなくなった。
本能寺の謀反の物語は事実になった。
◇◇◇
歴史というものは、不思議だ。
百人が見た出来事でも、
百年後には一つの物語になっている。
そしてその物語を作るのは、
必ずしも真実ではない。
勝った者。
生き残った者。
面白く語った者。
分かりやすく書いた者。
彼らの言葉が歴史になる。
あの夜、本能寺へ向かった明智軍の兵たちは、
自分たちが謀反軍だと思っていなかった。
少なくとも私は違った。
我々は主君を守るために京へ向かった。
だが本能寺の兵は、我々を敵だと思った。
そして我々は、攻撃されたことで相手を敵だと思った。
敵など、最初はいなかったのかもしれない。
互いに相手を敵だと思った瞬間、
敵が生まれたのだ。
もし一本目の矢が放たれなければ。
もし伝令が一刻早く到着していれば。
もし誰かが、
「待て、話を聞け!」
と言えていたなら。
織田信長様は死ななかったかもしれない。
明智光秀様も逆臣と呼ばれなかったかもしれない。
羽柴秀吉殿が天下を取ることもなかったかもしれない。
そして日本の歴史そのものが、
まったく違う姿になっていたかもしれない。
だが歴史に、「もし」は残らない。
残るのは結果だけだ。
本能寺が燃えた。
信長が死んだ。
そこに明智軍がいた。
それだけで、光秀様は謀反人になった。
私はもう老いた。
間もなく、この世を去る。
だから最後に書き残しておく。
明智光秀様は、
あの日、
「敵は本能寺にあり」
などと言ってはいない。
私が聞いた言葉は、
ただ一つだった。
出陣前、光秀様は静かにこう言ったのだ。
「上様の兵が少なすぎる」
そして
「何かあってからでは遅い。兵を送り、守らねばならぬ」
皮肉なものだ。
信長様を守ろうとして送った軍勢が、
信長様を死なせた。
後世の者たちは、
それを「裏切り」と呼んだ。
だが私は違うと思っている。
あれは謀反ではない。
陰謀でもない。
天下取りでもない。
ただ、一つの命令が正しく伝わらなかった。
一つの軍勢の目的が正しく伝わらなかった。
そして、互いが互いを敵だと思った。
それだけだ。
歴史を変えたのは、
英雄の野望ではない。
ほんの小さな、「勘違い」だったのである。
明智家旧臣 三宅弥平次、最期の手記。
【完】
漫画版をジャンプラにて公開中
https://rookie.shonenjump.com/series/TWpXKpYa08M/TWpXKpYdQLQ




