「王家の蔵書、背表紙は全て私が綴じたのですが?」
王宮の謁見の間に、高い窓から斜めの光が射し込んでいた。
春の午後だった。紫の絨毯の上に、金の縁取りの光が長く伸びていた。外は風が薄く、庭園の桜の匂いが回廊のほうから流れてきていた。王が玉座の前で一歩踏み出し、両手で一冊の本を持ち上げた。
革表紙の子牛革。深い緋色。金箔で押した二重の紋章——アスティリアの獅子と、隣国リンシャールの鷲が、互いの翼と鬣で輪を描いている。
三年前、わたくしが両手で綴じ上げた、外交贈呈用歴史書だった。
——この本は、本来ならば贈呈の前日、宰相府の書式点検を経て、王家認定工房三軒のいずれかで最終検品を受けるはずだった。だが、三軒とも「綴じ手が王都を去ったため、最終調整の責を負えぬ」と辞退した。宰相ガブリエル・ミルドハーバーは「三年前の本に何が起きる。形式は省け」と命じた。書庫から出された本は、誰の指先にも触れられぬまま、紫の絨毯の上を、王の手まで運ばれたのだった。
玉座の下、リンシャール王太子アレクシスが一歩進み出て、両手をそっと差し出した。
王が本を、静かに、そこに移す。
二人の手のあいだで、本がほんの一瞬、水平に止まった。金の紋章が、光を吸って眩しく光った。
——そして。
表紙の革が、重みに耐えかねたように、皮一枚で背から離れた。
中身の紙束が、表紙からゆっくりと滑り出し、吐息のような音を立てて、紫の絨毯の上に落ちた。
金の紋章が、絨毯の毛足の上で、裏返しになって止まった。
時が、止まった。
謁見の間じゅうの誰も、呼吸をしなかった。
王太子アレクシスの指先が、空を掴んだまま止まっていた。彼の瞳が、一度だけ冷たく瞬いた。
宰相ミルドハーバー侯爵の顔が、白い紙のように色を失った。
外交官たちが、口を開けかけ、閉じ、また開けた。
そして、宰相子息ガブリエル・ミルドハーバーは——王の背後に控えていたその青年は、ぎりぎりのところで立っていた膝が、がくりと一度、音を立てて曲がった。
王が、ゆっくりと目を閉じた。
ただ、それだけだった。
——三日後、王都。宰相府の奥、文書の山に埋もれた執務室の廊下。
ガブリエル・ミルドハーバーは、震える手で、王立図書館司書長からの報告書を受け取っていた。封蝋がまだ温かい。司書長は、宰相府まで自ら歩いてきたのだ。
「宰相子息様」
司書長は、三十代の女性だった。灰色の髪を後ろで結っている。眼鏡の奥の目が、ガブリエルから視線をそらさない。
「戴冠記念誌でございます。——全冊、金文字が酸化しております」
「……全冊」
「十二冊、すべてです。滲んで、黒く変色しております」
ガブリエルの口が、何か言いかけて止まった。
「さらに」
司書長は、息を整えた。
「地下貴重書庫でございます。——糸の切れた本が、書棚から、雨のように落ち始めました」
廊下の奥で、蝋燭が、誰も触っていないのに、一度だけ揺れた。
ガブリエルは、ゆっくりと口を開いた。
「……誰が」
言葉が続かなかった。
「誰が、直すのだ」
司書長は、報告書の下に挟んでいた一通の手紙を、静かに差し出した。封蝋は紺色だった。差出人の名が、白いインクで書かれていた。
辺境ブルケンハウ。装丁工房主——フィオラ・アシュベリー。
ガブリエルの指が、紙の角で止まった。
時間が、半年、巻き戻る。
わたくしがまだ、王城の図書回廊に立っていたころの話だった。
午後の光が、王立図書館三階の回廊に差し込んでいた。石造りの柱と柱のあいだに、磨かれた樫の書架が並んでいる。背表紙を上から順に眺めれば、王国の歴史が、革と金箔の色で三百年分、積み上がっていた。
わたくしは、書架の前にしゃがみ、手を伸ばしていた。
棚の奥から引き出したのは、三冊の歴史書だった。表紙は子牛革、深い緋色、金箔の紋章。——二日後に隣国リンシャールへ贈られる予定の、親書に添える本たちだった。
三年前、わたくしが両手で綴じた本たちだった。
糸の張りを、指先で確かめる。
麻糸を蝋引きし、背の丸みに合わせて張力を決めた日を、わたくしはまだ覚えていた。あの日、工房長が背中越しに覗き込み、「フィオラ、この本は十年は糸が切れぬな」と低く言ったのだ。十年。——わたくしは、三年しか経っていないうちから、糸の疲れの気配を確かめに来ていた。
背表紙の縫い目に、親指の腹を這わせる。
糸は、まだ生きている。
革は、呼吸している。
よろしい。
わたくしはそっと息を吐き、三冊を書架の元の位置に戻そうとした。
回廊の奥から、笑い声が聞こえた。
明るくて、高くて、少し甘い声だった。わたくしではない女性たちの声。そして、低く穏やかな男の声。——ガブリエルの声。婚約者の、ガブリエル・ミルドハーバーの声だった。
本来、図書館にはあの人の用事はない。
わたくしは手を止め、顔を上げなかった。ただ、背中で、足音の数を数えた。
女性の靴が三人分。男性の靴が一人分。——ガブリエルは、わざわざ三人の令嬢を連れて、わたくしの職場に来たのだった。
「フィオラ」
声が、わたくしの背に降ってきた。
「折り入って話がある」
わたくしは歴史書を書架に戻し、膝の前掛けの埃を払って立ち上がった。振り返ると、ガブリエルが、三人の貴族令嬢を従えるように立っていた。金の巻き毛、細縁の眼鏡、宰相府の濃紺の上着。真鍮のボタンが、午後の光を受けて軽く光っていた。
——わたくしは一礼した。
「ごきげんよう」
「ああ」
ガブリエルは軽く頷き、手にしていた扇を開いた。
「簡潔に伝えよう。——君との婚約は、今日をもって破棄する」
回廊の壁に、一瞬、音のない波が立った気がした。
令嬢たちが、目を見合わせ、口元を扇で隠した。——そのうち一人、まだ若い令嬢が、半歩下がって、扇の陰で目を伏せた。居合わせた場の意味を、遅れて悟った目だった。
回廊の奥、書架の陰で、年配の司書が、手にしていた書類を取り落としかけ、両手で口を覆った。彼女は一歩、こちらへ踏み出しかけ、そして身分差を思い出したのか、静かに書架の陰に退いた。隣の通路では、使用人らしい少年が、息を呑んで目を逸らした。
図書回廊の空気が、一瞬、凍った。
わたくしは、顔色を変えなかった。
ただ、手の中に、さっき書架に戻した歴史書の、革の温度がまだ残っているのを感じていた。
「理由は、三つ」
ガブリエルは、扇の先で、わたくしの前掛けの端を指した。そこには、乾きかけた糊のしみが、爪の先ほど残っていた。
「まず、その匂い。——君は、いつも図書館の匂いがする。革と、糊と、埃の匂いだ。宰相夫人に、ふさわしい香りではない」
令嬢の一人が、口元を扇で押さえて、くすりと笑った。
「次に、君の手だ」
ガブリエルの扇が、わたくしの右手の中指を指した。そこには、糸ダコがあった。麻糸を十年張り続けて、指の側面に寄った、固い小さな山だった。
「装丁師の手をした女を、夜会に伴うわけにはいかぬ。わたしには、わたしにふさわしい令嬢がいる」
令嬢たちが、軽くお辞儀をした。ガブリエルに『ふさわしい』彼女たち、のお辞儀だった。
「そして最後に」
ガブリエルは、扇を閉じた。
「本などというものは、書いた者が偉いのだ。書き残した思想、書き綴った詩——それが人類の宝だ。——綴じ手など、誰でもよかろう。糸と革の仕事は、下賤な職人の役目だ。そのような職を持つ娘を、宰相夫人にすることはできぬ」
午後の光が、わたくしの指先の糸ダコの上で、静かに震えていた。
わたくしは、一度、目を伏せた。
それから、顔を上げた。
「承知いたしましたわ」
それだけだった。
わたくしはガブリエルに向かって、深く、丁寧に、一礼した。
令嬢たちが、扇の向こうで、また笑った。
わたくしは背を向け、三冊の歴史書のほうに一度だけ目をやり、それから、回廊の奥へ歩き出した。歩幅を、一定に保った。
涙は、出なかった。
出す理由が、見当たらなかった。
夜明け前。アシュベリー伯爵家、奥の工房。
父コンラッドが、革張りの作業台の前に立っていた。
わたくしは、旅支度の麻のワンピースを着て、その前に立っていた。鞄は、ない。工具箱が一つ。それだけだった。
「フィオラ」
父の声は、低かった。
「どうしたい」
「辺境に参ります」
「誰を連れて」
「誰も」
「荷物は」
「——これだけ、持っていきます」
父の視線が、作業台の上に置かれた革張りの工具箱に落ちた。蓋を開ければ、中身は、すでに、整えられていた。
革用ナイフ、三本。骨箆、二本。糸通し、三本。麻糸の束、大小それぞれ三巻。蝋、一塊。金箔の帳、十二帖。見返し用の紙、十種。刻印具一式。——父が、夜通し、娘のために整えてくれた工具たちだった。
父は、工具箱の蓋を閉じた。金具が、かちり、と小さな音を立てた。
「フィオラ。——綴じ手の名前は、表には出ぬ」
「はい」
「だが、本の内側に、おまえの指の癖が残る。おまえが綴じた本は、おまえの本だ」
「——はい」
父は、わたくしの頭に、一度だけ、手を置いた。
「いってきなさい」
その手の温度を、わたくしは覚えた。
工房の裏口で、母アレナが、布に包んだ包みを差し出した。湯気の抜けかけたパンが二つと、蜂蜜の小瓶が一つ。
「わたくしの母が、昔、わたくしに言ったことを、一度だけ伝えておきます」
母は、わたくしの髪を、一度だけ撫でた。
「本は、書いた者のものだけではない。——綴じた者のものでもあります」
わたくしは頷いた。
振り返らなかった。振り返らないと、決めていた。
馬車は、七日かけて、辺境に向かった。
乗合いの交易便。供は、いない。わたくしは膝の上に工具箱を抱えたまま、窓の外を眺めていた。王都の城壁が、一日目の夕方、地平の向こうに沈んだ。他の乗客は振り返ったが、わたくしだけが、進行方向の窓を見ていた。
二日目の夜、宿屋の二階で、暗闇のなかに目を覚ました。
自分が、なぜ泣いていないのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、天井の梁を見上げたまま、指先で、膝の上の工具箱の蓋を、一度だけ撫でた。
——わたくしは、綴じる者ですわ。
それは、約束だった。誰に向けたものでもない、自分自身への、たった一つの約束。
眠れない夜のあいだに、記憶が、順番に開いていった。
四年前の春。王立図書館地下工房。
先王戴冠二十年を記念する戴冠記念誌、全十二冊。
表紙は、山羊革。蜂蜜色。金箔で押した王家紋章。
わたくしは、月単位で鞣された革を、手のひらの温度で確かめていた。柔らかすぎても堅すぎてもいけない。堅いと金箔が浮き、柔らかすぎると金文字が沈んで読めなくなる。
金箔押しの日は、朝から工房の窓を閉めきる。湿度を、息遣いで調節する。金箔は息で動く薄さだった。鼻で息をしないと、箔が舞う。
専用の刻印具を、蝋燭の火で温める。温度は、手の甲に当てて確かめる。熱すぎると革を焦がす。冷たすぎると金が定着しない。わたくしは、指の甲で温度を覚えた。
——そして、一秒。
革の上に刻印具を置き、体重を、指先の一点に集める。一秒だけ。
金が、革に、沈む。
それから、半拍待って、もう一度、同じ位置に置く。
——二度押し。
母アレナから教わった、異国式の技法だった。一度目で金を沈め、二度目で表面を磨く。この二度押しがあって初めて、金文字は、三十年、色を失わない。一度押しの金箔は、三年で酸化する。
工房長は、一度だけ、わたくしの肩越しに覗き込んで、低く言った。
「フィオラ。君の二度押しは、王都の誰にもできない」
わたくしは、金箔の帳から、新しい一枚を指先の息で持ち上げて、答えなかった。金箔を扱う間は、声を出してはいけないからだった。
三年前の夏。隣国リンシャールとの国交回復。
贈呈用歴史書、十二冊。
子牛革、深い緋色。表紙の紋章は、獅子と鷲を組み合わせた、両国の友好の紋。
糸綴じは、麻糸を蝋引きし、背の丸みに合わせて張力を決める。張りすぎれば、本を開いたときに背が割れる。緩すぎれば、数年で糸が伸びて、紙束が表紙から離れる。
わたくしは、糸を張りながら、背に当てた指の腹で、張力を量っていた。——十年分の張り。十年後に、この本がまだ開かれていること。それが、わたくしの設計だった。
見返し絵は、自分で描いた。
表紙の裏と、本文の間に挟む一枚の紙。アスティリアの獅子と、リンシャールの鷲が、互いの翼と鬣を絡ませて、円環を描く意匠だった。三日かけて下絵を起こし、七日かけて彩色した。
見返し絵の、翼と鬣の隙間。本文に差し掛かる直前の、誰も目を止めない余白に——わたくしは、親指大の金箔を、一枚だけ、押した。
大きさ、親指の爪ほど。
内容、わたくしの名前だけ。
——『F·IOLA』。
フィオラ。わたくしの名前。
これが、王家の本に残せる、わたくしの署名の全部だった。誰も見ない。誰も読まない。それでも、この金箔は、三十年、酸化しない。わたくしがそう綴じたからだった。
工房長に本を渡した日、彼はページを繰り、見返し絵の刻印を、指先で、一度だけなぞった。
「——おつとめ、ごくろうさま」
わたくしは、黙って、一礼した。
一年前の冬。王立図書館地下、貴重書庫。
石造りの地下室。温度は一定、湿度は五十に保たれている。書架は、鋼の枠で補強され、蔵書は、革装丁の背表紙を、きっちりと並べている。
わたくしは、修復台の前に座っていた。
台の上には、三十二冊の貴重書のうちの一冊。三百年前に書かれた『アスティリア王国初代創世記』の原本。革は脆く、糸は切れかけ、見返しには虫食いの穴が六つあった。
虫食いの補修は、紙の繊維の走る方向を確かめるところから始まる。破れ目の縁を、針先で拾い、同じ産地の紙を、同じ繊維方向に貼る。貼るときの糊は、自作の米糊に少量の膠を混ぜたもの。乾くと透明になり、元の紙の色を邪魔しない。
脆くなった革は、軟化油で揉み込む。古い羊毛の油と、蜜蝋と、少量のラヴェンダーの油を合わせた、母アレナの処方。月単位で、少しずつ、手のひらで温めながら、表面に擦り込む。
古い糊は、温めた湿布で段階的に剥がす。急ぐと、下の紙が一緒に剥がれる。わたくしは、一冊につき、三日かけて、糊を取った。
切れた糸は、元の綴じ穴を確かめ、同じ太さの麻糸を通し直す。背の丸みを、ゆっくりと、記憶させ直す。
修復記録の台帳が、工房の奥にあった。表紙は黒革、背に『修復記録』とだけ金箔で押してある。誰も開かない台帳だった。
わたくしは、その台帳の、各冊の欄に、小さな字で、自分の担当印を書いた。
——担当者:フィオラ・アシュベリー。
二十八冊、同じ名前。
残りの四冊は、他の職人の手を入れる必要があった。そう、わたくしは工房長に書き送り、他の三人の職人が分担した。三人の字は、わたくしよりも少し大きく、少し丸く、それぞれ違う癖があった。
台帳に書かれた、四人の字。
——それが、王立図書館の貴重書の、見えない地図だった。
七日目の夜、馬車は、辺境ブルケンハウの街道口で止まった。
窓を開けると、雪解けの匂いがした。麦の芽の匂い、少し甘い、濡れた石の匂い。
降りると、街道口に、灯りを一つ提げて立っている男がいた。
焦げ茶の髪を後ろで一つに束ね、革の前掛けをつけ、麻のシャツの袖を肘まで捲り上げていた。指先には、印刷の黒インクが、落ちきらずに残っていた。
「——フィオラ様でしょうか」
男の声は、低く、温かかった。
「ロエル・ブルケンハウと申します。この町の、印刷業組合長を務めております」
わたくしは、工具箱を持ち直し、一礼した。
「お迎え、ありがとうございます」
ロエル様は、わたくしの工具箱を一度だけ見て、目を細めた。
「——以前、王都からの交易便で、お隣の席を頂戴したことがございます」
「……と、おっしゃいますと」
「一年と少し前の冬でございます。王都で装丁の展覧を観た帰りでした。ご迷惑にならぬようご挨拶しそびれましたが、お持ちになっていた工具箱と、指の動きで、すぐにわかりました。——このかたが、あの戴冠記念誌を綴じたかただ、と」
わたくしは、目を伏せた。
見ている人が、——一人、いたのだった。
表紙に名前の出ない者を、それでも見ていた人が。
わたくしは、工具箱の持ち手を握り直した。
「どうぞ、工房へ」
ロエル様が、一歩、横にずれた。
「二階に、小さな部屋がございます。——お気に召せば」
ブルケンハウの町の、その夜が、わたくしの新しい最初の夜になった。
辺境の春は、早い。
工房の二階。東向きの窓から、朝、薄い金色の光が差す。わたくしは、作業机を窓のそばに置いた。机の上には、革用ナイフ、骨箆、糸通し、麻糸、蝋、金箔の帳。王都から持ってきた工具と、ロエル様が町の鍛冶屋に頼んで作ってくれた、新しい刻印具が並んでいた。
階下からは、活版印刷機の、規則正しい音が、朝から夜まで聞こえていた。
ロエル様の印刷工房は、教会の聖典抜粋と、近隣貴族の名簿、町の婚姻録と、子供用の絵本を主に刷っていた。刷り上がった紙束は、これまで、王都の装丁工房へ馬車で送られていた。運賃と装丁費で、一冊の原価が、三倍になっていた。
「フィオラ様」
ロエル様は、工房を開いて三日目の朝、刷り上がった紙束を二階に運んできた。
「こちらの聖典抜粋を、——綴じていただけますでしょうか」
五十部。子牛革、赤茶色。
わたくしは、工具を並べ、糸を蝋引きし、背の寸法を測り、表紙の型を抜いた。
七日で、五十部が仕上がった。
ロエル様は、一冊を手に取り、開き、閉じ、そして、もう一度開いた。
「——五日は考えていました。七日で、想像より綺麗に」
彼は、そこで、短く笑った。——初めて、笑ったところを見た。
「これで、うちの町でも、印刷から装丁まで、——仕上がります」
ブルケンハウの町の女たちが、次々と工房に上がってくるようになった。
最初は、一人の母親だった。
「先生、うちの子が、この絵本を、開きすぎて……」
差し出された絵本は、表紙が取れかけていた。糸が一本、背から飛び出している。わたくしは受け取り、糸の端を指先で確かめ、背の傷みを見た。
「三日、お預かりいたしますわ」
三日後、絵本は、元の厚みに戻った。
子供が、目を丸くした。
「先生、おなじだ」
「はい。前と、おなじですの」
「先生、あたらしいみたい」
「いいえ。——同じ絵本です。ただ、糸を、新しいものに替えましたの」
子供は、絵本を抱きしめて、母親に連れられて帰っていった。
翌日、別の母親が、別の絵本を持ってきた。その翌日、三人の母親が、五冊の絵本を持ってきた。——一週間で、工房の机の下に、修理待ちの絵本の山が、小さく積まれるようになった。
わたくしは、絵本の一冊ずつに、糸の癖と、表紙の傷みと、持ち主の子供の癖を、覚えていった。開きかたの荒い子、優しく扱う子、寝る前に抱えて眠る子。絵本の背の丸みに、それぞれの手の持ち主の形が、うっすらと残っていた。わたくしは、その丸みを、消さずに、糸だけ、張り直した。絵本は、前のかたちのまま、しかし、新しく、子供の手に戻った。
ブルケンハウの町で、わたくしの工房は、少しずつ、「本の直る場所」として、名前が出るようになった。
初冬の朝、若い詩人が、工房の階段を上がってきた。
南の町から七日かけて来た、と彼は言った。年は二十歳ほど、痩せていて、肩に革の鞄を提げていた。鞄の中には、亡くなった師匠の遺稿が、紐で束ねられて入っていた。
「フィオラ様。——師の遺稿を、本にしていただきたいのです」
彼は、紙束を、両手で差し出した。
湿気で波打ち、糸は一本もなく、墨は滲みかけていた。
わたくしは、紙束を受け取り、一枚ずつ、匂いを確かめた。南の海の塩の匂いと、墨の油の匂いが混ざっていた。紙の繊維は、上質な亜麻だった。
「——良い紙を、お使いでございますね」
「師は、書くことにしか銀貨を使わなかったのです」
「使わせていただく革を、ご相談しましょう」
わたくしは、ブルケンハウの革商から、深い紺の子牛革を取り寄せた。表紙は、紺、見返しは、白い麻紙。扉には、詩人の師匠の名前を、小さく、金箔で押す。
「先生」
詩人は、十日目の朝、仕上がった本を両手で抱えて、工房の階段に膝をついた。
「師の名前が、ここに、残ります」
彼は、扉の金箔を、指で、一度だけなぞった。
涙が、金箔の上に、一滴、落ちた。わたくしは、ひそかに布をさしだした。
詩人は、本を胸に抱きしめて、帰っていった。
彼が工房の階段を降りる音を、わたくしは、ロエル様と並んで、窓辺で聞いていた。
ロエル様は、何も言わなかった。
ただ、わたくしの指先に、温かい茶の湯気が届く位置に、陶器の茶碗を、静かに置いた。
「——手が冷えていらっしゃいますから」
「ありがとうございます」
「金箔は、指が冷えると、うまく動きませんから」
仕事の理由で、触れていた。——それが、彼のやりかただった。
冬の終わりに、町の大きな商家シュタインリヒ家から、家系図の装丁依頼が来た。
五代、七枚の羊皮紙、紋章二十一個、家族の肖像画の縮小版が三十六枚。
わたくしは、羊皮紙の厚みに合わせて背の丸みを設計し、赤い山羊革で包み、紋章二十一個を、金箔で、一つずつ押した。
三ヶ月かかった。
完成した日、商家の主人が、妻と三人の息子を連れて、工房の階段を上がってきた。
主人は、家系図を両手で開き、革の匂いを嗅ぎ、紋章を一つ一つ指先でなぞり、そして、窓の外を見た。窓の下で、町の人たちが、十数人、工房を見上げていた。
「——これは」
主人は、妻に向かって言った。
「うちの町で、初めて、うちの町で仕上がった、本ですな」
そのあいだに、ロエル様との距離は、糸の張りのように、少しずつ変わっていった。
夜、活版印刷機の音が止まると、彼は、階下から温かいスープを運んできた。
並んで糸を張る夜があった。彼の結び目の癖を、わたくしは覚えた。わたくしの結び目の癖を、彼も覚えた。
わたくしの指が冷えていた夜、彼は、自分の手で、わたくしの手を、一度だけ包んだ。
「——金箔が、うまく動きませんから」
仕事の理由で、触れた。
翌朝から、工房の机の端には、いつも、温められた茶が置かれていた。
王都から、辺境ブルケンハウに、噂が届く日もあった。
——あの令嬢、辺境で男と同棲しているそうだ。——書籍商の娘が、結局は職人の家に落ち着いたか。
町の女たちは、笑い飛ばした。
「噂なんざ、紙みてえなもんでなあ、先生。うちの町じゃ、先生の手さえあればいい」
わたくしは、一礼した。
春が、戻ってきた。
工房の窓の下で、桜の花が、薄い桃色の塊を枝の先に作り始めた朝のことだった。
ロエル様が、階段を上がってくる足音が、いつもより重かった。
彼は、封蝋のついた手紙を一通、両手で持っていた。
「——宰相府から、でございます」
紺色の封蝋。差出人の名は、ガブリエル・ミルドハーバー。
わたくしは、手にしていた麻糸の蝋引きを、机の上に静かに置いた。
糸が、机の端で、ゆるく一度、転がった。
ロエル様が、わたくしの隣に立った。
距離は、半歩。
わたくしは、封を切った。
『フィオラ・アシュベリー殿。
王都の春は、今年も庭園の桜が盛りである。
貴殿にお願いがある。王立図書館の貴重書が次々と崩壊し、隣国への親書に添えた歴史書も表紙が剥がれた。王家認定工房三軒、いずれも『修復できる者は一人しかおらぬ』と申す。その一人は、——貴殿だ。
かつての非礼は詫びる。戻ってきていただきたい。報酬は、言い値で用意する。王家の名誉がかかっている。一刻も早く、王都へお越しいただきたい。
——ガブリエル・ミルドハーバー』
わたくしは、一度、目を伏せた。
手紙の文字は、書き慣れていない人の、震えた筆跡だった。インクが、ところどころ、滲んでいた。
ロエル様は、隣で、黙って立っていた。
わたくしは、手紙を折り畳み、暖炉の前まで、三歩、歩いた。
振り返り、ロエル様を見た。
「——本は」
自分の声が、思ったより静かだった。
「綴じる者がいなければ、ただの紙束ですわ」
ロエル様は、頷いた。
「はい」
わたくしは、手紙を、暖炉の火の中に、ふわりと、落とした。
紙が赤く縮み、金の封蝋が、一瞬だけ、溶けて消えた。
「——お代金が、合いませんわ」
ロエル様は、わたくしの隣に、もう半歩、近づいた。
「——合いませんか」
「お金の話では、ございませんの」
わたくしは、暖炉の前で、火の赤を見つめた。
「礼儀の話です」
ロエル様は、何も言わず、ただ、わたくしの指先に、茶碗を置いた。
新しく淹れた、温かいお茶だった。
「ありがとうございます」
「——お茶を、淹れておきました」
工房の外では、桜の花が、風で少し揺れた。
王都では、同じ春の日、宰相府の執務室で、ミルドハーバー侯爵が、王の前で深く一礼していた。
王は、机の上の歴史書を、じっと見ていた。表紙は、もう一度貼り直されたが、糸は切れかけ、金箔は滲み、見返し絵の翼と鬣は、ところどころ破けていた。
「辺境の工房は」
王の声は、低く、疲れていた。
「参じぬか」
「——は」
宰相は、額を絨毯に近づけた。
「参じぬそうで、ございます」
「理由は」
「……『礼儀の話』、だと」
王は、目を閉じた。
窓の外で、庭園の桜が盛りだった。
一分間、王も宰相も、口を開かなかった。
扉の向こうから、誰かが走ってくる足音が聞こえた。王立図書館からの、新しい使者だった。
「陛下」
使者は、息を切らしていた。
「地下貴重書庫、本日、——七冊、落ちました。背が持ちません」
王は、目を、開かなかった。
同じ日の朝、王立図書館の地下貴重書庫で、司書長は、ガブリエルの袖を引いて、書架の前に立たせていた。
「宰相子息様。——ご覧くださいませ」
書架の前の石畳には、革表紙から解けた紙束が、いく組か、無造作に積まれていた。背の糸は、どれも、中ほどで切れていた。切り口は、鋭くはなく、疲労で断ち切られた、繊維の崩れた切り口だった。
司書長は、一冊を手に取り、背を、ガブリエルの目の前で、ゆっくりと開いた。
「こちらは、三百年前の『アスティリア王国初代創世記』原本でございます。——一年前、フィオラ様が、三日かけて糊を取り、月単位で革を柔らかくし、元の綴じ穴に麻糸を通し直しました」
ガブリエルは、何も言えなかった。
「本日、落ちたのは——フィオラ様が修復した二十八冊のうち、修復から一年以内の四冊です。四冊とも、糸の張力が違う。——同じ手で張り直さなければ、直りません」
「……他の職人には、無理なのか」
「王家認定工房の三軒に、昨晩から使いを出しております。返事は、三軒とも、同じ一行でございました」
司書長は、手紙の束から、三通を引き抜いた。
「『修復できる者は、一人しか、おりません』」
「……一人」
「フィオラ・アシュベリー様、でございます」
ガブリエルの指先が、冷たくなった。
彼は、一度だけ、書架の背に指を当てた。並んだ背表紙は、一見、整然と立っている。だが、近寄ると、その半分は、背が、ほんの少し、浮いていた。糸が、疲れ始めていた。あと数ヶ月で、一冊、また一冊と、崩れる気配だった。
司書長は、手紙を束に戻し、静かに続けた。
「——戴冠記念誌、全十二冊でございますが」
「うむ」
「金文字が、全冊、酸化しております。表面の金が、黒く滲み、下の革まで、染み始めております。三十年保つはずの金箔が、——四年で、このように、なっております」
「……なぜだ」
「二度押し、でございます」
「二度押し」
「金箔を、一度ではなく、二度、同じ位置に押す技法でございます。王都の職人で、それができる者は、フィオラ様ただ一人でございました」
ガブリエルは、戴冠記念誌の一冊を、両手で、受け取った。開いた表紙の、金の紋章の上に、薄く、黒い縁取りのようなものが、浮かんでいた。酸化。フィオラが、母アレナから教わった技法で、初めて防ぐことができたもの。
ガブリエルは、黒くなった金文字を、指先で、そっと触った。
——指先の、腹の、柔らかい場所で。
金の粉が、わずかに、指に付いた。
その粉は、風で吹けば、二度と、同じ位置には戻らない種類の、失われ方だった。
同じ日の午後、宰相府の別室で、ガブリエルは、父に向かって座っていた。
侯爵は、息子の前に、王立図書館の修復記録台帳を、重い音を立てて置いた。
「読め」
ガブリエルは、革表紙を開いた。
各冊の担当者の欄に、同じ字が、整った小さな字で、並んでいた。
——フィオラ・アシュベリー。
二十八冊、同じ名前。
残りの四冊は、他の三人の職人の字。
ガブリエルの指が、台帳の角で、止まった。
「父上——」
「貴様は、何を、見てきたのだ」
侯爵の声は、低く、静かだった。
「二十八冊、同じ字だ。貴様が『誰でもよい』と言い捨てた手が、王家の貴重書の、八割を、直していたのだ」
「……私は、知らなかった」
「それが、罪だ」
ガブリエルは、台帳の上に、指を落としたまま、動けなかった。
紙の乾いた音が、執務室に、静かに、残った。
ブルケンハウの工房。夕暮れ。
桜の花びらが、窓の外で、一枚、二枚、と揺れて落ちていた。
わたくしは、机に向かって、一冊の本を、綴じ終えたところだった。
ブルケンハウの町役場から依頼された、町の婚姻録。全十二年分。表紙は、薄茶の山羊革。背には、金箔で、町の紋章——麦の穂と印刷機の歯車を組み合わせた意匠——が、押してあった。
階下から、ロエル様が、上がってきた。
彼の手には、一冊の本があった。
見たことのない、本だった。
「——フィオラ様」
彼は、机の前で立ち止まった。
「これを、お納めいただけないでしょうか」
本を、差し出した。
深い青の子牛革。銀糸の綴じ。背は丸く、糸の張りは、——わたくしが教えた張りだった。彼が、綴じたのだ。
わたくしは、受け取った。
見返しを、開いた。
見返しには、活版印刷で、二行、名前が刷ってあった。
——ロエル・ブルケンハウ
——フィオラ・アシュベリー
扉を、開いた。
扉の中央に、金箔が、一行、押してあった。
——『綴じ手の名前は、ここに残る』
わたくしは、一度、目を伏せた。
頬に、温かいものが、一滴、伝った。
涙が落ちたのは、半年ぶりだった。安堵の、温度だった。
「——この本の、著者は」
わたくしは、目を伏せたまま、聞いた。
「二人、です」
「綴じ手は」
ロエル様が、わたくしの前で、片膝をついた。
彼の指先には、印刷の黒インクと、金箔のかすかな金が、混じっていた。
「——あなたに、お願いしてもよろしいでしょうか」
わたくしは、顔を上げた。
「フィオラ様。——この本を、わたしたちの名前で、もう一冊、お作りいたしませんか」
わたくしは、笑った。
自分の顔が、笑っていることに、初めて気がついた。
「——お喜びで」
ロエル様は、片膝をついたまま、わたくしの手を、一度だけ、握った。
指は、温かかった。金箔が、うまく動く温度だった。
王都では、今も、本が崩れ続けているらしい。
戴冠記念誌の金文字は、今日も、滲んでいる。地下貴重書庫では、毎日一冊、本が棚から落ちている。王家認定工房の三軒は、いずれも『修復できる者は、一人しかおらぬ』と言い続けている。その一人は、王都には、もういない。
わたくしは、窓の外の桜を、一度だけ、見た。
それから、机の上の、新しい紙束に、指を置いた。
ロエル様が刷り上げたばかりの、町の教会の聖典抜粋。五十部。子牛革、赤茶色。
——綴じ手の名前は、ここに残る。
わたくしは、麻糸を、蝋に浸した。
振り返らない。
前だけ、綴じていきますの。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「Tier S 裏方型 × 発覚型」のざまぁです。本は、書いた人の仕事だと思われています。綴じた人は、表紙に名前が出ません。でも、書かれた紙を綴じる者がいなければ、本はただの紙束のままです。フィオラが最後に言う一言は、そのまま、この物語のテーマでした。
「装丁師」という仕事を調べていて、驚いたことがありました。国宝級の本の修復記録には、担当者の名前が書かれているのに、一般には出ない、という事実です。書いた人は称賛され、綴じた人は忘れられる。それは装丁に限らず、編集者も、校正者も、翻訳者も、印刷工も、製紙職人も——「本ができるまで」に関わる、全ての見えない手に起きていることでした。この物語は、表紙に名前が出ない人たち全員へ、歩人から、静かに捧げる一冊です。
ガブリエルに「すまなかった」の一言がないところが、この作品の骨格です。彼は、手紙で「かつての非礼は詫びる」と書きますが、非礼の中身は書きません。何を蔑ろにしたのか、彼は最後まで、正確には理解していないのです。認めることと、謝ることは、違う——認めただけの人を許してしまうと、同じことが、別の誰かの手にも起こります。
フィオラは、紙を暖炉にくべます。燃えるのは紙ですが、同時に、「王都に戻る」という選択肢も、彼女の中で、一度、灰になります。代わりに残ったのは、ロエルが差し出した一冊の本と、「綴じ手の名前は、ここに残る」の一行でした。表紙に出ない名前が、扉の内側に、金箔で、静かに押される。それで、十分なのです。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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・『お前の針仕事など誰でもできる』——なら社交界のドレスの裏地を、めくってごらんなさい
・婚約破棄された回数、五回。すべて同じ令嬢の策略だったと気づいたとき、王国の貴公子たちはもう手遅れだった
・「お前は妹の身代わりにすぎなかった」と捨てられた養女——でも領民が選んだのは、血の繋がらない姉の方だった
・「存じ上げませんが、どちら様ですか?」——忘れることが、最も残酷な復讐になった
・「僕たちはフィオナ先生を選びます」——書き置きを残して、公爵家の子供が全員いなくなった朝
・「毒が効かない体になるまで毒を盛られた令嬢は、復讐なんて望まない——ただ、助けもしないだけ」
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