3兆円のその先に、俺は何も持っていないと気付く
数ヶ月後。
神崎レイナの会社は――
“世界”に名を刻んでいた。
「今期利益、過去最高を更新しました」
「海外ファンドが追随できていません」
「為替市場にも影響が出ています」
報告が飛び交う。
だが。
その中心にいる男は。
「……えっと、これでいいんですか?」
相変わらずだった。
⸻
ジュンヤのトレードは、もはや異常ではなかった。
“現象”だった。
再現性のある奇跡。
神崎は、隣でモニターを見つめる。
(全部……教わった通り)
タイミング。
リスクの取り方。
そして。
“考えないこと”。
「……入ります」
クリック。
市場が動く。
それを見て、誰かが呟いた。
「まただ……」
⸻
夜。
オフィスは静まり返っていた。
神崎は、一人で残っていた。
机の上には、膨大なデータ。
だが。
見ているのは、そこじゃない。
「……いない」
ジュンヤの席。
空っぽ。
最近、増えていた。
ふといなくなる時間が。
⸻
その頃。
ジュンヤは、部屋にいた。
静かな部屋。
スマホが光る。
――ピロン。
『ようやったな』
「……ありがとうございます」
少しだけ、疲れた声。
『世界相手に勝つとはのう』
「勝ったっていうか……」
天井を見る。
「なんか、流れに乗っただけです」
『それが出来る者が、どれだけおると思う』
⸻
少しの沈黙。
そして。
『で』
秀吉の声が、少し変わる。
『何を悩んでおる』
「……」
ジュンヤは、目を閉じる。
「……分かります?」
『分からんと思うか?』
小さく、笑う気配。
⸻
「……俺」
言葉を選ぶ。
「多分、人として足りてないです」
『ほう』
「お金は、もうどうでもよくて」
正直な声。
「でも……それ以外が」
言葉が止まる。
⸻
『女のことか』
「……はい」
否定しない。
もう。
誤魔化さない。
⸻
「神崎さん……いい人なんです」
小さく言う。
「強いし、優しいし……ちゃんとしてるし」
『うむ』
「でも俺」
手を見る。
細い。
子供みたいな手。
「身体も、ちゃんとしてなくて」
『……』
「たぶん……普通に付き合っても」
声が少し震える。
「満足させられないです」
静寂。
⸻
『それで、逃げるか』
「逃げるっていうか……」
「壊したくないんです」
正直な本音。
「今のままの方が、きっと……」
言い切れない。
⸻
しばらく、沈黙。
そして。
『アホじゃな』
「……え?」
予想外の一言。
⸻
『おぬし、何を基準に“満足”を決めとる』
「え……」
『身体か?金か?』
「……」
『そんなもので決まるなら、世の中の夫婦は全て幸せじゃ』
言葉が、刺さる。
⸻
「でも……」
ジュンヤは、絞り出す。
「それでも、俺は」
『怖いだけじゃろう』
「……」
言い返せない。
⸻
『まあよい』
秀吉の声が、少し柔らぐ。
『選ぶのはおぬしじゃ』
「……はい」
『ただし一つ』
「はい」
『後悔する方を選べ』
「……え?」
⸻
『どちらを選んでも後悔する』
断言。
『ならば、より強く後悔する方を選べ』
静かに。
「それが、人の生き方じゃ」
⸻
通信が切れる。
部屋に、静寂が戻る。
⸻
翌日。
オフィス。
「おはようございます」
ジュンヤは、いつも通りだった。
神崎は、少しだけ安心する。
(……よかった)
だが。
何かが違う。
空気が。
⸻
「神崎さん」
「はい」
「少し、いいですか」
真面目な声。
初めてだった。
こんなトーン。
⸻
会議室。
二人きり。
「……どうしました?」
神崎が聞く。
少しだけ、不安。
⸻
「俺、辞めます」
「……え?」
理解が、追いつかない。
「もう、ここには来ません」
「ちょっと待ってください」
立ち上がる。
「なんでですか」
「やること、終わったので」
「終わってません!」
即答。
「まだこれから――」
「神崎さん」
遮られる。
優しく。
でも、強く。
⸻
「全部、もうできるじゃないですか」
言葉が、詰まる。
確かに。
できる。
彼に教わったことは、全部。
⸻
「だから、大丈夫です」
笑う。
いつもの、少し頼りない笑顔。
⸻
「……私じゃダメなんですか」
気づいたら、言っていた。
止められなかった。
⸻
ジュンヤは、少しだけ驚く。
そして。
目を逸らした。
「……ダメじゃないです」
「じゃあなんで!」
声が、震える。
⸻
「……俺が、ダメなんです」
静かに。
⸻
「ちゃんとした人じゃないから」
「何言ってるんですか」
「ちゃんと、できないから」
何を、とは言わない。
でも。
分かってしまう。
⸻
神崎は、数秒黙った。
そして。
「……そんなの」
一歩、近づく。
「関係ないです」
はっきりと。
⸻
ジュンヤは、笑った。
少しだけ、寂しそうに。
「関係あります」
⸻
沈黙。
重い沈黙。
⸻
「……さよならです」
その一言で。
全部、終わった。
⸻
ジュンヤは、振り返らなかった。
⸻
神崎は、立ち尽くす。
追えない。
足が、動かない。
⸻
(……なんで)
涙が、落ちる。
初めてだった。
こんな感情。
⸻
「……バカ」
小さく呟く。
⸻
だが。
その目は、まだ折れていなかった。
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