思い出になるたまご
高校生の頃まで、お弁当には必ず卵焼きが入っていた。出汁巻きではない、甘い卵焼きだ。学校に持っていく時にも、遠足の時も部活の練習や試合の時も、いつだってそこには母のお手製の卵焼きがあった。
宿泊した旅館の朝食。仕出しの弁当。料理が面倒で駆けこんだお弁当屋さんののり弁。そこにはやはり卵焼きがある。「ちょっと甘すぎるかな」「出汁が効いてるな」感想はいくらでも出てくる。しかし、そんな時、無意識に味の比較をしてしまう。その基準は幼い頃から口にしていた、お弁当にあったあの卵焼きなのだ。
その卵焼きはお弁当の時にだけ舌鼓を打つことができて、朝食にも夕食にも出たことはなかったが、食卓に出た卵料理で忘れられないものがある。
小学生の頃、夕食に一年に一回ほど生ラーメンが食卓に出た。インスタントラーメンやカップの麺は珍しくなかったのだが、それは、なぜか頻繁に食べられるものではなかった。それを買うならラーメン屋に行くというのも理由だったかもしれないし、親の懐具合だったのか、栄養の面なのか、それを知るのは無理だったわけだが、いずれにせよ、そのラーメンのことを覚えている理由はこうだ。具がないのだ。わかめもメンマもネギもチャーシューも。しかし、これだけがあった。沸いたスープに入れた、ふわふわになった溶き卵が。これがまた幼少の私にとっては絶品だった。ラーメン屋とも、インスタントも違う味のラーメンだった。
卵焼きも溶き卵ラーメンも、自分で何度も作ってみても、それらしい味にはなるが、どこか物足りなさを感じる。ただ単に甘いだけではない、冷たくなっても「おいしい!」と声を弾ませたあの卵焼きの味を、スープのしょっぱさを和らげてくれる柔らかなとろみ感を私は作ることができない。それを作ってくれた人がもうこの世にはいないから、遠い記憶が美化されているのかもしれない。
そんなことを思っていてふと気が付いたことがある。卵はメイン料理となる上に、つなぎになったり、卵黄だけあるいは卵白だけが使われたりと黒子としても活躍していて、卵を摂らない日は無いと言ってもいいだろう。それだけでなく、卵を使った料理は、記憶は薄れたとしても、おいしかったということを決して忘れさせるようなことはしない。単に生化学的・栄養学的な働きだけでなく、心に思い出として残り続ける、そんな力が卵にはある気がしてならない。




