夏ホラー第十一弾『楽園の虹』
あの日、あの時、あの場所で見た世界一美しい空のことは、一生忘れない。
いや、忘れたくても忘れられないと言ったほうが正しいのだろうか。心に焼きついて離れないあの光景は、まるで瞼の裏に永遠に刻印されたようで、今も目を閉じるたび、鮮明に蘇ってしまうのだ。
なぜなら、それは今までに見たこともないほど美しく、そして同時に恐ろしく、私と友人たちの運命を狂わせる引き金となったものだったからだ。あの時の光景を思い出すたびに、胸の奥底に冷たい水が流れ込むような戦慄が走る。あれは楽園の幻影であり、死の予告であり、何より悪魔が私たちの魂と引き換えに差し出した最後の贈り物だったのかもしれない。
その空は、ただ青く澄んでいたわけではなかった。大地を焼き尽くした閃光の後に立ちのぼった水蒸気と爆煙が、虹のような弧を幾重にも描き、空全体を覆っていたのだ。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫──数えきれぬほどの色彩が幾千もの帯を描き、光の洪水となって私たちを呑み込んだ。海から立ち上がった無数の水の粒が光を屈折させ、天空に広がる巨大な絵巻を織りなしていた。
けれど、その美は純粋なものではなかった。眩い虹の一筋一筋の裏には、熱と放射の毒が潜み、やがて私たちの体を蝕んでいく運命を秘めていた。美しいほどに恐ろしい。恐ろしいほどに抗えない。見上げる私たちは、ただ呆然と立ち尽くし、心の奥底で理解していた──これは祝福の光ではなく、呪いの光なのだと。
それでも、あの時、誰もが声を失い、涙を浮かべ、空を仰ぎ続けた。目に焼きつけなければならないと、なぜか思ってしまった。あれは奇跡の瞬間ではなく、悪魔との契約を証明する最後の印だから。
■
1954年当時の私は、潮風に焼かれた肌と海の匂いをまとった、ただの若者にすぎなかった。サンタモニカの浜辺は私たちの庭であり、波と戯れることこそが生きる意味だった。朝から晩まで友人のマーカスやトムとボードを抱え、白い波に身を投げ、笑い、転び、また立ち上がる──それが日々のすべてだった。
だが、その夏の終わり、海の匂いの中に異質なものが紛れ込んだ。砂浜を歩く一人の白人の男。半パンツに皺だらけのシャツという気取らない格好だったが、その目の奥には浜辺の陽光とはかけ離れた冷たい光が潜んでいた。
「兄ちゃんたち、楽な仕事してみないか?」
唐突な声かけに、私たちは互いに顔を見合わせた。波の音と混じり合うその響きは、不思議と胸に引っかかるものを含んでいた。
「楽な仕事ってなんだよ? ヤクの運び屋だったらお断りだぜ!」
一番血気盛んなマーカスが、日焼けした肩を揺らしながら一歩前に出た。彼の声は強気だったが、その背後で海風が止まったように思えた。
男はにやりと笑い、歯の間から低く響く声を漏らした。
「そんな危ない話こんなとこでするもんかい。ちょっとした軽作業するだけで、ヤクの密売くらい高給を貰えるっておいしい話なんだけどな……」
その口調は軽やかで、まるで波に浮かぶ漂流物のように無害に聞こえた。しかし私は、その瞳が笑っていないことに気づいてしまった。まるで深海の闇を覗き込むような、光を拒んだ眼差しだった。
「まぁ、話だけでも聞いても損はないと思うよ、兄ちゃんたち。立ち話もなんだから、そこのレストハウスにでも行って、うまいもん食いながらでも、おじさんの話を詳しく聞いてみないかい。もちろん飯代はおじさんが派手に奢るよ」
胸を叩きながら誘う男。マーカスとトムはその調子に乗せられたように笑い、もう半分は心を奪われていた。
「おっさん、奢ってくれるのだったら、話だけでも聞くぜ!」
お調子者のトムが、待ちきれないとばかりに答えた。砂に落ちた貝殻を拾うように、簡単に。
「じゃあ、兄ちゃんたち。うまいもんでも食いに行くか」
男の声に重なるように、海の波が静かに崩れた。マーカスとトムは、砂に足跡を残しながら男と並んで歩き出した。私は胸の奥に小さな違和感を抱え、足を止めたまま三人の背中を見つめていた。海は相変わらず美しく、潮の匂いも変わらない。だが、陽光の下で煌めく波は、なぜか不気味な笑い声をあげているように思えた。
「ロバート早く来いよ! お前の分まで食っちまうぞ!」
マーカスの叫び声に我に返った。砂に足を取られながら、小走りで仲間たちに駆け寄る。浜辺の先に待っているのが、楽園か、それとも地獄か。その時の私は、まだ知る由もなかった。
■
レストハウスに足を踏み入れた瞬間、冷房のひやりとした空気と、肉の焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐった。窓から差し込む西日のオレンジ色の光が、木製のテーブルに柔らかく反射し、賑やかな店内には笑い声とグラスのぶつかる音が混じり合っていた。
「兄ちゃんたち、まずはビールで乾杯としようじゃないか」
男は慣れた調子でウェイトレスに合図を送った。現れたのは金髪で小麦色の肌をした若い女性。水着姿のまま軽やかに歩み寄り、大きなジョッキに並々と注がれた黄金色の液体を私たちの前に置いた。琥珀の中で泡が生き物のように踊っている。
私たちはそれぞれジョッキを手に取り、男の掛け声で乾杯した。
「運命的な今日の出会いを祝して……」
カチン、と軽い音がテーブルに広がった。苦味と冷たさが喉を通り抜けると、私たちの頬はすぐに赤らみ、心地よい酩酊が広がっていく。直後にテーブルに並んだのは、鉄板の上でじゅうじゅう音を立てる分厚いステーキだった。肉の表面には焦げ目がつき、漂う香りだけで胃が鳴った。
「遠慮なく食べてくれ」
促されるまま、私たちはがっつくように肉を切り裂き、口いっぱいに詰め込んだ。噛むほどに肉汁があふれ、ビールがそれを流し込む。空腹だったこともあり、箸もナイフも止まらなかった。
男は腕を組み、にこにこと私たちの食べっぷりを眺めていた。そして、空になったジョッキを見るたびに「さぁ、飲んで、飲んで」と言っては、次々にビールを追加注文した。グラスの数はいつしかテーブルの隅に小さな山を築き、私たちの頭は霞がかったように重くなっていった。
不思議なことに、男は肝心の仕事の話をなかなか切り出さなかった。ただ、飲ませ、食べさせ、酔わせるばかり。やがて、ほろ酔いの心地よさが油断に変わり始めた頃、男はようやく真顔になり、言葉を落とした。
「君たちは、愛国心ってものがあるかい?」
突如として投げかけられた言葉に、私たちは一瞬耳を疑った。最初に口を開いたのは、酔いが最も回っていたマーカスだ。
「はぁ? なに言い出すんだよ、おっさん!」
彼は不機嫌そうに声を荒げたが、男は構わず言葉を続けた。声は低く、しかし不思議な力を持っていた。
「実は、おじさんの話す仕事ってのは、国のためになることなんだ。それも、ただの仕事じゃない。海外にも行けるし、給料も桁違いだ」
「海外に行けるって、本当か?」
トムが目を輝かせた。男は待っていたように頷く。
「ああ、本当さ。南の楽園での仕事だ。休日は海でサーフィンし放題だよ」
その言葉に、私の胸も一瞬だけ高鳴った。だが、男はすぐに核心を明かそうとはせず、焦らすように言葉を区切った。
「で……その楽園での仕事って具体的に何するんだよ?」
思わず私が苛立ち気味に問い詰めた。
「穴を掘るんだよ。壕をな。簡単な作業だろう? 半日もかからないさ。それで月に500ドルだ」
その金額は、当時の若者には夢のようだった。マーカスでさえ目を細め、疑う声を抑えきれなかった。
「本当に穴堀りだけでそんなに貰えるのか?」
「もちろんだとも」
男は大げさに頷き、懐から一枚の紙を取り出した。契約書だった。いつの間にかテーブルの上に広げられている。さらに男は声を潜めて囁いた。
「もし今すぐにサインしてくれたら、特別に100ドルを支度金として渡そう。新しいサーフボードを買ってもお釣りがくるだろう?」
目の前の紙幣の束が、現実の重みを帯びて視界を支配した。私たちは互いに顔を見合わせ、理性よりも欲望に突き動かされるように、名前を書き込んでしまった。
「君たちが聞き分けがよくて助かったよ」
男は笑みを深め、私たちのサインの横に新札を置いた。そして、名刺を一枚、音を立ててテーブルに置いた。
「申し遅れたが、おじさんはここで働いている」
名刺には『国防総省』の文字と、翼を広げた鷲の紋章が刻まれていた。その鷲の眼差しは、肉よりも酒よりも強く、私たちの心を捕らえて離さなかった。
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サンタモニカの浜辺であの男と出会ってから三ヶ月。私たちはもう、陽気なサーファーではなかった。マーシャル諸島へ向かう巨大な空母の甲板の上、灼けつく日差しの下に並ばされていた。エンジンの轟音が鉄の床を震わせ、潮風は油の匂いと混じり合って鼻を刺した。
目的地は、ビキニ環礁。そこで「新型爆弾の投下実験」が行われるという。軍人たちはそれを「キャッスル作戦」と呼び、大げさな響きに誇りを込めていた。しかし、私たち下っ端には詳細は一切知らされず、ただ「歴史の目撃者になる」と言い含められるばかりだった。
上官に問いただしても返ってくるのは決まり文句だ。
「お前たちは英雄になるためにここに来たんだ。ただ静かに見届ければいい」
そんな言葉に実感など湧くはずがなかった。私たちの目を奪っていたのは、空母の下に広がるエメラルドグリーンの海だった。光を弾く波、群れをなして跳ねる魚影、時折姿を現すイルカの群れ──それらの方がよほど現実で、魅力的で、私たちを夢中にさせた。正直に言えば、爆弾などどうでもよかった。ただあの海でサーフィンをしたい、その思いだけが胸を占めていたのだ。
軍に入れられたときは、あの男に騙されたと悔やんだ。だが、実際は不思議なほど楽だった。仕事らしい仕事はほとんどなく、それなのに給金は町で働くより何倍も多い。怠惰と贅沢が、罪悪感よりも勝っていた。
ある日、そんな退屈で甘美な日々に変化が訪れた。上官に呼び出され、整列させられた私たちに告げられたのは初めての「任務」だった。
「明日、諸君は揚陸船に乗ってビキニ島へ行く。そこで投下実験に備えて壕を掘り、待機するのだ。実験は三日後に行われる。仕事が早く終われば、残りの日は休暇にして構わん」
その言葉に、私と仲間たちは思わず顔を見合わせ、喜びを噛み殺した。穴を掘るだけなら朝飯前だ。それさえ済めば──夢にまで見た南の楽園で、思う存分波に乗れる。サンタモニカの海よりも遥かに美しい、碧く透き通るあの海で。
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やがて投下実験の時は迫った。予定の十分前、私とマーカス、トムは投下地点から五十キロ離れた壕に潜み、海風に湿った土の匂いを嗅ぎながら息を潜めていた。周囲には百メートル間隔で同じ境遇の兵士たちが並び、静かな緊張の波が広がっていた。
三分前、空を切り裂く轟音が近づいた。B−29の重々しい機体が水平線を越え、爆音は波打ち際に反響して幾重にもこだました。直後、遠方の飛行場からけたたましいサイレンが響き渡り、実験開始の合図が島全体を震わせた。
私たちは支給された望遠鏡を握りしめ、機体を追った。格納庫が開いた瞬間、誰かが叫んだ。「サングラスをつけろ!」
慌ててレンズ越しに光を遮ったその刹那、海は裂け、世界が白に染まった。閃光は太陽を呑み込むほどで、前方の水面がごっそりと抜け落ちたように見えた。次いで、海底から天へ突き刺すように巨大な水柱が立ち上がり、まるで大洋そのものが咆哮したかのように空を突き破った。轟音が壕の壁を震わせ、地鳴りは鼓膜を貫いた。熱風が頬を撫で、焼けつくような痛みが皮膚に走る。
恐怖に頭を抱え壕へ身を沈める。どれほどの時間が過ぎたのか分からない。顔を上げた時、目に飛び込んだのは、天へと立ち昇る超巨大なマッシュルーム雲だった。水面には雲の影が映り込み、天地が逆さになったような錯覚を覚えた。五十キロも離れているはずなのに、爆風で巻き上がった海水は熱に煽られ蒸気となり、やがて無数の水滴が冷たい雨となって私たちの上に降り注いだ。滴が頬を打つたび、海そのものが泣いているように思えた。
閃光が収まり、私はおそるおそるサングラスを外した。視界に広がったのは、この世のものとは思えぬ光景だった。投下地点から壕のある場所まで、空一面に無数の虹がかかっていた。水蒸気の粒が光を裂き、幾重にも重なり合って色彩の海を生み出していたのだ。一つや二つではない。数百、いや数千の虹が天蓋のように広がり、大小さまざまに輝いていた。
私たちは息を呑んだ。誰もがその場から目を離せなかった。死の海から生まれた虹は、楽園の幻影のように人の魂を奪い去ったのだ。
やがて、虹の残光が漂う中、投下実験終了を告げるサイレンが乾いた音で響いた。その音は祝祭ではなく、終焉を告げる鐘のように聞こえた。
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あの虹を見た翌日、楽園の幻影はすぐに代償を取り立てに来た。最初に崩れ落ちたのはマーカスだった。彼の顔は異様に紅潮し、全身は火照りに支配されていた。汗が滝のように流れ落ち、呼吸は荒く、目は焦点を失って虚ろに泳いでいた。
朝のうちに、彼の自慢だった柔らかなパーマの髪が、ごっそりと抜け落ちていった。枕の上に、床に、黒い毛が無残に散らばっていく様は、まるで人間の皮膚が剥ぎ取られていくような惨たらしさだった。その後すぐに、手足が不気味に膨張を始めた。骨と皮のはずの四肢は、見る間に腫れ上がり、野球のグローブのように変形していった。皮膚は裂ける寸前まで張り詰め、血管が青黒く浮き出ていた。触れると、熱を帯びた肉が異様に脈打ち、血と膿が滲み出て指先を汚した。
マーカスの口からは意味をなさない言葉が次々と漏れた。断片的な叫び、母の名、そして自分でも理解していないような呻き。舌が乾き、唇が割れ、血をにじませながら彼はのたうちまわった。やがて、痙攣に似た動きの中で眼球が白く濁り、その日のうちに彼は冷たい塊となって横たわった。
トムもまた、顔色を失い、吐血しながら崩れ落ちていた。私自身も皮膚に異様な赤斑が浮かび、頭の芯が焼け付くような痛みに苛まれていた。壕の仲間たちも同様に、嘔吐と下痢にまみれ、肌が爛れ、次々と苦鳴を上げていた。あれほどの虹を見た報酬は、美ではなく、確実な死の刻印だった。
基地の軍医は必死に無線機を握り、震える声で本部へ報告を送っていた。その顔も既に青ざめ、諦めと恐怖に濡れていた。
やがて到着したのは、異様な姿の兵士たちだった。鉛色の防護服に身を包み、まるで宇宙服のような面を被り、私たちを生物ではなく危険物のように扱った。彼らは黙々と計器を取り出し、私たちの体に押し当てた。カチリと音を立て、針が一瞬で振り切れる。だが彼らは慌てることもなく、ただ数値をノートに記録していくだけだった。まるで屠殺場の獣の計量のように、冷酷で無機質に。
「何が起きているんだ……?」
私は軍医に問いかけた。声は掠れ、咳に混じって血が滲んだ。だが彼は答えなかった。瞼を伏せ、ただ静かに首を横に振った。その仕草が意味するのは──救いなどどこにもない、ということだった。
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それから数年後、私は軍を退役していた。正確に言えば、退役せざるを得なかった、というのが正しい。軍からは一応の補償金が支給され、飢えることはなかった。だが、私にはもうサーフボードを抱えて波に乗る自由はない。腕も、足も、あの虹の代償として海に奪われたのだから。
義肢も技術も、あの頃の私にとっては慰めにならなかった。かつて海に溶けるようにして立っていた感覚は、もう二度と取り戻せない。私は波と切り離され、陸の上に縛りつけられた囚人のように過ごしていた。
生き残ったことを幸運と思うべきなのだろう。だが、そう思えたことは一度もなかった。トムは全身を蝕む病に抗えず、骨と皮ばかりに痩せ細って死んだ。マーカスも、あの日すでに虹に呑まれていた。仲間たちは皆、あの光景に魅入られ、そして滅んでいった。残された私に課されたものは、生きることではなく、証言することだった。
夜、灯りを落とした部屋で、私はよく水の音を聞いた。窓の外では雨も降っていないのに、床にぽつりと水滴が落ちるような音。その気配に目を開けると、そこに立っているのは死んだ仲間の姿だった。髪の抜け落ちたマーカス、青白い顔で震えるトム──彼らは濡れた影のように私の前に現れた。
彼らの唇は動き、声は波のざわめきのように耳に届いた。
「俺たちのような者を、二度と出すな」
「戦争に海を汚させるな」
「虹に魂を売るな」
その声は祈りではなく、呪いにも似た響きだった。水滴は床に広がり、冷たい波紋となって私の足元を包み込む。私は逃げられなかった。彼らの亡霊は、私が背を向けることを許さなかったのだ。
あの楽園で見た虹は、今も私の脳裏に焼きついて離れない。それは美ではなく、代償の印。生き残った者に残された使命は、死者たちの声を伝えること──同じ悲劇を繰り返させないために、反戦を叫ぶこと。それこそが、私の残された役目なのだ。