何かがいる貯水池
弟の死による傷心の末越してきたこのN県・鳥闇坂には、その筋で有名な貯水池がある。
何でも、そこに夜訪れたら幽霊が出るとか。
私もその噂を聞いたことがあって、しかし非現実的な、つまらない噂話だと思っていた。
ただ奇妙な点があって、まずは現在進行系でそこで行方不明者が多発しているというものだ。
そしてもう一つ、そこで出会う幽霊というのが、昔親しくしていた人達ばかりだということ…
何度もそんな話を聞くうちに、気のせいか興味が湧いてきて、気付くとその興味は心の内に抑え込むことが不可能なほどに肥大しきっていた。
月が丁度天蓋の真ん中に位置したころ、私は2人乗りの車を駆り貯水池までの道をいった。
もちろん私1人で。
貯水池につくと、あれだけ有名なのにも関わらず車が1台も止まっていない。
駐車場から池のほとりまで歩いてみたが、幽霊どころか人がいる様子もない。
…県外から来る人もいないとは。
その時、前からとぼとぼと歩いてくる人影が見えた。しかし奇妙なことに、足音くらい聞こえてもいいはずなのに、聞こえてくるのは虫の鳴き声ばかり。
そう、彼には足音が無いのだ。
途端に怖くなってきた。
しかし同時に、どこか懐かしい感じもしてきた。
あのぎこちない歩き方…見覚えがある。
…あれは紛れもない、私の弟だ。
「…姉ちゃん?」
「隆士…?」
私たち姉弟は、死別とか仲違いとか、その他諸々のことを忘れしばし抱き合った。
虫の鳴き声が止み、あたりが不気味なほど静まり返っているのにも気づかずに。
「隆士…あなたが死んでから、私がどれだけあなたのことを思ったか…!」
そう言って、気づいた。隆はもう、この世のものではないことに。
「姉ちゃん…そうなんだよ。僕はもう、生きてはいないんだよ…!」
目に涙を溜めて話す隆士を見て、思わず私も涙をこぼしてしまう。
そして2人して、夜が明けるまで泣きあった。
東の空が明るくなってきた時、隆士はゆっくりと立ち上がって、涙ぐみながら言った。
「姉ちゃん…ごめんね、僕はもういかなきゃ…]
「行くって、どこに…?」
「…底。」
「え?」
「この底…」
そう言って隆士は、貯水池を指差す。
「僕はここでいつでも待ってるから…!」
そういうと、隆士はぎこちない足取りで池の中へ足を踏み入れ、腰まで浸かったところで振り返る。
「また気が向いたら、来て…!」
そう言って、貯水池の中へ消えていった。
それとほぼ同時、立ち尽くす私の前に、朝日が何知らぬと言った顔で昇ってきた。
次の夜も、また次の夜も私は貯水地へ行った。
あの頃と変わらない優しい目をした隆士に、きつい仕事のことや最近できた彼氏のこと、色々と打ち明けた。
隆士も、私に幽霊になってからのことや共に貯水地で暮らす友人たちのことを打ち明けてくれた。
そうしていくうちに、私は隆士に姉弟愛とはちがう特別な感情を抱くようになっていた。
ある日、私は些細なことで彼氏と盛大な喧嘩をしてしまった。
彼氏は怒ったと言うより心配してくれていた様子だったが、私にとっては同じこと。
「もう知らない!」と言って出ていった先は、例の貯水池だった。
仕事も彼氏も、もう嫌だ。
私は、隆士と一緒にいたい。
そんな私を、優しい隆士は、いつもの穏やかな目で受け入れてくれた。
「私、隆士と一緒に住みたい。隆士のためなら、死んだっていい」
「姉ちゃん…姉ちゃんがそう言うなら…」
隆士は、立ち上がって私に青白い手を差し伸べた。
私も、その手を握る。
そうして私達は、手を取り合って貯水池の中へ入っていった…
気がつくと、そこは病院のベッドの上だった。
どうやら心配した彼氏がタクシーに乗って私の車を追ってきて、そこで池に入ろうとする私を必死で止めたらしい。
止められた記憶はないけど…
その時、病室に彼氏が入って来た。
怒られると思ったが、全く予想外のことを言いだした。
「杏奈を貯水池に引き込もうとしてたの…俺のおじさんだったよな。」
「…え?」
そんなはずはない。
私は隆士の手を取ったはず─
「そんな…そういや、タクシーの運転手は、あれが髪の長い女性に見えたと…『僕の伯母さんみたいだった』みたいなこと言ってたな…」
それ以来、私はあの貯水池には行っていない。
もしあそこにまだ隆士がいたとしても、それは隆士ではない、何かだから。