第1章 モリヤの笛 4
アストラルのマスターは、私たちの様子がいつもと違う事に最初から気が付いていた様で、「何に致しますか?」と他人行儀に注文を聞いただけで、後は別の客とずっと話をしていて私達の前には立たなかった。
今夜は、私たちをそっとして置くつもりらしい。
マスターらしい配慮だが、今日に関して言えば、その思いやりが却って私には辛かった。
八木沢は「モリヤの笛」の事をずっと考えていたし、私は私で、明日連れて行く心療内科の事を考えていたから、お葬式のように静かに時が過ぎていく酒席だったからだ。
そして、私は八木沢の飲むピッチが異様に早いことに気が付いた。
「八木ちん、そんなにガブ飲みしちゃ身体からだに悪いよ」と言おうとしたが、酔い潰れ常習者の私が言っても説得力が無いと思って、代わりに私は真水に近い焼酎の水割りに飲み物を変えた。
八木沢の呑むピッチはそれからも落ちず、「酔い潰れモード」を驀進ばくしんしていたが、八木沢は私のようにギャーギャーと騒ぐ事はしなかった。
若し私が、八木沢のように「モリヤの笛」が眼の前で消えて竜巻に成ると言う幻覚を見ていたら、もっと派手に喚き散らしただろうに。
そう思うと、私は独りでじっと耐えている八木沢を思って、母性本能みたいなものを擽ぐられた。
「なあ由佳、自分の部屋を自分自身で無茶苦茶にしてまで、警察をからかう趣味が俺に有ると思うか?」
無い。それは絶対に無い。だからあんたは病気なんだよ!
私は心の中でそう叫んだ。
「俺はこの店で、何回も山羊の鳴き真似をしたよな。今日は俺のためにお前が鳴いてくれ」
「えっ?私が?」
八木沢がそう言った時、私は最初、彼の話を信用しない私への嫌がらせかと思ったが、よく見ると八木沢の眼は私に癒して欲しいと訴えている様だった。
「そうだな、俺は山羊より豚の鳴き声の方が良いいな。由佳、豚になってくれ!」
八木沢はそう云いながら、グラスのマドラーを私の鼻先に近づけると、
「子豚の由佳ちゃん、さあお鳴き!」
と言いながら、そのマドラーをくるくると回した。
人は、酒酔いが進行すると、誰でも自分の声量をコントロール出来無くなるらしい。
カウンターの隅で飲んでる私達に、折角マスターが気を使って、隣の何席かを空席にして呉れていたのに、八木沢の声が太過ぎたために、マスターを含めてカウンターで飲んでいた客の全員が一斉にこちらの方を振り向いた。
「ほら、子豚ちゃん、鳴いて鳴いて!」
泣く子と地頭と酔っ払いには勝てない。
八木ちん、私、来月で27歳に成るんだよ。分かる?27歳なんだよ!他人の前で豚の鳴き真似をしても、ちっとも可愛くない年なのよ。
私は八木沢にそう言おうとしたが、日頃、36歳の男にメェメェと言わせている事の天罰が下ったんだと自ら納得した事と、私の母性本能のスイッチが既にオンに成っていた事、そしてもっと決定的な理由だと思うが、マスターが私に片目を瞑ってみせた事で、私は「ぶう」と鳴いた。
バーカウンターにカップルで来ていた10代位の若い女がククッと笑った。
若い女はいつも遠慮がない。
八木沢は益々調子に乗ってきて、
「駄目、駄目。豚はそんなに上品には鳴かないぞ!ブウブウ、こんな風に鼻にかけて鳴くんだ!ブウブウブウ!」
先刻の若い女がギャハハと下品に笑った。
この女の方が、私の何倍も下品な豚の鳴き真似は上手そうだった。
私はマスターの方を見た。
今度はマスターはただ微笑しているだけで、特段のサインを私に与えては呉れなかった。
私はマスターの顔を見ながら、
「ぶう、ぶう、ぶう」
と3回鳴いた。
鳴きながら、先刻のマスターのウィンクが、私のフェティシュの弾薬庫に繋がる導火線の1本を確実に着火させたことを悟った。
「ぶう、ぶう、ぶう」
私はまた3回鳴いた。
もう飽きてしまったのか、今度はカウンターの下品な女は笑わなかった。
それからも、10分に1回程度、八木沢のリクエストで私は豚の鳴き真似をした。
一寸とした「非日常」など、直ぐに「単なる日常の風景」に埋没してしまうのだろう。
アストラルのバーカウンターの客は、まるで何事も無かったかの様に、またそれぞれの談笑に戻って行った。
そして、私の規則正しく繰り返す鳴き声は、最初は喜んでいた八木沢に眠気を与えた様で、いつしか八木沢はカウンターに伏して寝入ってしまった。
八木沢の寝顔に母性本能を刺激され、マスターのウィンクでフェティズムに火が点く私という女は、一体どんな女なのかしらと私は真剣に考えた。
「由佳ちゃん、何時いつも気苦労が絶え無いね。八木沢さんは後でボクが彼のマンションまで送っていくから」
マスターが労いの笑顔と共に、私の目の前にやって来た。
「由佳ちゃんの自宅はここから近いらしいけど、今日の所はもう帰った方が良いかもよ」
そう言うとマスターは私のグラスを片付けようとしたが、
「あれ? 若しかして、由佳ちゃん、今夜は八木沢さんちに泊まるの?」
「まさか!」
ああ、ごめんごめんと言いながら、マスターは私のグラスとコースターを片付け始めた。
「でも、今日は一寸事情が有って、八木ちんは自分のマンションには帰れないんだ」
「えっ?そうなんだ。」
マスターは少し困った素振りを見せたが、
「八木沢さんは、いつかも酔い潰れてこの店に泊まっていった事が有るから大丈夫だよ」
と言った。
「うん、そうだね、折角だからそのお言葉に甘えて、今夜はマスターにお願いしようかな」
「OK、じゃあ気を付けて帰ってね」
「有難う、マスターに私がひとつ借りを作ったと言う事で宜しくね」
「気にしないで、大丈夫だから」
マスターは私にまたウインクを返しそうになって、何故かしら途中でそれを止めた。
私は眠っている八木沢の頭を、数回、撫でてからアストラルを後にした。
メェメェちゃん、今日は大変だったね、お疲れ様でした。
明日までに「信頼出来る心療内科」を探して置くからね。
そして明日は有給休暇を取って私が一緒に付き添うから、だから八木ちん、今夜はゆっくりとお休みなさい。
私には難しいことは分からないが、どうやら主イエス・キリストの構造は「三位一体」になっているらしい。
キリスト様と自分を比べるのは不遜だと思うし、そのレベルの違いを広さで例えれば、宇宙と私のワンルームくらいの差がある事も承知した上で、私には何となく「三位一体」と言う感覚は理解出来る。
それは、私が自分勝手に思い込んでいる感覚かも知れなかったが。
私と言う主体は、単独でも一応存在する事は出来るけど、それはただ存在しているだけにしか過ぎない。
ところが、その主体に「光」が当てられる事で「形」が認識される。
そして初めて、私が丸型だったのか四角形だったのか或いは三角形だったのかを知るのだ。
更に、その「形」を安定させるために「三次元の物体や存在」には自動的に影が与えられる。
それによって私流の「三位一体」は完結するのだ。
ところが現実の私は、「影」に相当する八木沢と先に出会った為に、自分の分身のような愛いとおしさは常に有るのだが、「光」を当てる存在が無かったから、二人とも「闇」の中に埋没してしまってお互いを正確に認識し合う事が出来なかった。
今日のように、アストラルのマスタ-という「光」が差し込むと、私の形状が認識されて、八木沢との有るべき距離がはっきりして来て、とても安定した関係性と精神状態を保つ事が出来るように感じるのだ。
私は、この私流の「三位一体」をとても気に入っているのだが、もし、この話を二人してしまえば、マスターの当惑した顔と、八木沢の「俺はお前の影法師かよ」とむくれる顔が容易に想像されたので、今の所は誰にも打ち明けていない。
その前に、そもそもキリスト様の三位一体は「神と精霊と神の子」なので、人間が出来ているマスターは兎も角として、私と八木沢をその三位一体に当て嵌める事は、きっと不遜を通り越して神への冒涜ぼうとくに成ってしまうだろう。
私はそう考えた時点で、この問題をこれ以上深く考えても私には難し過ぎるテーマなので、今日の所はこれくらいにして置こうと思った。
私だって、今日は少しばかり疲れているのだ。