第1章 モリヤの笛 2
八木沢のマンションに着いた頃には、辺りはもうすっかり真っ暗になっていた。
「おう、由佳か?こっちだ、こっち!あっ、靴は履いたままで上がって来てくれ!危ないから。」
「えっ?靴を履いたままで良いの?」
「おう、まあこっちに来いよ!そしてこれ、一寸見てくれよ!」
「あっ!」
普段から冷静沈着で、多少のことには動じない私も、この時ばかりは驚きの声を上げてしまった。
八木沢の、寝る事以外の用事は全てここで済ます20畳ほどの広さの居間が、粉々に砕け散ったグラスや引きちぎられた本類等で、足の踏み場がない状態になっていた。
「何なの これ?」
「俺にも、何が何だか、さっぱり分からんのだ。」
八木沢が腕組みをした。
「空き巣?でも八木ちんの部屋に空き巣に入ったって、金目の物とか何にも無いしねえ。」
「あのなあ」
私は、八木沢と親しく成ってからは、ずっと八木沢の事を八木ちんと呼んでいた。
そして私は八木沢に捨てられてからは、一緒にお酒を飲みに行くと、決まって、
「こら~ 八木、てめぇ、よくも私を捨てやがったな!お詫びにここでメェとお鳴き!」と命令するのだ。
「お前、絶対、女王様入ってるよな」
そうボヤきながらも、せめても罪滅ぼしという殊勝な気持ちが残っているとはとても思えないが、八木沢はおどけながらもメェと鳴くのだった。
「あっ、分かった!下調べもしなかったドジな空き巣が、金目の物が無かったんで、ブチキレたんだ!」
「お前ねえ」
久し振りに、八木沢が怒った顔と呆れた顔が入り混じった表情を私に見せたので、八木沢を愛していた昔を思い出して、私は少し胸が苦しくなった。
「よく見ろよ!ブチキレた空き巣が、こんなに正確に右から左へ螺旋状に物を破壊するか?」
「そう?」
八木沢の言葉で、私は部屋全体をもう一度眺めてみて、八木沢が言う通り、破片物が荒々しいが確かに規則的に散乱している事に気が付いた。
「まるで、部屋の中で竜巻でも発生したみたい。」
「だろ?」
確かに、ただの空き巣が、ここまで几帳面にブチキレるとは考え難かった。
「先刻、帰った警察の鑑識官のオッさんも、お前と同じことを言ってたよ。あっ由佳、それ 触っちゃ駄目!」
散乱している本類を片付けようとした私を、八木沢の野太い声が遮った。
「不審な点が多過ぎるだろ?だから今後の事も有って、明日また警察が現場検証をするんだってさ」
「何だ、私に後片付けをさせるために呼んだんじゃなかったんだ!」
「うん、今日の所はな。そのうち後片付けをお願いするとは思うけど。ところで・・・」
八木沢はそう言ってから、また怒った顔と呆れた顔が入り混じった表情に成った。
私は、八木沢のこの表情に極端に弱かった。
生まれつきと言っても良い位、弱くて、八木沢に捨てられてからも、姉のような役割を演じているのは、本当は、この表情を見たいだけなのかも知れなかった。
自分でもつくづく情けないと思うのだが、これだけは如何ともし難くて、また八木沢が話の文脈に関係なく急にその表情をする為に、ふいを突かれて世話を焼いてしまう事に成るのだ。
これって美樹が良く言う「ツボ」って事なのかな?
「ところで?」
私は八木沢に訊き返した。
「実は、お前に、一寸訊きたい事が有ってな」
八木沢がそう切り出した時には、私はどうしても今夜、八木沢をメェと鳴かせたい欲望にかられていた。
「あっそうだ!八木ちんはもう食事は済んじゃったの?それに明日もまた現場検証が有るんじゃ、今晩はどうすんのよ?」
「ああ、飯は少し食ったけどな。でも警察からは、今夜はホテルにでも泊まって呉れって言われてるんだ」
八木沢の言葉に、自分でも悲しいくらい顔を赤らめた私は、
「八木ちん、やだよー!今更、私とよりを戻そうなんて!もう別れちゃったんだからね、私達。若しお相手をして欲しいんだったら、ちゃんとお手当を払ってよね!」
「ばーか!」
私の言葉に八木沢はマッハで反応した。
ジョークは半分だけなんだから、何もそこまで素早く反応しなくても。
「由佳にもアストラルに一寸付き合って欲しいんだ。」
アストラルと言う店の名前が出た事で、私は急に機嫌が良くなった。
アストラルは私のワンルームから、程近いところにあるレストランバーだった。
私が初めて、八木沢にメェと鳴けと命令した日、八木沢は、
「分かったよ。お前には色々と世話に成っているしな。だが、俺がメェと鳴く店は一軒だけだ。そしてその店は俺が決める!」
その店がアストラルだった。
私は、アストラルに行く度に、八木沢に山羊の鳴き真似を強要し、そして泥人形になるくらい酔って、八木沢に介抱されながらタクシーに押し込まれた挙句、独りで家に帰るのが常だった。
そして、私は決まって酔っ払っている事を口実に、本音をわめき散らかして、深夜に八木沢とアストラルのマスターに諭され慰められるのだ。
2人は覚悟の上とは言え、その時だけは、実に優しく私を諭し、そして慰めて呉れて、私もその時だけは幸福な気分に成る。
多分、本当は八木沢の事も、職場と同じように口では愚痴をこぼしても、私はきっと、捨てられた今でもそんなに嫌ってはいないのだと思う。
「由佳、今日は山羊は無しだ!マジでお前に詳しい話を訊きたいんだ!」
スマホでタクシーを呼びながら、八木沢が私に見せた真剣な表情に、私はこの表情も悪くないかもと内心思った。
そしてそう思いながら、結局の所、男に関しては私も美樹やみどり達と余り変りが無いかも知れないとも考えた。
「はい、分かりました。」
と私が、まるで素直な女のように答えた為に、八木沢は一瞬眼を丸くしてから、ブルッと身を震わせた。
今夜のアストラルは珍しく客が一杯で、入店するまでに初めて15分程待たされた。
いつもはもっと遅い時間にバーとして利用するから、早い時間に客が多い事を初めて知った。
アストラルはレストランバーで料理も美味しいから、考えて見ればそれも当然だった。
そう言えば、この店でレストランとしてゆっくり八木沢と食事を摂るのも初めてで、今夜は初めて尽くしの夜だった。
「あのさ、由佳、アレの事なんだけど。」
八木沢は生ビールで乾杯すると、待ちきれないと言った表情で私に訊ねた。
「アレって何よ?」
「アレだよ、アレ。アレの名前何だったっけ?ほら変てこな笛みたいな。お前が俺に呉れただろ?」
「ああ、モリヤの笛?」
「そうそう、アレ、モリヤの笛って言ってたよな!」
八木沢は妙に納得して、やがて神妙な顔付きになった。
「モリヤの笛」と言うのは、私が中学生の頃、当時住んでいた群馬の山村で拾った、八木沢が言う通り、乳白色の不思議な物体の事だった。
「モリヤの笛」は流線型をしていて、最初見た時はてっきり石だと思ったのだが、良く見ると金属のようでも有るし、半透明な部分も有るので「強化プラスティック」なのかも知れなかった。
中央部には巻貝の貝殻にも似た深い窪みが有り、法螺貝の様にして吹くと結構良い音がしたので、私はそれを笛だと鑑定した。
従って、本当は笛かどうかも疑わしい代物だったのだが、私はその笛に「モリヤの笛」と勝手に名前を付けた。
その笛を拾った場所が、森と森に「守られた谷」のような場所で有った事と、その近くに「守谷さん」と言う名前のお爺さんが住んでいた事がその名前の由来だった。
私は、この笛の事が大いに気に入り、家に持ち帰ってずっと大切に保管して来たのだが、私のワンルームに八木沢が泊まりに来た時、どうしても欲しいと言うので八木沢にあげたものだった。
「だから、あの笛がどうしたって言うのよ?」
八木沢は、普段から何でも単刀直入な話し方をするので、それが別れ話の時には、とても薄情な印象を与えてしまうタイプだった。
ところが、今日の八木沢は、会った時から奥歯に物が挟まった様な話し方が多く、こんなに私の方が焦れて聞き返すことは稀だった。
「ああ、実はな・・・」