第1章 モリヤの笛 1
今、私が「竜胆」と呼んでいる「それ」が私の眼の前に初めて現れた時、「それ」は、どう見ても「それ」としか呼びようがない代物だった。
まさかその「それ」が私を宇宙に導いて数々のドラマを経験させ、自分自身の本当の来歴を知る事に成るなど全く思いも付かない、その頃の私は単なる平凡なOLに過ぎなかった。
私は、6年前に短大を卒業してから中堅の化粧品メーカーに就職したが、スタイルもルックスも中の中、性格も控えめと言うより暗いに近い私は、1年も経たないうちに営業から事務の方に回された。
私が回された職場は、「事務センター」と言って、大名だか殿様だか将軍だかは知らないが、そんな名前のパッケージソフトに明けても暮れても伝票を打ち込む、ただそれだけのお気軽だが退屈な職場だった。
「入力オペレーター」と言えば聞こえは良いが、単なる「打ち込み屋」に過ぎない。
入力以外の事務は「総務課」や「経理課」、「人事労務課」だのとちゃんとした名称の部署があって、「事務センター」の社員は、社員と言うよりアウトソーシングされた部署に派遣された他社のスタッフに近い存在だった。
所属するメンバーだって、社会常識的には「廃人」と呼ぶ方が相応しい無口なセンター長と女性社員が4名いるだけという、まさに「ショムニ」の世界が広がっていた。
「ショムニ」と違うのは、裏で派手に活躍したり、役員から愛人のお誘いが有ったりしないだけで、「会社のハキダメ」という意味ではこちらの方が、むしろ正統な「ショムニ」に違いなかった。
私が、更に気に入らないのは、この前の組織改正で「事務センター」の前に「オフィス」という名称が付いた事だ。
会社の上層部の奴って一体何を考えているのだろう?
事務機器のIT化に伴う「組織改正の一環」らしいが、何か仕事のやり方が変わったと言うのならまだしも、何ひとつ変わっていないのに、ある日突然、私の職場の名称が変わった。
「事務センター」と「オフィス事務センター」の違いを、ちゃんと説明出来る奴がいたら、お目にかかりたいものだ。
最近では「人事労務課」の方に、人材派遣会社が盛んに「売込み」に来ていて、会社も色々と検討しているみたいだけど、結局、私達を職場転換させる先がない為に今の所は見合わせているらしい。
それと、うちの会社にも一応「組合」と言う物が有って、「組合」がこれもまた一応は反対して呉れているらしい。
当然よね、これまでバカ高い「組合費」を6年間も払い続けて来たんだから。
少しは私達の役に立って貰わないと。
それでもこれからは、会社から何かと「嫌がらせ」をされると言う噂も有って、私達を早く辞めさせたい、会社の本音は変わっていない様だ。
「私達が辞めたら、もっと賃金が安い上に愛想まで良い、もしかしたらセクハラをしても黙っていて呉れるかも知れない派遣社員に切り換えられるものね。」
セクハラは兎も角として、私が経営者だったとしても、やはりそちらの道を選びそうだから、それは或る意味で仕方が無かったのだが。
若しそう成ったら、この会社とはさっさと「おさらば」して、別の働き口を探そうかとも思う。
しかし、それはそれでかなり面倒臭い気もしていた。
その日も、そんなお定まりの愚痴をこぼしながら帰路に着こうとした、只の平凡な一日だった。
八木沢から私のガラ携に1通のメールが入るまでは。
ところで、私の職場にも、たった一つだけ良いことが有って、それは会社の終業時刻から1分と違わず「お疲れ様」と言える事だ。
残業は1年を通じて、期末と年度末の頃に一寸有るだけだから、うちのセンターの女性社員は皆、「習い事」とか「合コン」だとかに血道を上げている。
私は、元々、面倒臭さがり屋の上に、「合コン」で誰かのダシにされるのが我慢出来ない性格なので、全くアフターファイブで同僚に付き合うことは無かった。
そう言う意味では、私の職場はやたらと「飲み会好き」の上司がいる訳でも無く、日頃から愚痴っている割には、働き易い自由な職場と言えるのかも知れない。
人はきっと、自分が抱えている「不幸」より大きな「不幸」を想像する事が出来無いんだわ。
「由佳、面倒な事が起こった。至急、オレのマンションに来てくれ。」
八木沢からのメールは、いつものように愛想がない文章だったが、「面倒が起こった」と言う事実を、先に私に伝えた事がいつもと違っていた。
八木沢は3年程前に、或る場所で知り合った「元カレ」で、「元カレ」と言っても、私に恋愛経験が全く無かった為に、何回か情を交わしただけで柄にもなく「彼氏が出来た」と大騒ぎをして、実際、その気に成った男だ。
だが、八木沢にとって私は只の遊び相手にも満たない存在だった様で、私の身体への執着は無いに等しく、女としてはあっさり捨てられて、「元カレ」は私の自己満足を少し保つだけの悲しい称号に成った。
只、八木沢はそんな薄情な男だったが、私とは妙にウマが合うと言うか、淋しがり屋の癖に孤独を好む所が似ているとお互いに感じていて、私は八木沢から捨てられてからも、面倒見の良い姉のような役割を果たしていた。
その話をすれば、会社のOL共から、バカのお人好しだのと「物笑いの種」にされることが分かっていたので、私は誰にもこの話はしていない。
だが、実際は、そう言う悲しいと言うより阿呆らしいと呼ぶべき結末で、八木沢との「恋愛関係」は終了していたのだった。
「ねえ、菊池先輩、今夜さあ、これからなんだけど空いてない?」
更衣室で私服に着替えていると、「総務課」の瀬戸山美樹が私にそう訊いてきた。
美樹というのは、私より3年後輩の女子社員で、自分の脳みその95%を、男の事を考える為だけに使っている様な女だった。
だから、私はこの女だけは「オフィス事務センター」に来て欲しく無いと思っている。
独特の鼻にかかった甘え声が、私の癇に障ってしまうからだ。
だが、残念ながら、周囲の人々は彼女が「ショムニ」へ異動に成るのは時間の問題だと思っている様だ。
「最近さ、うちと取り引きを始めた日本物産の、ほら知ってるでしょう? 営業の山崎君、彼ってあたしのツボなのよね。」
「ホントよね、山崎LOVEって感じよね~!それとさ、彼の先輩の柳沢さんも渋くない?」
話に割って入ってきたのは、高卒だが私と同期に入社した「経理課」の塚本みどりだ。
この女は美樹に比べるとまだマシな方で、多分70%位しか、男の事で脳みそを使っていないタイプだ。
「うんうん、渋い渋い。柳沢さんって男の色気みないなものが有るのよね、もうどうにでもしてって感じ。彼、今日の合コンに来るのかな?」
「う~ん、それはビミョウかな。だって彼さあ、社内の昇格試験が有るって言ってたじゃない?」
「あっ、そうかあ。でも今日みたいに合コンが急に決まると、誰を狙おうかって考えて、却って興奮するね。」
美樹は、人目も憚らずに熱心に厚化粧を始めた。
ところで、うちの会社は中堅ながらも一応「化粧品メーカー」なのだが、彼女達は社員価格で安く手に入るにも関わらず自社製品は決して使わない。
私は面倒臭くて化粧をしない女だから分からないが、彼女達に愛社精神が皆無なのは当然としても、やはりそれだけ、うちの化粧品は品質が落ちると言う訳か?
営業が溜息をつきながら嘆く筈だ!
「そうね でも戸川っちは絶対来るわね」
みどりが楽しそうな声を上げた。
「戸川っち来るの?嬉しい!彼って超スウィートよね!若しかしてあたしの好みかも~」
「ふん、男は全部好みの癖に」と言いそうになったが、大人の私は、
「一寸、貴女達、折角だけど、私は今日は忙しいの。合コンのお誘いなら、また別の日にして頂戴。」
そう落ち着いた口調で、私はお局のように断定的に言った。
「えっ 先輩行かないの? だって今日みたいに急に決まった時しか、先輩なんかにお誘いは無いのに」
「美樹!」
流石に「脳みその70%が男の事で占領されてるだけ」のみどりは、残された30%の脳みそを使って、美樹を嗜めた。
「ごめんね。今日は家で飼ってるサンショウウオが産卵する日なの。だから、これから帰って観察日記を付けなきゃ駄目なの。」
「ええ~?うっそー!信じらんない!人間の男より両生類の方が良いなんて!」
美樹は素っ頓狂な声を上げたが、
「馬鹿ね。繁殖させて高く売り飛ばすに決まってるじゃない!」
と訳知り顔のみどりに云われて、
「そっかあ、先輩ってあったまイイ~!」
と美樹は納得した。
私は「お先に」と言って、更衣室のドアを開けた時、
「嘘に決まってるでしょ!アホ共が」
と二人を罵りたく成ったが、美樹が両生類という言葉を知っていた事の方に私は驚いていた。
だが、きっと明日から、サンショウウオの繁殖のさせ方や売り捌き方について、しつこく二人から質問攻めに遭うことが予想された為に、「もう少しマシな嘘を付けば良かった」と後悔しながらバタンと強く更衣室のドアを閉めた。