テニス部女子高校生刺殺事件
四月最後の土曜日、来週からインターハイの予選が始まる。部員たちはひたすら練習試合をこなしていた。
紗季が強烈なスマッシュを放つと、ボールはコートの端すれすれをバウンドして外に出た。
「ゲーム、セット、マッチ!」
圧倒的な実力差を見せつけられた瑞穂は、その場にぺたんと座り込んで、息を切らした。
「一セットも取れなかった。悔しいぃ」
「まだまだね」
自慢げな顔をする紗季が瑞穂に手を差し伸べると、瑞穂はその手を掴んでフラフラと立ち上がった。二人は一年生でありながらインターハイ出場を決めた。だが、紗季は天才だった。
練習は午前で終了し、着替えを始めた。目を輝かせた部員たちが紗季の元に詰めかける。
どんな練習してるの?
一年なのにすごいわね
インターハイはもらったも同然よ
将来はウィンブルドン優勝間違いなし
誉め殺しに遭った紗季は、少し赤面して笑みを浮かべた。そんな色めき立っている様子を、三年生の玲奈と美咲は眉間に皺を寄せて遠くから眺めていた。
「ウィンブルドン優勝? プロテニスの世界はそんなに甘くないわよ」
「学校で一番強いからといってプロで通用するとは限らない。調子に乗り過ぎ」
美咲は拳でロッカーを叩くと、部室は水を打ったように静かになる。
「ぐずぐずしてないで、早く着替えなさい! 部室に閉じ込められたいの?」
部員たちは二人に一瞥を投げた後、黙って着替えを続けた。汗の滲んだシャツやスカートの擦れる音だけが部室に流れる。紗季は冷感シートで体を拭いた。スースーとした爽快感が心地良い。瑞穂が小声で話しかけてきた。
「玲奈先輩と美咲先輩って感じ悪いよね。あんなに威張り散らして」
「でも、早く着替えないと先生たちに迷惑がかかっちゃうし」
「もっと他に言い方があるでしょ。去年までは実力のおかげで一目置かれてたけど、紗季がメキメキ強くなって先輩たちを追い越してから化けの皮が剥がれたのよ」
紗季は視線を落としてソワソワした。瑞穂は慌てて注釈を入れる。
「紗季のせいじゃないのよ。あなたが強いのは学校にとっていいことなんだから」
「いつまでしゃべってるの」
瑞穂が振り向くと、ムッとした表情の玲奈と美咲が後ろに立っていた。二人は射るような視線で言い放った。
「あんた、来週インターハイでしょ。弛んでるんじゃないの」
「紗季にボコボコにされたんだからもっと危機感持った方がいいわよ。これじゃ初戦敗退ね」
瑞穂は拳を握りしめた。二人は勢いよくラケットバッグを背負うと、部室の鍵を押しつけた。
「もう帰るから。ちゃんと閉めておきなさいよ」
二人は部室から出る瞬間、死ねという言葉を小さく発した。瑞穂はドアの隙間から二人の姿が見えなくなったのを確認すると、部員たちに目配せした。全員一ヶ所に集まって玲奈と美咲の悪口に花を咲かせた。紗季は口元が引きつるような笑みを作った。
紗季と瑞穂は帰路に着いた。二人は中学生の時から近所で家三つ分しか離れていなかった。瑞穂は玲奈と美咲の悪口をまだ言っていた。紗季は大人しく相槌を打っていた。
狭い路地、もうすぐ瑞穂の自宅が見える場所まで来たとき、電柱の裏で隠れていた黒いフードを着た男が姿を現した。その男は鋭利なナイフで襲いかかる。紗季はラケットバッグでガードしたが、瑞穂は尻餅をついて凍りついた。
「瑞穂、逃げて! ここは私がなんとかするから、警察呼んできて!」
瑞穂はよろけるように立ち上がって来た道を駆け戻る。男は彼女を逃がすまいと追いかけようとするが、紗季に再び阻まれる。彼女はラケットバッグを振り回して男が握っていたナイフを払い落とすが、男はラケットバッグをひったくると遠くに投げ飛ばした。男がナイフを拾う間に彼女は走って逃げる。
「誰か、助けて!」
男は紗季に追いついて腕を掴み、自分に引き寄せるように引っ張り、彼女の腹にナイフを刺した。
ブスリ
うっ!
鈍重な音が鳴った瞬間、紗季は時間が止まったような感覚に襲われる。おそるおそる視線を落とすと、切っ先が白い制服に食い込んでいるのを見た。傷口から円を描くように血が滲み、重力に従って滴り落ちた。アスファルトに血痕が一つまた一つと増えていく。彼女は目をギュッと閉じて歯を食いしばって両手で腹を抑えた。男はナイフを抜いた。傷口からドクドクと血が流れ、白い制服の下半身が瞬く間に赤くなっていく。彼女はくの字に体を曲げて千鳥足で後退りした。男は腰のあたりでナイフを横に構えてから勢いをつけて彼女の腹を刺した。
ドスッ
ぐはっ!
紗季は大きく目を開いて唾を飛ばす。刺されたときの勢いのままブロック塀に追いやられる。男はナイフを押し込むと、刃が彼女の内臓を無惨に切り裂いた。やがて彼女は滑り落ちるように膝を折った。
「やめろー!」
警察官二人が瑞穂を伴って走ってくると、男は狭い路地に姿を消した。
ナイフの刃は根元まで腹に沈み、白い制服は真っ赤に染まっていた。紗季の目は虚空を見上げている。
「救急車だ! おい、君、しっかりするんだ」
「紗季! 死んじゃダメ!」
瑞穂の呼びかけも虚しく、紗季は息を引き取った。