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エピローグ 風の道標

  近江国・逢坂峠 ──



 神無月の始めの頃である。ひとりの少女が草原でゆっくりと目を覚ました。名をくららという。



「ずっと寝てたのかな。旅籠にでも泊まればよかった」



 光をたたえた瞳に飛び込んできた無窮の青空に、思わず見入る。邪魔なものはなにもない。雲もなく、太陽があるだけだ。



 上体を起こして頭を振る。眠気はないが、どこにも行くアテもない。ただ静かに、頬を撫でる風を感じていた。



「はあ、はあ……」



 小さくも、荒くなった呼吸が聞こえた。女性のものだ。追いかけるような足音はないが、困っているのかと思い、くららは立ち上がった。足取り軽く、ススキの咲く上り坂を駆ける。



「どうしました?」



「わっ」



 女性は驚き、小さく跳び上がった。無限にも思えるススキから、突然年端のいかない少女が出てきたのだから、当然かもしれない。



 女性はジロジロとくららを見つめるが、すぐに目尻を下げて警戒を解いた。



「あなたはひとりなの? 親は?」



 女性は息を整えつつ、短い質問をする。くららは素直に首をタテに、横に振った。



「とてもきれいな召物ね……。大事なものでしょう?」



「うん。とってもきれいなお姉さんからもらったんだ。わたしの宝物だよ」



 くるりと回ってみせて、翡翠色の着物を主張した。女性は微笑む。くららもいい人だと同時に、白いユリの花をあしらった上質な着物、長く艶やかな髪から、ふつうの町人ではないと直感した。



「あなたもひとりで……、ひとりでいて平気なの?」



「ええ。たまにはひとりになりたいから。でも歩いて遠出なんて、あまりしたコトがなかったから、つかれちゃってね」



「やっぱりお姫様なんだ……!」



「好きでそうなったワケじゃないけどね。あなたこそ平気なの? えっと……」



「わたし、くらら」



「くらら……っていうのね。かわいらしい名前ね」



 少し考えたような素振りを見せた。



「話すの、楽しくなってきちゃったな。立ち話もなんだし、どこかに座ってお喋りしない?」



「それならわたし、いい場所知ってるよ。ついてきて、お姉さん!」



 くららは女性の手を引っ張って案内する。茂みの中に入っても、木立ちの中を潜っても、ふたりで笑いながら突っ切っていった。その先に丘があった。



「到着!」



「まあ……。きれい」



 女性は息を呑む。眼下に映るのは、目いっぱいに広がる琵琶湖だ。静かな水面は太陽の光を浴びて輝きを放つ。ふたりは傍らに埋まっている岩に座った。



「近江の海って、遠くから見るとこんなにきれいだったなんて。監視下から抜けださなかったら、気づかなかったわ。ありがとうね、くらら」



「監視下?」



「帰ったら、ずっと人に囲まれちゃうから。せめての息抜きにね。くららはどこの産まれ?」



「わたしは伊賀の産まれで……。帰る場所はもうないの」



「伊賀? それじゃあ、えっと。あれ、太閤様が仕えていた方って……?」



 女性はなにかを思い出そうとしていたが、名前が出てこない。



「うん。信長にね」



「信長……? あっ、気の毒に。無神経なコトを訊いてしまって、ごめんなさい」



 腑に落ちないのを紛らわせるように女性は立ち上がり、くららを見つめる。



「そうだ、迷子でひとりぼっちなら、この私、ほそ……ううん、ガラシャの下で働く気はない?」



「えっ?」



「どう?」



 くららはしばらく考え込んで、首を横に振った。



「ありがとう。でも、かえって迷惑をかけちゃいそうだから」



「で、でも。行くところは……」



「なにもないなりに、旅に出ようかなって思ってたところなの」



 くららは青い空を見上げる。なんの迷いのない瞳を受け止めて、ガラシャは再びくららのとなりに座った。



「強いのね、くららは。私はね、いけないコトをしているの。太閤様のお触れでね、禁止されているコトを」



「それって今も?」



「そうよ、神様を信じているの。禁止にされていてもね、すがりたいの。残酷な世の中だからこそ信じなきゃ、自分を保てないッ」



「信じるものは人それぞれ……あっ!」



 ガラシャは歯を噛み締めた。その様をくららは心配そうに見つめると、ふと思い出した。着物の内に隠し持っていたコトを。



「ねえ、ガラシャさん。これ」



 くららはそれを取り出す。手のひらの中で、陽の光を受けて銀色に輝いた。



「十字架……? どうしてくららが? くららって洗礼名なの?」



「洗礼名? えっと、旅の途中でね、赤鬼……じゃなくて宣教師の人が持ってたのを、いっしょに旅してた人から譲ってもらって」



「えっと……。今までは、ひとりじゃなかったの?」



「うん」



 突風が吹いた。くららは笑いつつ、食い気味に否定した。



「ううん。今でもそばにいる。風になって見守ってくれてるよ」



「姿も見えないのに?」



 くららは風に舞う木の葉を見つめる。空に弧を描いたと思えば、東のほうへ飛んでいった。



「風は見えないけれど、木の葉とかを絡ませれば、形が見える。見方じゃないかな、信じるものの形って」



 ガラシャはくららの言葉を噛み締めながら、手のひらにある十字架を見つめる。人の全ての罪を贖う自己犠牲の象徴、そして愛の象徴である十字に架けられた神の姿がそこにある。



「どうぞ、ガラシャさん」



「けれど、これは銀製。売ってしまえば、高いおカネになるわよ?」



「わたしよりも、ガラシャさんのほうが必要に思えるの。信じるものの形でしょ、受け取って欲しいな」



「……ありがとう、くらら」



 銀の十字架と、それを差し出してくれるくららを見ると、言葉に尽くせない想いが湧いてくる。ガラシャは逡巡したあと、快く受け取った。



『奥方様、奥方様――』



 遠くから声が聞こえる。ガラシャを呼ぶ小姓の声だった。



「私を探しているみたい。行くわね」



「諦めないでね、ガラシャさん」



「また、会えないかしら?」



「どうかな。風は気まぐれだからね」



「そう……。じゃあね、くらら。よい旅を。あなたのコトは一生忘れない」



 くららは手を振ってガラシャを見送った。周りに静寂が包み、聞こえるものは風の声だけだ。おだやかなそよ風はくららの頬を撫で、身体を包む。



「全部なくなってなんかないよ。愛されていた、それだけでじゅうぶん。そうでしょ?」



 木々がざわめく。くららも微笑んだ。



「それじゃあ、わたしも東へ行こうかな。暗くなる前に。見守っていてね、サラ」



 くららは岩から立ち上がり、風の吹くほうへと歩いていった。彼女の行方は、風だけが知っている。







            うつけもの  完

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