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第三章 大切な人のために

夏休みも終わり、僕が楓夏ちゃんへの想いに気づいてから三か月が経過した。

 暦も師走、つまり十二月に突入し、少しずつ寒い時期が近づいているが、未だに僕は楓夏ちゃんの大切な言葉を思い出せずにいる。

 加えて、楓夏ちゃんのことが好きだと意識するようになってから、彼女と二人きりになると緊張して以前のように自然に話せなくなってしまった。

 まあ、二人きりでない時や二人きりでも興奮していたり、落ち込んでいたりして心のゆとりがない時は平気なのだが。

「最近は本当に物騒な世の中になったわね」

 珍しくお母さんが早く起きてきたので、僕と楓夏ちゃんを加えた三人で朝食を食べている時のことだった。

「どうしかしたの?」

「ほら、テレビのニュースよ」

 お母さんに促されてテレビの方に目を向けると、事件があったことをアナウンサーが淡々と原稿で読み上げている。

 内容は天神雪市で通り魔が出没して、女子高生が刺されたというものだった。不幸中の幸いと言うべきか軽傷で済んだらしい。

「へえー、通り魔か。確かに物騒だね。って! 今、天神雪市って言わなかった!」

「今頃気づいたの? だから物騒だって言ったのよ」

 天神雪市とは今まさに僕たちがいる場所である。

「まさか僕たちの住んでる町でそんな事件が起こるなんて……」

 急に不安と恐怖が僕の心の中でじわじわと勢力を拡大する。

 人とは不思議なもので、大きな事件が発生してもそれが自分とは関係のない場所でのことなら平気でいられる。ところが、自分の身近でのこととなると話は別だ。

「ねえ、楓夏ちゃん。今日は確か部活で遅くなるのよね?」

「はい、テニス部の練習がありますから」

 心配するお母さんに対して、少し不安と恐怖の入り交じった表情で答える楓夏ちゃん。

「そうだわ! 啓太と一緒に帰るようにしたらいいのよ!」

 お母さんは名案とばかりに言うが、僕と楓夏ちゃんは顔を真っ赤に染めてそれぞれ抗議する。

「ちょっ、お母さん、それはどうかと思うよ!」

「そ、そうですよ、おばさん! それに部活が終わるまで啓太に待ってもらうのも悪いですし」

「啓太、なにを言ってるのよ。暗い道を楓夏ちゃんだけで帰らせて通り魔に遭遇したらどうするのよ?」

「そ、それは……」

 お母さんは僕から楓夏ちゃんへ顔を向け、

「それに楓夏ちゃん、なにも遠慮することないわよ。啓太は家に帰ってもジグソーパズルをしてるだけなんだから」

 と言って楓夏ちゃんに問題ないことを主張する。

「まあ、啓太が構わないなら、私としては一人で帰るより安心だけど……」

 捨てられた子犬のような可愛らしい瞳でそんなことを言われて、僕に首を横に振るなんて出来るはずもない。

「べ、別に僕は大丈夫だけど」

「よかったわ。じゃあ、これで決まりね!」

 高校生二人が恥ずかしがっている中、おばさん一人が笑っている。

 会話の間に、テレビはもう次のニュースに変わっていて、天神雪動物園から一匹の猿が逃げ出して大騒ぎになっていると先ほどと同じアナウンサーが原稿を読み上げていた。

 僕はそれを聞き流しながら、楓夏ちゃんと帰る時にどうやって平常心を保てばいいのかということばかりを考えていたのだった。


「ところで、霧島とはどうなったんだ?」

「ぐはっ!」

 急に瞬が動揺するようなことを言うので、変な声を発してしまう。

 今は体育の授業が終わり、男子の更衣室として使用されている一年三組で着替えの最中だ。ちなみに体育は三組と四組の二クラス合同かつ男女別々で行われている。だから、女子は四組で更衣を行っているはずだ。

「な、なんのこと、い、言ってるのか、い、意味が、わ、わかんないな」

「はあ? まさか俺が気づいてないとでも思ってたのか? 夏休みの肝試しの後から明らかに啓太の霧島を見る目が違ってたぞ」

 肝試しの後って、僕が自分の気持ちに気づいて本当にすぐじゃないか!

「そ、そんなにバレバレだった?」

「ああ、俺にはな。まあ、他の奴らは気づいてねーみたいだけど」

 瞬だけだとわかって安堵の溜め息を吐く。

「で、どーなんだよ?」

 カッターシャツのボタンを締めながら、再び尋ねてくる。

 僕は体操服のズボンを脱ぎ、迷彩柄のトランクスだけになってから、

「進展してないよ。……僕に告白する資格なんてないし」

 と正直に答えた。

 明らかに安心した表情になった瞬に多少の苛立ちを覚えてしまう。

「でも、なんで告白する資格がないんだよ。したいならすればいいだろ? まあ、俺としてはしてくれない方がいいけど」

 僕は瞬の当然の質問に少しだけ話すか迷った後、説明することにした。

「そういうこと。約束の言葉を思い出すまでは告白しない、か。まあ、啓太らしいな」

 これがそれに対する瞬の反応だった。

 僕はその反応に疑問符を浮かべる。

「あれ? 邪魔をするとかは言わないんだ?」

「なんでだよ? 啓太がそうしたいって言ってるのにそれを俺が邪魔なんてするかよ。応援はしないけどな。告白が失敗したら俺の胸で泣いていいからな」

「…………」

 嬉々として喋る瞬に対して僕はもうなにも言うことは出来なかった。

「ウッキ!」

 その直後だった。この場にはそぐわない変な鳴き声が後ろから聞こえたのは。

 僕と瞬が声のした方を振り向くと、そこには猿が不思議そうな瞳でこちらを見つめているではないか。

「さ、猿だー!」

 突然の出来事で僕は声を荒げてしまう、するとその声に教室で着替えていた男子生徒が一斉にこちらに注目した。

 闖入者はなにを思ったのか、机に上に置いてある僕の制服のカッターシャツを掴むと、机から飛び降りて素早い動きで教室のドアの方へと走り去ってしまう。

「ちょ、僕の制服!」

「おい! 啓太!」

 僕はすぐさま制服泥棒を追いかける。後方から僕を呼び止めようとする瞬の声が聞こえたがそれに応えることなく教室を後にした。

 僕は授業中のため誰もいない廊下を走って猿を追いかける。

「待て! 僕の制服を返せ!」

「ウッキ、ウッキ、ウキキ」

 言葉自体は理解出来ないがニュアンスから馬鹿にされているのはわかった。

「馬鹿にするなよ!」

 校内を駆け回って僕と猿は五分程度の追いかけっこをして、僕は猿を校舎の端に追い詰めるに成功する。

「さあ、僕の制服を返せ!」

「ウ、ウキキ……」

 猿は絶体絶命という表情だ。

「もう、観念しなよ」

「ウキ!」

 僕が一歩近づくと猿は急に近くの教室に空いていた窓から素早い動きで逃げ込んだ。

「愚かなだ。袋の鼠だ!」

 僕もすぐに教室のドアから中に入る。

「もう、鬼ごっこは終わりだ!」

 そう宣言して教室に突入した僕の目に飛び込んできたのは、体操着姿の女の子、体操着を脱ごうとしている女の子、下着だけの女の子、つまりそれは着替え中の女の子というものだ。

「きゃあ!」

「最低!」

「この痴漢!」

 数々の罵声を浴びせられる。どうやら僕は校内を駆け回って、女子の更衣場所である四組の教室に来てしまったようだ。

 しかも今更になって気づいたのだが僕は迷彩柄のトランクス一丁だった。

 女子が着替えているところにトランクス一枚で侵入する男子、誰がどう考えても好意的に取れるものではない。

「ちょ、これは、ち、違うんだ!」

「へえ、なにが違うのかしら?」

 必死で弁明する僕に冷たい目で見るのはすでに制服に着替えている楓夏ちゃんだ。

 場違いにも楓夏ちゃんの着替えが終わってしまっていることに少し残念な気持ちになってしまう。

「そうよ、霧島さんの言う通りよ!」

「私たちの下着姿が見たかったんでしょ!」

「むしろ見られるなら沢村なんかじゃなくて、桐生様がよかったわ!」

 一部の人を除き楓夏ちゃんに賛同の意を示す。

 僕の背中に冷や汗が流れ落ちる。

「きゃあ!」

「この露出狂!」

 怒りのままに僕に迫っていた女子たちが急に赤く染めた顔を手で覆い隠し始める。それはなにか見てはいけないものを目の当たりにした時のような感じだった。

「ちょ、啓太! 早く隠しなさいよ!」

「へ?」

 楓夏ちゃんも他の女子同様に顔を真っ赤に染め、僕から視線を逸らすようにそっぽを向いている。

「それよ! それ! もう!」

 状況を理解していない僕の股間部分を恥ずかしそうに指す。

 僕は彼女に促されるままにその部分に目をやると、

「うわああああ!」

 と悲鳴を上げてしまった。

 理由は僕の迷彩柄のトランクスが脱がされ、女の子たちの前でアレを惜しみなく曝け出していたからだ。

 こんな状況にも関わらず、僕は夏休みに風呂場で覗きをした際に罰として腰に巻いていたタオルを奪われて見られた時は、きっと怒りが羞恥心より勝っていたから平気だったんだなと頬を真っ赤に染めている楓夏ちゃんを見て納得する。

「ウキキ」

 僕の隣では嬉しそうに猿が笑っていた。

 この猿のせいか! こいつが僕のトランクスを脱がしたんだ!

 その後、僕は騒ぎを聞きつけた先生方に生徒指導室まで連行されて、警察さながらの取り調べを迷彩柄のトランクス一丁で受けることになったのだった。


 授業も終わり、更に放課後になって楓夏ちゃんの部活が終わったので僕たちは暗くなった道を帰っていた。

「はあ、明日から学校に行けないよ……」

 学校を出てから、指の数以上は行っただろう溜め息という行為を再びしてしまう。

「もう、気にしないの。啓太が更衣中に教室に入った件は誤解も解けたんだから」

 あれから長時間にわたる尋問の末、無実を証明することは出来た。

 でも、心に一生の傷を負ったけど……。

 ちなみに、猿は保護されて無事に動物園へと返された。

「そんなこと言われても……。だって……、大勢の女の子に見られたんだよ……」

「はあ、仕方ないな……」

 溜め息交じりにそう言うと、楓夏ちゃんが急に立ち止まると鞄を探り始める。

 それに釣られて僕も足を止めてしまう。

 僕らが立ち止まった場所は神社の鳥居の前だった。

 この神社は天神雪神社と呼ばれ、この鳥居と境内の間に階段があり、その階段と境内を囲うように木々が生い茂っている。

 初詣や夏祭りの時は出店も多く立ち並び活気があるのだが、今はその面影すらなく閑散としていて寂しい。

 また、鳥居の向かい側には公園があり、その近くには団地が建立されている。

 楓夏ちゃんが鞄から板チョコを取り出して、

「はい、これあげるから、もう落ち込まないの」

 と差し出してくる。

 その瞬間、僕は楓夏ちゃんの行動、言葉、笑顔といったそれらに既視感を覚える。

 あるいはデジャビュじゃなくて、一度同じ体験をしている? なら、いつ? どこで?

 そんな疑問を自問自答していると、それを訝しんだ楓夏ちゃんが覗き込んでくる。

「どうかしたの?」

「え? あ、ちょっと、こんなこと前にあった気がするなと思ってさ。でも、僕の勘違いだよね」

 そう言って、楓夏ちゃんに笑ってみせると、彼女はなにやら真剣な表情になる。

 今度は僕の方が訝しんでしまう。

 少しの間、なにかを考えるようなしぐさをした後、

「ねえ、啓太。あれ、なにかな?」

 と急に公園の方を指して訊いてくるので戸惑いながらもそちらを向く。

 しかし、そこには特に変わったものはなかった。

「なにもな――」

 なにもないよと言いながら、楓夏ちゃんを振り向こうとしたのだが、楓夏ちゃんの方に顔を向けた瞬間、柔らかい感触が口を塞ぎ最後まで言えなくなってしまったのだ。

 驚いた僕の目の前には楓夏ちゃんの顔がある。

 そこでようやく自分が彼女にキスをされたことに気づく。

 同時に記憶の奥底に眠っていたものが溢れ出すように僕の頭の中に入ってくる。記憶という湖に石を投げ入れて、波紋が広がるようなそんな感覚だ。

 そしてその記憶とは幼い頃の僕と楓夏ちゃんの思い出だった。


 九年前、僕と楓夏ちゃんが放課後に小学校で遊んで、家に帰っていた時のことだ。

 僕はその時も落ち込んでいた。理由はからかわれたとか、そんなことだったと思う。

「けいちゃん、げんきだして」

 楓夏ちゃんは学校を出てからずっと励ましてくれたのだが、現在と同じく簡単に立ち直ることはなかった。

天神雪神社の鳥居の前まで来ると、

「そうだ、けいちゃん、ちょっとまって」

 そう言って立ち止まり、楓夏ちゃんは肩にかけていた小さな鞄からなにかを取り出し始める。

「ふ、ふうかちゃん?」

「はい、これあげるから、もうおちこまないの」

 鞄から出したものは板チョコだった。

 それを手渡された僕はきょとんとしてしまう。

「どうしたの? ちょこ、きらいだった?」

「う、ううん、そ、そんなことないよ」

 本当は甘いものはあまり好きではなかったのだが、僕のことを気づかってくれているのだと子供心にもわかっていたので嫌いだとは言わなかった。

 包装を破って、チョコを口にする。

 口の中に甘さが広がり、体全体に広がっていく感覚に陥った。

 いつもなら不快に思う甘さが、この時は心地よく感じられた。口の中でチョコが溶けると同時に沈んでいた心も溶けてなくなっていくようだった。

 たかが板チョコがこれほどの効果を持ったのは、楓夏ちゃんが僕のためにくれたという精神的な要素が強かったからだと、今の僕ならわかる。

「どう? げんきでた?」

「うん!」

 本心からそのように答えた。

「ねえ、けいちゃん。あれ、なにかな?」

 突然、楓夏ちゃんが公園の方角を指さす。

 それに釣られて、公園の方向に首を回すが、そこには一般的な遊具があるだけで、特に気になるものはなかった。

「なにもな――」

 なにもないよと答えながら、楓夏ちゃんの方を振り向こうとするが、途中で口を塞がれて言えなくなる。それと同時に柔らかい感触が唇に触れた。

 楓夏ちゃんがキスをしたのだ。

 すぐに、僕から離れた。

 僕はまたもや、呆然としてしまう。

「いたちょこをあげたかわりに、けいちゃんのふぁーすときすをもらちゃった」

 楓夏ちゃんは、嬉しそうに微笑んだ。その表情にどきりとする。そして、幼いながらも僕はその笑顔をずっと見ていたいと思ったのだ。だから、数秒後には告白をしていた。

「ふうかちゃん! ぼくとけっこんしよう!」

「え?」

 今度は楓夏ちゃんがきょとんとしてしまう。

 ところが、少しの沈黙の後に首を縦に振るのだった。

「うん、いいよ。わたしがけいちゃんをずっとまもってあげる」

「ううん、ぼくがふうかちゃんをまもるんだ!」

 普段は大人しい僕がそんなことを言うので、楓夏ちゃんは面を食らったようだった。

「どうして、けいちゃんがわたしをまもるの?」

「だって、ぼくはおとこのこだもん! おんなのこをまもるのはとうぜんだよ!」

 胸を張っていうが、彼女もすぐには納得してくれない。

「でも、けいちゃんはなきむしだし、ちからだってわたしよりよわいのに、どうやってまもってくれるの? わたしがまもったほうがいいよ」

「ふうかちゃんをまもれるくらいにつよくなるよ、ぜったい! だから、ぼくをしんじてまってて!」

 この時、楓夏ちゃんの表情が驚きに変化し、その後、納得して微笑む。

 理由は、今までにないほど僕の表情が真剣だったからだと思う。

「わかった。まってるね。わたしをまもれるくらいにつよくなって、ぜったいにけっこんしようね!」

「うん! やくそくだよ!」

 僕と楓夏ちゃんは互いの小指を絡めて、ゆびきりをする。

「ゆーびきり、げーんまん、うそついたら、はりせんぼんのーます」

 静寂が支配する鳥居の前で、二人の重なる声だけが響くのだった。


 ……全て、思い出した。そして、気づいてしまった……。

 基本的に甘いものが嫌いである僕が、板チョコだけは懐かしい感じがして好きなのは楓夏ちゃんがくれたものだったからだ。

体育倉庫に閉じ込められた時に体中に電流が走ったような感覚になったのは、その時に発した言葉が大切な記憶の断片だったため。

そして、ずっと思い出そうとしていた楓夏ちゃんの大切にしている言葉を、やっと思い出せた。このことは、本来なら嬉しくて仕方ないはずだ。

 だって、これで楓夏ちゃんに告白が出来るのだから……。

でも、実際はそんなに簡単じゃなかった。

 なぜなら、彼女の大切な言葉である『ぼくとけっこんしよう!』という約束のために無意識に『約束のゆびきり』を使用してしまっていたから。

 それがなにを意味するのか、少し考えればわかる。

 まず、『約束のゆびきり』による結婚の約束をしたということは、僕が今まさに想っている楓夏ちゃんが好きだという感情が能力によるものかもしれないということだ。僕の本当の気持ちではないかもしれないのだ。

 それだけでも僕は目の前が真っ暗になるような絶望を感じてしまう。

 抑えようもないくらいに溢れ出す楓夏ちゃんへのこの想いが偽物かもしれないなんて、そんなの残酷だ……。

 加えてもう一つ、『約束のゆびきり』をしたということがもたらす驚愕の真実がある。

 それは能力の対価によるものだ。

 結婚の約束が『約束のゆびきり』で行われている以上、次の日に対価を支払っているはず、そしてその当時に僕に降りかかった不幸は楓夏ちゃんの引っ越ししかない。

 言い換えればそれは、引っ越しの原因になった彼女の両親の死は間接的にではあるが僕のせいということだ。

 僕が楓夏ちゃんから大切な人を奪ったのだ……。

 自分の思いが偽物かもしれないという絶望に加え、楓夏ちゃんの両親を殺してしまったという罪悪感が重圧として僕を押し潰そうとする。

 それは、それにより体調を害してしまうのではないかというくらい、僕の心を侵食している。

「啓太、どうかした?」

 キスを終え、僕から少し離れた楓夏ちゃんの言葉で僕は思考から現実へと引き戻される。

 それでも負の感情は心の中で渦巻いて、僕を苦しめている。

「……楓夏ちゃんの言っていた大切な言葉を思い出したよ。それは僕が楓夏ちゃんを守れるくらい強くなって、結婚しようというものだよね?」

 どうにかなってしまいそうな心を抑えて、言葉を紡ぐ。

 その言葉を聞いた楓夏ちゃんは本当に嬉しそうな表情へと変化させた。

 それは僕の胸を痛ませるには十分だった。

「やっと、思い出してくれたんだ! 嬉しい!」

「……一つ訊いていいかな?」

 正直に言って知りたくはないけれど、確認しておかなければならないことがある。

「今なら、どんなことでも答えてあげるわよ」

「……楓夏ちゃんは僕のことをどう思ってるの?」

「え……。な、なにを急に……」

 頬を赤く染めた楓夏ちゃんに対して、

「……正直に言ってくれないかな。大事なことなんだ……」

 と更に返事を要求する。

「……私は、啓太が好き。……小さい頃に結婚の約束をした時から、ずっと」

 それは消え入りそうなほど小さな声だがはっきりと聞こえた。

そしてその返答は僕の心を抉り、更なる絶望へ僕を誘っていく。

 僕は心の奥底で結婚の約束は、もしかしたら『約束のゆびきり』を使用していなかもしれないと希望を抱いていたのだ。しかし、それは違ったようだ。

 もし、楓夏ちゃんが僕のことを好きでなかったなら、『約束のゆびきり』を使っていない可能性もあったのだけど。

 最後の望みを絶たれてしまった僕にある選択肢は一つだ。

 再び胸がズキンと痛む。

「あのさ、楓夏ちゃんに言わなくちゃならないことがあるんだ」

「言わなくちゃならないこと?」

 首を傾げる楓夏ちゃん。

「……うん。約束だけど、守れそうにない……」

「え?」

 これまでの嬉しそうな顔から一変して戸惑いと絶望の入り交じった表情になる。

「楓夏ちゃんと結婚は出来ない……」

「どうして! 啓太は私のことが好きじゃないの?」

「好きだよ! この世で一番愛しているよ!」

 急に自分の気持ちを訊かれて、つい本心を言ってしまった。

 そしてすぐに後悔する。ここで否定しておけば楓夏ちゃんを必要以上には傷つけずに僕のことを諦めてくれたかもしれないと。

 しかし、一度口にした言葉は撤回なんて出来るはずもなく、

「なら、どうしてよ! 私は啓太が好き、啓太も私が好きなら問題ないじゃない。あ! もしかして、勘違いしてる? もちろん、すぐに結婚なんて言わないよ。付き合うことから始めるつもりよ」

 楓夏ちゃんに詰め寄られる形になってしまう。

 僕は一瞬だけ怯んだが、下唇を噛み覚悟を決めることにした。

 こうなってしまった以上、楓夏ちゃんに事実を打ち明けるしかない!

 気持ちが昂っている彼女の両肩にそれぞれ手を置いて、

「……楓夏ちゃん。これから言うことは突拍子もないことかもしれないけれど、信じてほしい」

 そう前置きしてから僕は全てを語った。

 『約束のゆびきり』のこと。

 その能力の対価によって間接的に楓夏ちゃんの両親を死なせてしまったこと。

 僕と楓夏ちゃんが互いに好きなのは『約束のゆびきり』によるもので自分たちの本当の気持ちではないかもしれないこと。

 だから、楓夏ちゃんと一緒にはなれないことを……。

 彼女はそれを黙って聞いてくれていたが、その表情は戸惑いの色が隠せなかった。

 長い沈黙が流れた後、

「……そんなの、信じられる、わけ、ない」

 訥々とではあるが、最初に口を開いたのは楓夏ちゃんだった。

 瞳は今にも涙が零れそうなほど溜まっており、声には震えが混じっている。

「それでも嘘じゃないんだ……」

 その一言を聞いた目の前の少女は両肩に置いていた僕の手を振り切り、走り去ってしまう。

 反射的にそれを引き留めようと思い手を伸ばすが、それは空気を掴むだけだった。

 今の状況を作り出した張本人なのだ。そんな男に引き留める資格も気力もあるはずもなく、伸ばしていた腕がゆっくりと下げる。

 そして、小さくなっていく姿を追うことも呼び止めることも出来ずに、ただそれを見つめるしかなかった。


 私は雨の中を傘も差さずに、行くあてもなく走っている。

 歩道を歩く周囲の人たちはそんな私を見て、驚いた表情になるがそんなことは気にもならない。

 啓太を振り切って、走り出してからすぐに雨が降り出し、それは私の体を一瞬でびしょ濡れにした。

 それでも私は走り続けた。

 そうしていないと、どうにかなってしまいそうだから。

 啓太が言ったことが嘘だとは思っていない。『約束のゆびきり』の話も肝試しの時の流れ星のことを考えたら納得出来る。

 あの時の流れ星は偶然にしては気持ち悪いくらいのタイミングで流れた。むしろ、そんな能力のよるものだという方がしっくりするくらいだ。

 だから、啓太の能力でお父さんとお母さんが死んだというのも本当だと思う。

 でも、そのことで啓太を恨んだりも責めたりするつもりなんてこれっぽちもない。

だって、それ以上に啓太が愛しく仕方がないから。どうしようもないくらい好きだから。

 それでも私がどうにかなってしまいそうになっているのは、私の啓太への想いが偽りかもしれないということのせいだ。

 両親が亡くなって辛くても堪えられたのは、この気持ちがあったから。あの約束があったから。啓太が好きだったから。

 その感情が作られたもの、偽物と言われて平静でいられるほど私は強くない……。

 私にはもうなにもわからない。なにが正しくて、なにが本当なのか。

 ただ、今は静かなところに一人でいたい、そう思うだけ……。

 雨の中を足の赴くままに走った結果、私は路地裏まで来ていた。日中でも明るくない場所が、日が沈んで暗くなったことにより一層、闇を濃くしている。

 ここは大通りから聞こえる喧騒もほとんど聞こえない。耳に入るのは降りしきる雨音だけ。

 無我夢中に走って息切れしていた私は息を整えながら、壁にもたれかかる。

「はあ、はあ、はあ」

 でも、本当にこれからどうしよう……。

 数多くの意味を込めて心の中で溜め息を吐いていると、近くで石が転がる音がした。

 反射的にそちらを振り向くと、路地裏の入り口付近にフード付きの黒いコートを身に纏い、男が佇んでいた。

 フードを被っているため顔はよく見えないが、それよりも私の目を引いたのは右手に持っている包丁である。

 背中に嫌な汗が流れた。

 普通に思考を巡らせれば目の前の人物が何者なのかはわかる。今朝、ニュースで報道されていた通り魔だ。

 私はすぐさま駆け出して、その男から離れようとする。しかし、数歩前に進んでから動けなくなる。

「え?」

私はコート男に腕を掴まれてしまったのだ。

振り返ると下卑た笑みで私を舐め回すように見つめてくる。

恐怖に襲われるが、

「やめて! 離して!」

 と叫びながら必死に抵抗を試みる。

 しかし、男と女では力の差は歴然としていて、逃れることなんて出来るはずもなく、私の行動は無意味と化す。

「誰か!」

 助けを呼ぼうと声は張り上げるものの、私の声は激しく降り注ぐ雨音に掻き消されて誰にも届かない。

 通り魔は掴んでいない方の手に持っている包丁を振り上げて、私に襲いかかる。

 私は無意識に胸にしている啓太がくれた四つ葉のクローバーの首飾りを握って祈った。

 お願い、啓太……。助けて!


 降り注ぐ雨音の中に金属の音が耳に響いた。

 自分では確認することは不可能であるが、十中八九そうなっているであろう死んだような目を音のした足元に向ける。

 そこには僕が肌身離さず持っている楓夏ちゃんからのプレゼントである四つ葉のクローバーの首飾りが落ちていた。

 夏休みに僕の宿題のために学校へ行って、その帰りに互いに買ったものだ。

 どうしてかな、数か月しか経過していないのに、遠い昔の出来事のように感じてしまう。

 楓夏ちゃんが走り去ってからすぐに雨が降り出したが、それでもその場を動く気力がなく微動だにしていなかったのだが、僕はその首飾りを拾うために一人になってから初めて体に指令を送る。

 その時、携帯の着信音が鳴った。

 首飾りを拾い上げていない方の手で携帯の着信画面を見ると、桐生瞬の名前が表示されている。

 通話ボタンを押すと、こちらがなにも言う間もなく瞬の焦った声が耳に飛び込んできた。

『啓太、大変だ! 霧島が通り魔に刺された!』

 最初、瞬の言っていることが理解出来ずにいた。

 そして言葉を反芻するうちに内容を頭の中で把握する。

 それと同時に罪悪感と絶望によって満たされていた心に心配と後悔が侵食を始め、すぐに心の中をそれらが支配してしまう。

 僕のせいだ……。僕が、楓夏ちゃんを一人にしたから。第一、僕は楓夏ちゃんを通り魔から守るために一緒に帰っていたはずだ、それなのに……。

 でも今は、後悔してもなんにもならないと自分を叱咤して、声を荒げて瞬に訊く。

「瞬! 楓夏ちゃんは大丈夫! 無事だよね!」

 焦りから矢継ぎ早に言うと、

『とにかく、天神雪病院に来てくれ! 詳しい説明はそこでする!』

 瞬はそれだけ言って電話を切ってしまった。

 一方的に電話を切られたことに苛立ちを覚えるが、すぐに頭を切り替えて僕は天神雪病院に向かって走り出した。

 楓夏ちゃん、無事でいてよ!

 僕は首飾りを強く握った。


 天神雪病院に到着すると出入り口の前で瞬が傘を片手に待っていた。

「瞬! 楓夏ちゃんは!」

 傘も差さずにびしょ濡れの姿で僕が詰め寄ったため、彼は一瞬だけぎょっとした表情をするが、すぐに真剣な表情になる。

「大丈夫とは言えない……」

 この病院は町では一番大きな病院だ。そこに運び込まれたことから軽傷ではないことは予測していたが、それでも実際に聞くと目眩を起こしそうになる。

 どうにか倒れないように気をしっかり持って、瞬に訊く。

「とにかく説明して!」

 瞬の説明は次の通りだった。

 放課後になって大山くんに海の時と同様に盗撮した僕の着替え写真で買収された瞬は大山くんと女の子数人でカラオケに行った。そこで遊んだ後、大山くんたちと別れて一人で帰っていると、反対側の道路に雨の中を傘も差さずに走って人通りの少ない路地に入る楓夏ちゃんを見かけた。彼女の雰囲気に違和感を覚えた瞬は気になって後を追うと、その場には血の付着した包丁を持つコートの男と血を流しながら倒れている楓夏ちゃんの姿が目に入る。すぐにその場で起きたことを理解した瞬は逃げ出そうとした男を一撃で気絶させて、救急車と僕と僕の両親に電話をしてくれた。そして救急車が到着するまで可能な範囲で応急処置をして待っていたとのことだ。

「それで、病院まで付き添ったわけだ」

 一通りの説明をしてくれた瞬に、僕はずっと動揺している気持ちを抑えながら一番大事な質問をする。

「大丈夫じゃないって言ったよね? それってどういう意味?」

「思っていた以上に出血が多くて、輸血が必要なんだが、霧島の血液型がボンベイ型っていう特殊な血液型だったんだ」

「ボンベイ型だって!」

 僕の知識が正しければ確か、その血液型は他の血液では代替にはならず、同じボンベイ型でないと輸血は不可能だったはすだ。

「ああ、病院には輸血用の血液がないらしいんだ。だから今は俺と啓太の両親、そして病院の人たちで片っ端から知り合いに電話をしてボンベイ型の人を捜してんだよ」

「ああ、僕のせいだ……。僕があんなことを言わなかったら、楓夏ちゃんは……。楓夏ちゃんは……」

 再び自分の犯した過ちを悔やんでいると、

「啓太、なにがあったのかは俺にはわかんねーけど、今は落ち込んでる場合じゃないだろ!とにかく、一刻でも早くボンベイ型の人を探すぞ!」

 僕に対する口調としては瞬らしくない荒い声で僕を叱りつける。

「無理だよ……。知ってるの? ボンベイ型の人は百万人に一人の割合だよ。それを短時間で見つけるなんて不可能に決まってる……」

 でも瞬の言葉は、自分の手で自身の大切な人を失いそうになっている僕の心に響くことはなかった。

 ただ、俯くことしか出来ない。

「確かに、啓太の言う通り可能性は限りなく小さい。でもな、諦めなければ零にはならないんだ! 奇跡は起こるかもしれないんだよ!」

 ……奇跡? そうだ! あるじゃないか! 奇跡を起こす方法が!

 僕は瞬の奇跡という一言で楓夏ちゃんを助ける方法を閃いた。

 それは真っ暗闇のなかで一筋の光明を見つけることが出来たような感覚だ。

 自然と笑みを浮かべてしまうくらい嬉しかった。

「瞬! あるじゃないか! 楓夏ちゃんを救う方法が! 僕には『約束のゆびきり』が!」

 しかし歓喜に震えている僕とは対照的に目の前の親友は苦虫を噛み潰したような表情になる。

 それは『約束のゆびきり』を使う方法を快く思っていないかのような。

「はあ、やっぱり思いついたか。確かに俺も考えたよ。でもその方法はすぐに却下した。どうしてかわかるか?」

「わからないよ!」

 わかるはずがない! 楓夏ちゃんを絶対に助けられる方法なのに!

「忘れたのか? 『約束のゆびきり』には対価が必要なんだ。人の命を救うくらいの約束だぞ? その対価である不幸は凄まじく大きいはずだ。もしかしたら、啓太の命かもしれない。悪いが俺は啓太にそんな危険を冒すようなことはさせられない」

「それでも構わないよ。僕のせいで楓夏ちゃんはこうなったんだ。それに楓夏ちゃんが助かるなら僕は死んでもいい! だから頼むよ、瞬!」

 今の僕には楓夏ちゃんさえ助かるなら、自分のことなんてどうでもよかった。

「……断る。啓太にとって霧島がどれくらい大事なのかはわかってるつもりだ。だが、啓太が霧島を大切に想っていると同じくらい、俺は啓太のことを想ってるんだ。……だから悪いがその頼みは聞けない」

 瞬は本当に申し訳なさそうな表情で頭を下げる。

 確かに今の僕の立場が楓夏ちゃんで、今の瞬の立場が僕だったなら、きっと僕も同じことを言ったと思う。

 だから、瞬の言っていることが理解出来ないわけじゃない。でも……。

 やっぱり、僕は楓夏ちゃんを助けたい!

「……うん、じゃあ、仕方ないね」

 僕は諦めたように装って、彼の横を通り過ぎて病院に入ろうと画策した。

 瞬には悪いが僕は絶対に楓夏ちゃんを助けたい。だから、両親に『約束のゆびきり』のことを説明して瞬の代わりにそれをしてもらうことにしたのだ。当然、対価の話はしないつもりだ。それをして、瞬同様に『約束のゆびきり』を拒否されでもしたら元も子もない。

 ちなみに、諦めた演技をしているのは、このことを瞬に話せば邪魔をするのは明白だからだ。

 そして諦めた演技のまま瞬の横を通り過ぎようとしたのだが、それは叶わなかった。

 僕の体が前に進まなくなったのだ。理由は瞬が僕の腕を強い力で握ったからだ。

「痛っ!」

 痛みのため、呻き声を発しながら顔を顰めてしまう。

「おい! どこに行くつもりだ」

 瞬の声は今まで僕が聞いたことないくらいの低い声だった。

 それには金縛りの効果でもあるかのように僕の体を硬直させる。

「ど、どこって……。そ、それは、あれだよ。えーと、そう! トイレだよ!」

「まさか、俺が気づいてないとでも思うのか? 言っておくが啓太のことなら啓太より知ってるつもりだ。啓太がそんなあっさりと大切な人のことを諦めるはずがねーよね? 大方、おじさんかおばさんに『約束のゆびきり』のことを対価の部分だけを除いて説明して『約束のゆびきり』をしてもらうつもりだったんだろ?」

 背筋が凍るほどの冷たい瞳で僕を見つめる瞬。

 今、はっきりとわかった。これは僕に対して危害を加えた輩にのみ向けられていたものだ。そう、つまりそれは彼が本気で怒っている時の目ということだ。

 正直に言って、万事休すである。

 もし僕が瞬よりも喧嘩が強ければ、力ずくで彼を倒してこの場をどうにか出来るのだが、現実に瞬は僕と比べ物にならないくらいに強い。

なにか方法はないのか……。瞬を倒す方法あるいは納得させる方法が……。

 少しの思考の後、僕は一つの手段を閃いた。

 それはかなり卑怯なやり方だ。そう、それは瞬の僕に対する好意を踏みにじる行為。

 しかし、今の僕にはそれさえ厭わない覚悟があった。

「……あのさ、瞬。勝負しない?」

「どういうことだよ?」

「このままだと埒が明かないよね。瞬も僕も意見を変えないだろうしさ」

「ああ、そうだな」

「だから、勝負をして負けた方は潔く相手に従うってこと」

「まあ、俺としても啓太が『約束のゆびきり』を使うことを諦めてくれるならその方がいいな。よし、その勝負を受けてやる。で、内容はなんだ?」

「……それは、喧嘩だよ」

「な、なに言ってんだよ!」

 僕が圧倒的に不利な条件を提示したことが予想外だったらしい瞬は目を見開くが、僕はそれに構わず説明を続ける。

「ルールは相手を気絶させるか、降参させるかのどちらか一方を満たせば勝ち。制限時間は無制限。これでどう?」

 驚いていた表情を真剣なそれに変えて、瞬は少しの間だけ考える素振りをした後、

「ああ、それでいい」

 と首を縦に振った。

 僕らは邪魔が入らないように人が来ないと思われる建物の裏側へ移動する。

 そこに到着すると瞬は持っていた傘を折りたたんで横に置く、すると未だに降り続いている雨により体中がびしょ濡れになった。

 しかし、瞬は濡れることなど気にせず僕の前に立つ。

「さあ、始めるぞ」

 僕はその返事を体でする。

 瞬に向かって一直線に突っ込んで、そして右ストレートを繰り出す。

「うらああああああ!」

 先手必勝だ!

 だが、それは空を切るだけだった。

「え? あれ?」

 ほんの数秒前にはそこにあった瞬の顔面は僕の視界から消えていたのだ。

 その状況に僕が困惑していると、不意にお腹に強烈な痛みが生じてその場にうずくまってしまう。

 その時になってようやく気づく。瞬が僕の攻撃を屈んで回避した後、お腹を拳で殴られたということに。

「ほら、これで終わりだ」

 目の前の敵は冷たい口調でそう放つと、僕の横を通り過ぎる。

「まだ、だよ……。ぼ、僕は、降参、し、てない」

 ダメージは大きく、立ち上がるので精一杯だったが負けを認めるつもりは毛頭ない。

「はあ、相変わらず諦めが悪いな」

 瞬は呆れたような口調で言うと、凄まじいスピードで僕との間合いを詰めて、僕の首に手刀を繰り出す。

「ぐはっ!」

 それをもろに食らってしまった僕は激しく水の弾く音を立てて地面に叩きつけられる。

 手刀による首への攻撃と勢いよく倒れたことによる衝撃によって、更に体を自由に動かせない状態に追い込まれてしまった。

「もう諦めろ。それ以上やったら、体が壊れるぞ」

 その声は懇願が入り交じったようなものだった。

「……そん、なこと、……し、ない。……僕は、ぜ、絶対……諦めない!」

 体中が悲鳴を上げているが、自分を奮い立たせて立ち上がる。

「……頼む、啓太。もう、諦めてくれ……」

 目の前に立つ瞬は苦悶に満ちた表情でそんなことを口にした。

 それは僕にとって予想通りの展開と言えた。

 最初から彼を倒すつもりなんてない。僕の目的は自分を殴らせることで、瞬の心を折ることなのだ。

 大切な人を痛めつけることは、凄まじい苦しみを伴うもの。

 ごめん、瞬……。瞬の気持ちを踏みにじるようなことをして……。でも、それでも、僕は楓夏ちゃんを救いたいんだ……!

 もう、言葉を発することもなく、首を横に振ることでお願いを断る。

 すると、目の色を変えた瞬の拳が素早い動きで僕の顔面に襲いかかり、

「……俺の負けだ」

 という言葉と共に眼前で停止した。

 そして僕に向けている拳を下ろして、更に続ける。

「……俺にはこれ以上、啓太を傷つけることなんて出来るかよ。本当、卑怯だ。こうなるのを予測して勝負を提案したのか……。ほれ、時間がないんだ。やるぞ!」

 そう言って、顔を背けながら小指を立てる瞬。

 そして、応じるように僕も小指を立ようとするが、その前に僕は自分の気持ちを伝えることにした。

「本当に、ごめん。そして、ありがとう、瞬」

 今、言っておかなければ、もう二度と言えないかもしれないと思ったのだ

 だって、瞬の気持ちを裏切るようなことをした僕を許してくれるはずがないだろう。

「おい! 俺をバカにしてんのか?」

「へ?」

 素っ頓狂な声を上げてしまう。

「その切なそうな表情からして、俺の気持ちを裏切るようなことをしたから、俺が啓太を許さないとか考えてるだろ?」

 恐ろしいまでの的中に困惑していると彼は続けて、

「その顔は図星だな。本当、俺は啓太のことを理解してるのに、啓太は俺のことを理解してないんだな。こんなことで俺の好きな気持ちが変わるはずないだろ。てか、人を好きになるってのは相手の全部を受け入れるってことだろ?」

「……うん」

 そうだ、忘れていた。瞬の僕に対するの想いは僕の楓夏ちゃんの想いと同じなのだと。

 思わず笑みが零れてしまう。

「おい! なに笑ってんだよ?」

 不思議そうな表情で尋ねる瞬の質問には答えず、ただ僕は笑い続けるのだった。


 どこまでも続く真っ白い空間、そこには地面もなく私は浮いているようにその場に立っていた。

 あれ? ここは? 私は確か啓太の前から走り去って、人気のない路地裏に入ったはず。

 そして、その場で通り魔に刺されたことを思い出す。

 じゃあ、私は死んだのかしら? この殺風景な真っ白い世界が黄泉の世界?

 自分でも驚くくらい冷静にそんなことを考えていると、目の前の空間が人の形のように歪む。

 そして、それは徐々に私の知っている人物へと変化した。

「啓太!」

 思わず叫んでしまうが、啓太はそれに驚くこともなく微笑を浮かべている。

 そして、目の前の人物はその表情のまま、

「さよなら、楓夏ちゃん」

 と一言だけ口にすると私に背を向けて歩き出す。

「ちょっと、待ってよ!」

 私は彼を追いかけようとするが、足を動かしているのに前に進まない。

 一歩も進まない私と歩き続ける啓太の距離は広がっていく。

「待ってよ! 私を置いて行かないで! 啓太!」

 叫んだ瞬間、目を開けていられないくらいの光がこの真っ白い空間を包んだ。


 長い輝きの末、次に私が目を開いた時に広がっていた光景は真っ白い空間ではなく、どこかの部屋だった。

 私はどうやらベッドで寝ているらしい。

 ゆっくりと体を起こすと、

「やっと、目を覚ましたか」

 近くで急に声がした。

振り向くと、そこには少々気怠そうな桐生くんが椅子に座っている。

「……ここは?」

 自分のいる場所も置かれている状況も完全には把握できていない私は目の前の彼に訊いてみた。

「病院だ。通り魔に襲われたのは覚えてるか?」

「ええ」

 その時の恐怖を思い出し、体が震えた。

「偶然だが、雨の中を走ってる霧島を俺が見つけてよ。様子が変だったから追いかけたんだ。そしたら、路地裏で倒れたお前と血の付いた包丁を持った男がいたから、男を倒してから救急車を呼んだってわけだ。ちなみに、俺がここにいるのは啓太の両親が色々と用事があってな、代わりでお前が目を覚ますのを待ってたんだ」

「そう、なんだ……。ところで、その、啓太は?」

 心が落ち着いてきたところで、啓太のことが色々な意味で気になったのだ。

「それに答える前に訊きたいことがあるんだが」

「え? なに?」

「九年前に両親が亡くなって、葬式はこっちでしたのか?」

 正直に言って、私には質問の意図が理解出来なかった。

「どうして、そんなことを訊きたがるの?」

「大事なことなんだ。啓太にとっても、お前にとってもな」

 私は首を傾げながらも、

「ええ、こっちでしたわよ。お父さんとお母さんにとってこの町が故郷だから。お墓もこの町にあるし」

 答えると彼は納得したような表情になる。

「やはり、俺の予想通りだったか」

「なにを言っているのよ? 私にもわかるように説明してくれない?」

「啓太に聞いたんだが、啓太と霧島は小さい頃に『約束のゆびきり』でなにかを約束したらしいな。まあ、なにを約束したかまでは啓太も教えてくれなかったがな。ちなみに、啓太がお前に『約束のゆびきり』について教えたことも聞いてる。おっと、脱線したな。まあ、約束の内容自体は俺にはどうでもいい。だが、問題なのは『約束のゆびきり』の対価だ」

 啓太が桐生くんにも秘密を話していたことは、自分だけに教えてくれたと思っていた私としては無性に寂しさを覚える。

「霧島は啓太にその時の『約束のゆびきり』の対価はなんだったかとか聞いたか?」

 私は記憶の糸を手繰り寄せる。

「えっと、確か、私の引っ越しだったと思うけど」

「ああ、啓太もそう言ってた。でもな、俺は疑問に思ったんだ。『約束のゆびきり』をした日に霧島の両親は亡くなった。その後に葬式をお前は行ったと言っている。だったら、変じゃないか?」

「あ! 確かにそうだわ!」

 ようやく、私も桐生くんの言いたいことを理解する。

 啓太の話では『約束のゆびきり』の対価はその次の日に降りかかる。つまり、結婚の約束をした次の日に起こるはず。でも、私が引っ越したのお葬式の後だから『約束のゆびきり』をした次の日であるはずかない。

「そうだ、『約束のゆびきり』の本当の対価は別にあるということだ」

 私はそれを聞いて自分が少し安堵していることに気づく。

 きっとそれは、両親の死と啓太の『約束のゆびきり』には関係がなかったことで、啓太がそのことで罪悪感を覚える必要がなくなったことが理由だと思う。

「あれ、でも、そうだとしたら、対価はなんだったの?」

「それはおそらく、記憶の封印だろうな」

「え?」

「これも啓太から聞いたのだが、啓太は霧島との約束を忘れていたらしいな。しかも、それを思い出そうと色々な努力をしたが無駄骨だったとか?」

「ええ、ようやく思い出してくれたのよ」

 私は啓太にキスをしたことを思い出し、顔が火照ってしまう。

 そんな私を無視して彼は続ける。

「まあ、俺の予想だが、その忘れていたこと自体が『約束のゆびきり』の対価だったんじゃないかと思う。そして、思い出したのは、偶然にもその思い出すための条件を満たしたんだろうな」

 じゃあ、キスがそうだったってことかしら?

 再び自らその時のことを思い浮かべてしまい、顔を真っ赤に染めてしまう。

「……ちょ、ちょっと待って!」

 私の中でこれまでの会話で、ある疑問が浮上した。

「ん? なんだよ?」

「あ、あのさ、私と啓太の話をどこまで知っているの?」

「なにを今さら。九年前に二人がした『約束のゆびきり』の具体的な内容と啓太が約束を思い出した時に二人がしたこと以外は聞いてるよ。この二つだけは、どうしても啓太が教えてくれなくってな」

 平然とした表情で答える彼。

 他人に自分たちの秘密の多くを知られているとわかって、私は恥ずかしくて穴があったら入りたいような気持ちになる。

 そんな繊細な乙女の心にも気づかず、

「じゃあ、お前の知りたがっていた啓太のことを教えてやるよ……」

 と言い出す。

 少し文句も言いたくもなったけれど、啓太の話の方が大事だと判断して黙って聞くことにした。

「……啓太はもういない」

「な、なにを言っているの? ど、どういうこと?」

 桐生くんの言葉の意味が私には理解出来なかった。

「順を追って説明する。さっきも話したが、お前は病院に搬送された。発見が早かったから大量の出血はしていたが、輸血さえすれば問題ない状態だった」

「ちょっと、待って! 私の血液は……」

「ああ、そうだ。今、霧島が考えてる通りだ。稀血であるお前の血はこの病院にストックされていなかった」

「え? じゃあ、私はどうして助かったの?」

 頭の中は混乱してしまっている。

「啓太のおかげだ。啓太がお前を助けるために『約束のゆびきり』を俺としたんだ」

「啓太が……」

 私を助けるために『約束のゆびきり』を使ってくれたことに嬉しさが込み上げてきた。

 彼は更に話を続ける。

「しかも、『ボンベイ型の人を見つける』と約束すれば問題ないと俺が提案したのに、自分で助けたいから『啓太が霧島を助ける』っていう約束にしたんだ。つまり、自分をボンベイ型にしたってこと」

 そこで、すぐにあることに気づいてはっとする。

「気づいたか、察しがいいな。俺と啓太が『約束のゆびきり』をする段階では誰一人としてボンベイ型の人間はいなかった。つまり、啓太の両親もボンベイ型ではないってことだ。その条件下で啓太自身がボンベイ型という事実を成立させるには、啓太が両親とは血の繋がらない親子でなくてはならない。俺の言いたいことはわかるよな?」

 私はこくりと頷く。

「わかってるなら言うまでもないと思うが、啓太は親との血縁を失ってでも自分で霧島を助けたかった。それだけ啓太はお前が好きだってことだ。俺としては腹が立つけどな」

 私の心には二つの感情が内在している。

そこまで私のことを想っていてくれていることが純粋に嬉しいという気持ちとその想いが偽物かもしれないという寂しさ。

 そんな複雑な気持ちでいると、

「……で、ここからが本題だ」

 と重苦しい雰囲気で桐生くんが言うのだった。

「え?」

「霧島も知っての通り、『約束のゆびきり』には対価がある。そして今回、啓太は人の命を救う約束をした」

 心臓が早鐘を鳴らし始める。

 まさか……。嘘でしょ?

 不安で心を満たされている私に構わず、彼は続ける。

「そんな『約束のゆびきり』の対価だ。……自分の命を支払うことになってもおかしくはないよな?」

 お願い、もう、やめて……。それ以上、言わないで……。聞きたくない……。

 そんな心の声が桐生くんに届くはずもなく、

「……啓太は、死んだ」

 彼は私を絶望の淵へと追いやる言葉を容赦なく告げたのだった……。


 啓太の死を知ってから三日が経過したが、私は未だに病院に入院している。お見舞いには誰も来ていない。多分、桐生くんが私を一人にした方がいいと判断して、みんなに行かないように言ったのだと思う。

 あれからずっと、胸にぽっかりと穴が開いてしまったような虚無感が私を苛む。

 啓太のいない世界なんて私にとっては意味のないもの、本当にそう思えてしまうくらいになにもかもがどうでもよく感じてしまう。

 私も死のうか……。

 そう思うがそれも私には許されない。

 なぜなら、啓太の死を告げた後、放心状態になってしまった私に部屋を出る前に桐生くんが『言っておくが、お前に死ぬことは許されないからな。啓太のおかげで生きているんだ。辛くても苦しくても生き続けることがお前の義務だ』と言ったのだ。

 正直に言ってどうして私だけがこんな辛くて苦しい思いをしないといけないのか。

 四階にあるこの部屋の窓から見える中庭では患者とその家族が楽しそうにしている。それを目にするとより一層、胸を引き裂かれるような痛みを感じてしまう。

 私は一生、この苦しみに堪えて生きなくていけないの?

 しかし、この問いに答えてくれる者はいない。

「……啓太、会いたいよ。」

 心からそう切に願った。

 そこへ、扉をノックする音が聞こえる。

 誰とも話す気にはならないが、このまま放っておくのも忍びないのでノックに応じることにした。

「……どうぞ」

 扉の方に顔を向けることなく返事をした。

 すると、扉のある方から扉が開かれる音と共に誰かが入ってくる気配を感じる。

「楓夏ちゃん、調子はどう?」

「え?」

 私は自分の耳を疑った。

 だって、扉から入ってきた人物の声は私が今一番に聞きたいものだったから。

 すぐさま、その声の主のいる方に目を向けた。

 そこには私が今一番に見たいものがあった。

 そう、扉の前に立っているのは啓太なのだ!

 自分の聞いているものが幻聴、そして見ているものが幻覚ではないかと疑ってしまう。

「どうかした?」

 啓太は首を傾げてこちらへと近づいてくる。

 私はベッドから降りて、目の前のそれが幻覚でないことを確かめるために彼に歩み寄る。ところが、その途中で私はタイルの隙間に足を引っ掛けてしまい転びそうになった。

「きゃあ!」

「ふ、楓夏ちゃん!」

 視界が地面へとスローモーションで接近する。しかし、それは途中で停止した。

 啓太が私を抱き留めてくれたのだ。

 体に伝わる彼の温もり、私の髪を揺らす彼の吐息、咄嗟に助けてくれる優しさといった全てが本物の啓太だと示す。

 すると、急に目頭が熱くなって、数秒後にはダムが決壊して涙が零れ始める。

「え? ど、どうしちゃったの? 僕、なんか泣かせるようなことしちゃった?」

 嬉しさから流れる涙に啓太は慌てふためく。

「違うの……。すごく、嬉しくて。……だって、啓太が……。啓太が……」

 どうにか啓太に桐生くんからの話をしようと思うのだが、感情が昂っていてうまく言葉を発することが出来ない。

「えっと、説明は落ち着いてからでいいよ。でも、そろそろ自分で立ってくれないかな。僕の理性も限界なんだけど」

「え?」

 顔を真っ赤に染めた啓太に言われて、自分が未だに啓太と抱き合っていることに気づいた私は啓太にも負けず劣らず顔を真っ赤に染めるのだった。


 啓太が生きていたという事実を知って混乱していた私は落ち着いてからベッドに戻り、啓太は椅子に座った。

 桐生くんから啓太が『約束のゆびきり』の対価で死んでしまったと聞かされたことを伝えると、

「瞬の奴……」

 と溜め息交じりに呆れたような口調で言った。

「……楓夏ちゃん、瞬の嘘は多分だけど、サプライズのつもりだったんじゃないかな」

「じゃあ、もしかして、私を助けるために『約束のゆびきり』をしたこと自体が嘘だったってこと?」

 期待の混じった声で訊く。

「ううん、それは本当だよ」

 それに対して啓太は今日の天気を訊かれているような平然とした表情で言うが、私は申し訳ない気持ちになってしまう。

「え、それじゃあ……」

「うん、そうだよ。僕はもうお父さんとお母さんの本当の子じゃないよ」

 私の表情から言いたいことを察したらしい啓太はこれもまた平静のまま口にする。

「ねえ、啓太……。もしかして、私のことを気遣ってくれているの?」

「ん? どういうこと? あ! そういうことね。楓夏ちゃんは僕がお父さんとお母さんの本当の子供じゃなくなって傷ついていると思ったんだね」

 私が首肯すると啓太は続けた。

「それは見当外れだよ。血が繋がってないからって絆がなくなるわけじゃない。僕と両親の間にはちゃんと親子の絆があるから。だから、僕は気になんてしてないよ」

 微笑んだその表情からはそれが嘘偽りない言葉であることが窺えた。

「こっちこそ、ごめんね。今日まで来れなくてさ。来られれば瞬の嘘なんかで楓夏ちゃんに辛い思いをさせなくて済んだのに」

 今度は啓太の方が申し訳なさそうな表情になって、私に謝罪の言葉を述べる。

「気にしないで、私は啓太が生きていてくれただけで嬉しいから。でも、どうして来れなかったの?」

「えっと、それは、さ。恥ずかしいんだけど、ずっと雨に打たれていたから風邪を引いてさ。昨日まで寝込んでたんだ」

 それを聞いて、先ほどとは違う理由で少し申し訳ない気分になる。

 私が原因よね……。

「その、ごめんなさい」

「え? なんで謝るの?」

「だって、啓太が風邪を引いたのは私のせいだから……」

「それは違うよ! 僕の自業自得だよ。だから、楓夏ちゃんが気にすることはないよ」

 啓太がそう言ってくれたことで私の心は少し軽くなる。

 そこで、私はふと疑問が浮上して、啓太に尋ねた。

「啓太が死ななかったのは嬉しいけれど、それなら『約束のゆびきり』の対価ってなんだったの?」

「ああ、それね。楓夏ちゃん、ゆびきりをしようよ。内容は今すぐ楓夏ちゃんを退院させるでいいかな」

「え? どういうこと?」

 突然にそんなことを言うので戸惑っていると、啓太は私の小指を自分の小指に絡めて、

「とにかく『約束のゆびきり』をしたらわかるからさ」

 私にゆびきりをするように勧めた。

「ゆーびきり、げーんまん、うそついたら、はりせんぼんのーます」

 二人の声が重なって、静かな病室に響き渡る。

 『約束のゆびきり』をした後、啓太は立ち上がって扉まで移動すると、それを開けて近くにいた看護師を呼び止めて言った。

「すみません。彼女を今すぐ退院させてもらえませんか?」

「ちょっと、きみ。そんなこと出来るはずないでしょ。私も忙しいから冗談を言うために呼び止めないでくれるかしら」

 そう言うと、看護師は少し怒りながら歩き去ってしまう。

 啓太は私の方を振り返って、微笑みながら口にする。

「つまり、こういうことだよ。『約束のゆびきり』を使えなくなることが楓夏ちゃんを助けたことの対価だったんだ」

 こちらへ戻ってくると再び椅子に座る啓太。

 正直に言って、私は複雑な気持ちだった。

 啓太が大変な事態になっていないことに対する安堵と私のせいで啓太の能力がなくなってしまったことに対する罪悪感が入り交じっている。

「言っとくけど、僕は能力を失ったことを後悔してないよ。楓夏ちゃんが助かったんだから」

 私の心を読んだのかと思えてしまうくらいの言葉を啓太は微笑みながら発した。その笑顔は私を安心させるには十分なものだった。

 心が落ち着いたことで、ついでにもう一つ気になっていたことを訊いてみた。

「あのさ、どれくらい前から桐生くんは啓太の『約束のゆびきり』のことを知ってたの?」

 一見すれば大した質問ではないように思えるが、私にとっては重大なことなのだ。

啓太が私より先に桐生くんに教えていたことに対して多少なりともショックを受けている。

 私の言葉を聞いた啓太は表情を暗く変化させ、少しの間だけ沈黙の後、なにかを決心したような表情になって話し始めた。

「……中学校に入ってすぐに、僕は人助けで『約束のゆびきり』を使ったことがあったんだけどさ。でも、その対価で学校の人たちから無視されてたんだ。……そんな無視される日々が一か月くらい経過した頃に瞬が転校してきた。そんな彼は普通に僕に話しかけてきた。どうやら『約束のゆびきり』は転校生には効果がなかったみたいなんだ。一人だった僕にとって彼は救いだった」

 この時、私は以前に啓太の家で見せてもらったアルバムの中学生以降の写真には啓太と写っているのが桐生くんだけだった理由を理解した。

「それからはずっと一緒だった。そしてある時、瞬は自分が同性愛者で更に僕のことが好きだ告白してきた。戸惑いはしたけど偏見を持ったりはしなかったよ。だって瞬がどんな奴かはよくわかってたから。彼の想いには応えられなかったけど、自分の全てを曝け出してくれた彼に対して僕も自分の秘密である『約束のゆびきり』について語ったんだ」

 啓太と桐生くんの間には簡単には言い表すことの出来ない絆があるのね……。

「……あのさ、僕も楓夏ちゃんに一つ訊きたいことがあるんだけど」

 過去の話を終えた啓太がなにかを決意したような真剣な表情で尋ねてくる。

 直感だけれど、今から啓太が言うことは私と啓太のこれからを大きく左右するように思えた。

「な、なに?」

 喉を鳴らして次の言葉を待つ。

「今でも、楓夏ちゃんは僕のことが好き?」

「好きに決まっているでしょ」

微笑んで即答する。例えこの返答でこの先がどうなろうとも、私にその答えに迷いなんてない。

それを聞いた私の好きな人は嬉しそうに微笑んで話し始める。

「楓夏ちゃんに全てを伝えた時に僕の楓夏ちゃんへの想いも楓夏ちゃんの僕への想いも偽物かもしれないって言ったよね。でも、もし今でもその想いが変わっていなかったなら、それは本物。だって『約束のゆびきり』を失った今、それによる効果は全て消えているから」

 啓太の話を聞いている時から私の心音は凄まじい速度で音を奏でていた。

 心を落ち着かせるように、一度だけ深呼吸をして今度はこちらから尋ねる。

「啓太は……。啓太は、私のこと、好きなの?」

「これが、僕の返事だ」

 そう言うと啓太は自分の唇を私の唇に重ねた。

 一瞬にして自分の頬が熱くなるのを実感する。そして、目の前には同じく顔を真っ赤にした啓太の顔があった。

 彼の返事に心が弾む気持ちになっていると、二人を祝福するかのように互いの胸にある首飾りが触れ合って小気味よい金属音を奏でるのだった。


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