第二章 みんなで海へ行こう!
楓夏ちゃんが僕の家に来てから一か月が経過した。
この一か月間、放課後になると僕はずっと小さい頃に行った場所に足を運んだ。理由はもちろん、楓夏ちゃんに言った思い出の言葉を記憶から呼び起こすためだ。
しかし、全く収穫は得られず、もうすぐ夏休みに入る。でもそれさえ始まれば、今まで以上にいろんなところへ行けるはずだ。
「なあ、お前らは夏休みに予定とかってある?」
僕と瞬がいつものように二人で昼食を食べていると、太ったクラスメイトが話しかけてくる。
ちなみに、今の僕の昼食はお弁当である。一か月前、体育倉庫の中に楓夏ちゃんと閉じ込められた次の日の朝、彼女が購買でパンを買ってばかりいたら栄養が偏るということで、楓夏ちゃんのお弁当を作るついでに僕の分も作ってくれるようになったのだ。これがまた、すごく美味しい。ただ、瞬はなぜ自分に頼んでくれないのだと拗ねていたが、男のお弁当なんていくら美味しくても食べたくないと思うのが普通だろう。ちなみに、お弁当の横に置いてある飲み物が牛乳なのは触れないでほしい。
太ったクラスメイトが話しかけてきたのは楓夏ちゃんが作ってくれた外はカリッと中はジューシーな唐揚げを頬張っているそんな時だった。
「なんか用かよ、変態デブ!」
僕の前に座って、自身で作ったお弁当を食べていた瞬が急に不機嫌になり、いきなり悪態を吐く。
「お前には変態なんて言われたくねーよ。この男色野郎!」
「はっ! 女なんかのケツを追ってる上に、全く相手にされてねー奴が偉そうによく言うぜ。俺は別に嬉しくもねーけど、お前と違って、女なら向こうからやってくるぜ」
「くそー、どうして神様はこんな野郎をイケメンにしたんだ! なぜ、俺をイケメンにしてくれなかったんだー」
彼は膝をついて嘆き始める。
教室で昼食を食べていたクラスメイトはこの哀れな青年を汚物でも見るような目で見ている。特に女子からの視線が凄まじかった。
この女子から嫌悪の対象にされている彼は僕のクラスメイトの一人で大山権平という。彼は三度の飯より女の子というくらい女の子が好きな変態だ。先ほどのやり取りからもわかるように、瞬とは犬猿の仲だ。彼女いない歴イコール年齢なのは言うまでもないことだと思う。
余談だが、楓夏ちゃんが転校してきた日の質問タイムで最初に挙手をして、スリーサイズを訊いた人物でもある。
「あのさ、大山くん。僕たちに用があったから来たんでしょ?」
このままクラスメイトの視線を浴び続けるのは困るので、話題を戻すことで悲観になっている彼をこちらに呼び戻すことにした。
「ん、ああ、そうだった。お前らに訊きたいことがあったんだよ」
「僕たちに訊きたいことって?」
「俺のおじさんが海の近くで民宿をしてるんだけど、夏休みのある期間は一部改装工事をするからということで営業してないんだ。それで、おじさんにその期間だけ無料で宿泊させてやるから遊びにこないかって言われてさ」
「……だから?」
退屈そうな態度を全く隠さずに話を聞いていた瞬がこれまた面倒そうな口調で言う。
「あー、どうして可愛い女の子たちはこんな奴がいいんだ!」
「そんなこと知るかよ。女子に訊けばいいだろ? まあ、相手にしてくれればだけど」
このままでは、またもや大山くんが膝をつきかねないので、再び脱線した話題を元に戻す。
「つまり、大山くんは僕たちをその民宿に誘ってくれてるんだよね?」
「ああ、その通りだ。沢村は話が早くていいぜ」
「でも、どうして僕たちなの?」
親の仇を前にしているくらいの目で瞬を睨みつける。
「それは、俺だけだと女の子が誰一人として、首を縦に振ってくれねーんだよ!」
ああ、そういうこと。女の子からモテる瞬を使って、女の子に参加してもらうという算段か。
「俺がお前の喜ぶことをすると思うのか?」
ずっと大山くんに嫌悪の視線を向けていた彼の頼みの綱が、自身が優位の立場にいることを理解して嗜虐的な笑みを浮かべる。
「……本当に、嫌な性格してやがるぜ。じゃあ、沢村も参加させるなら、お前にもメリットがあるだろ?」
「よし、行ってやる!」
瞬は凄まじい早さで首を縦に振った。
「ちょっと、僕は行くなんて……」
変態二人は僕の声など聞こえないようで、勝手に話を進める。
えーと、僕の意見は完全に無視ですか?
そんなことを心で呟いているうちに、僕の意思に関係なく参加することが決定していた。
授業が終わり、帰り支度をしていると瞬がやってくる。
「今日もやっぱり一緒には帰れねーのか?」
「うん、ごめん。今日も色々と行きたいから」
楓夏ちゃんに言った言葉を思い出すために放課後に色んなところに足を運ぶようになってから瞬とは帰っていない。彼には悪いが一人で行った方が思い出せそうな気がするのだ。
「そっか、じゃあ仕方ねーよな。さっさとその大切な言葉とやらを思い出して、俺と帰ろうぜ」
そう言いながら瞬は、手を振って教室を出て行った。
「ねえ、ちょっといい?」
瞬を見送った後、声をかけられる。声のした方を振り向くと、顔を少し赤らめている楓夏ちゃんがもじもじと体を動かしながら立っていた。
その仕草が妙に愛らしくてどきりとしてしまう。
「どうかしたの?」
「えと、その、言いにくいのだけど、ちょっと、付き合ってほしいの」
「ちょ、ちょっと。そ、そんな、き、急に言われても!」
告白なんて全く予想もしていない展開にしどろもどろになってしまう。
「べ、別にいいでしょ。ど、どうせ帰宅部で暇でしょ?」
「……え、暇?」
「ええ。だから、買いものに付き合ってほしいって言っているのよ」
そこでようやく僕が恥ずかしい勘違いをしていることに気づく。瞬く間に頬が紅潮していくのが自分でもわかった。
「そ、そうだようね。うん、そうだよ」
「ちょっと、どうしたのよ?」
「え、あ、うん。な、なんでもないよ。か、買いものだね、べ、別に構わないよ」
うわー、は、恥ずかしすぎる。楓夏ちゃんが僕の勘違いに気づいていないのが、唯一の救いだな。
訝しんだ目で楓夏ちゃんがしどろもどろになっている僕を見つめる。
「さ、は、早く行こうよ。暗くなる前にさ」
「あ、ち、ちょっと」
これ以上の詮索をされないために、彼女の背を押して教室を後にするのだった
僕と楓夏ちゃんは駅前のショッピングモールに到着する。ここは以前、瞬と映画を観にきた場所だ。この町で一番大きいショッピングモールなので大抵のものはここで手に入る。
てか、周囲の視線が痛いんですけど……。
僕たちはすごく目立ってしまっていた。ここに来るまでもそうだったが、行き交う人々が僕らを目にするたびに立ち止まっては、こそこそと話し始める。内容は綺麗な楓夏ちゃんに対する賞賛とその隣にいる男である僕への罵倒だった。
「啓太、どうかしたの? すごく、ぐったりしているけど」
「だ、大丈夫だよ……。楓夏ちゃんの気のせいさ……」
「そう、それならいいけど」
しかもご覧の通り、当の本人は注目されていることに全く気づいていないのだ。
「ところで、なにを買うの?」
「え、えと……。まあ、い、行けばわかるわよ」
恥ずかしそうにする楓夏ちゃんに対して、首を傾げるしかなかった。
楓夏ちゃんに連れられて到着したところは男の僕が来てはならない場所で聖域であった。
「あ、あのさ、楓夏ちゃん? ここって女性用の水着売り場だよね……」
「ま、まあ、そ、そうね」
二人して顔を真っ赤にして恥ずかしがっている僕たちの目の前には多種多様の女性用の水着が並んでいる。
お、女の子の水着ばかりだ……。し、しかも、周囲にいる女性客が僕を奇異の目で見てるんですけど。
「ど、どうして、ぼ、僕をここに、つ、連れてきたの?」
「えっと、あの、それは。大山くんに海に誘われたから水着の購入をしようと思ったんだけど、女の私だけの好みで買ってしまったら、男の人から見た時に変に映るかもしれないかなと……。だから、男性である啓太に一緒に選んでもらいたくて、ね」
「そ、そういうこと……。てか、楓夏ちゃんも誘われたの?」
「うん、まあ、啓太も行くならと思って参加させてもらうことにしたの」
「僕の家に泊まってるからって、別に僕に遠慮することないよ。もし、楓夏ちゃん一人でも行っていいんだからね」
「はあ、啓太のバカ……」
「え? なにか言った? 聞こえなかったんだけど」
「なんでもないわよ! それより、水着を選ぶわよ!」
僕、怒らせるようなこと言ったかな?
会話をしている間は落ち着いていた動悸も周囲の状況を思い出した途端に再び始まった。
水着に囲まれているだけで、今にも心臓が凄まじく脈を打っているのに、楓夏ちゃんの水着姿なんて目にしてしまったら、破裂してしまわないだろうか。
「じ、じゃあ、まずは私がいくつか選んで試着するから、その中で啓太の気に入ったのを選んで」
「あ、ちょっと!」
僕の制止を無視して、楓夏ちゃんは自分の気に入る水着の物色を始めた。
数分もしないうちに数点の水着を手に戻ってきた楓夏ちゃんの表情はこれまで以上に真っ赤に染まっている。
楓夏ちゃんも恥ずかしいのにそれを押し殺しているのが見て取れた。
他人に可愛く見える水着を購入するために、そこまでの恥ずかしさに耐えられるなんて、女の子って本当にオシャレのためには労苦をいとわないんだな……。
「じ、じゃあ、試着室へ行くわよ!」
「……う、うん」
試着室までの短い距離を隣で歩く楓夏ちゃんの横顔は、まさにこれから戦場へと向かう兵士のような覚悟を決めた勇ましい表情だった。
楓夏ちゃんが試着室に入ると、閉められたカーテンの奥から衣擦れの音が聞こえてくる。
その音で変な妄想してしまい、ただでさえ通常より波打っている心拍数が更にスピードを増した。
「け、啓太……。じゃ、じゃあ、カーテンを開けるわよ」
ま、まだ、こ、心の準備が……。
僕の心の言葉など聞こえるはずもなく、楓夏ちゃんはカーテンを開ける。
現れたのは白のビキニに水色のパレオを身に包んだマーメイドだった。
「……ど、どうかな?」
目の前のマーメイドが少し恥ずかしそうに尋ねるまで、予想以上の衝撃に感想の言葉を発することさえ忘れてしまっていた。
「……え、あ、うん」
「反応が薄いけど、もしかして似合って、ない……?」
「そ、そんなことない! すっごく、似合ってるよ! もう、お持ち帰りしたいくらい!」
「……え?」
あ、しまった……。
楓夏ちゃんにはこの水着が似合っている。それは断言出来る。だから、見惚れていて反応が薄かったせいで、楓夏ちゃんがこの水着を諦めるなんて絶対にあってはならないと思い、本心を口にした。だが、言い過ぎてしまった。
「ち、違うんだ! い、今のは、その、あれだよ! すごく良かったから言い間違えただけなんだ! 本当は大人っぽいと言いたかったんだよ」
笑って誤魔化そうと試みる。
「うーん、ちょっと怪しいけど、この水着が私に似合っているのはわかったわ」
そう言うなり、再びカーテンを閉めて制服に着替えてから試着室から出てくる。
「あれ? 他の水着はいいの?」
「お持ち帰りしたいくらい似合ってたんでしょ?」
楓夏ちゃんに悪戯っぽく言われ、恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちになる。
そして笑いながら彼女は、レジでさっきまで試着していた水着を購入した。
「えっと、じゃあ、帰ろうか」
「なにを言っているの? 次は啓太の水着を買いに行くのよ?」
「え、どういうこと?」
「だって、啓太もまともな水着を持ってないでしょ? それに今度は私が女の子から見たかっこいい水着を選んであげる」
「べ、別に、僕は――」
いいよ、と続ける前に楓夏ちゃんに腕を組まれて、ぎょっとしてしまい言葉を発せられなくなってしまう。
楓夏ちゃんの弾力ある豊満な胸が僕の二の腕に触れ、心臓が奏でる音が急に一分間の回数を増やす。
ちょ、ふ、楓夏ちゃん、これは刺激が強すぎるよ!
そんな僕の心中などお構いなしに彼女は男性用水着売り場へと連行していくのだった。
もちろん、こんな状態で思考がまともに機能するはずもなく、僕は楓夏ちゃんに言われるままに水着を購入したので、どんな水着を彼女が選んだのかさえ理解出来なかった。
私と啓太がショッピングモールで水着を購入して、啓太の家に帰ると、リビングダイニングキッチンでおばさんがテーブルの上に分厚い本のようなものを置いて、それをゆっくりとめくりながら見ていた。
「おばさん、なにを見ているんですか?」
「あら、楓夏ちゃんに啓太、おかえり。アルバムを開いていたのよ」
そう言って、おばさんは私たちに目の前のものを見せてくれた。
その瞬間、啓太の表情が一瞬だけ渋面になった気がした。
「どうかしたの?」
「え、な、なにが?」
「ちょっと渋い顔をしてたから」
「そ、そうかな? そんなことないと思うよ」
気になった私は啓太に尋ねてみるものの、気のせいともそうでもないともつかない返答をされてしまう。
「あら、どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
おばさんは私と啓太のやり取りを不思議に思ったみたいだった。
「それならいいけど。ねえ、楓夏ちゃん一緒に見ない?」
「はい、見たいです」
「ちょっ、お母さん!」
アルバムの主役である本人は顔を赤くして抗議しているけれど、私とおばさんはそれを無視した。
私が引っ越してからの啓太のことを知れるのがちょっと嬉しかったりする。
アルバム内の写真は幼稚園、小学生と順番になっていた。
ページをめくる度に少しずつ成長していく啓太の写真を目にしていると、なぜかそれに比例して私の頬が緩んでいくのだった。
中学生のページに入ったあたりで違和感を覚えた。理由は中学生以降の写真は全て啓太の親友である桐生くんとのものだったからだ。
「ねえ、啓太。中学生からの写真は桐生くんとばかり写っているのだけど、他の人とは全く写真を撮ってないの?」
「う、うん。瞬とは中学で知り合って仲良くなったからね……」
啓太は笑ってはいるのだけれど、それは作り笑いのようにしか感じられない。
中学時代になにかあったとしか思えなかったが、私の方からこれ以上のことを訊くことは出来なかった。
夏休みに入ってから、三週間が経過した。
予定通り楓夏ちゃんの大切な言葉を思い出すために、暑い中をあちらこちらと歩き回ったが、全て空振りに終わってしまった。
今は息抜きも大切だということで、趣味であるジグソーパズルを片手に板チョコを持ちながら、朝から自分の部屋の中央で行っていた。
僕の部屋の壁には数多くのジグソーパズルの完成品が飾られている。しかも、壁にあるものが全てではなく、飾れないものは机の横に立てかけてある。
「よし、あと少しで完成だ」
現在、僕がやっているジグソーパズルはビッグベンを中心にしたロンドンの街並を描いた一万ピースもあるものだ。趣味に時間が割けなかったこともあり、作り始めてから一か月が経っている。
いつもなら、二、三日あれば完成させるので、長い時間を要した今回はすごく感慨深い気持ちだ。
ああ、長かった。そして、この一ピースで全てが終わる。ああ、嬉しいような寂しいような。
最後のピースを手に哀愁を漂わせていると、部屋のドアをノックする音が聞こえて、雰囲気が壊されてしまう。
ちぇ、人が感動に打ち震えていたのに。水を差さないでほしい。いったい誰だよ。
板チョコをテーブルの上に置いてから、仏頂面のままドアを開けると、楓夏ちゃんが美しい佇まいでそこに立っていた。
「ごめん、啓太。もしかして、なにかしてた?」
「いや、まあ、ジグソーパズルをしてただけだから、別にいいよ」
「そう、それならよかった」
ここで僕は先ほどまで心に居座っていた感情が消失していることに気づく。
あれ? いつもなら、趣味の邪魔をされたら、相手に不愉快な感情を抱くのに楓夏ちゃんだと大丈夫だ。親友の瞬でさえそうなのに。
「ところで、どうしたの?」
「これを返そうと思って。ずっと借りていたら啓太も困るでしょ?」
そう言って楓夏ちゃんは手に持っていた電子辞書を差し出してくる。
「あ、そっか。そういえば、貸してたね。すっかり忘れてたよ」
「……啓太、ちょっと、訊いていい?」
「え……、な、なに?」
明らかに周囲の温度が下がった。夏なので暑いはずが、すごく寒く感じられるほどに。
「宿題はどれくらい終わった?」
「えっと、その、八割、くらい、かな……?」
「へえ、すごいわね。電子辞書なしでそんなに終わるなんて」
楓夏ちゃんは半眼で僕を見つめる。
完全に疑われてる。僕がほとんど宿題を終わらせてないって。てか、もう確信してるよね?
「……あのさ、その、用が済んだなら、いいかな? ジグソーパズルの続きがしたいんだけど……。」
「……ごめん、啓太。ちょっと入るわね」
僕の返事を待たずに楓夏ちゃんは部屋へと入り、周囲を見渡した。
この部屋はドアを開けると、左に本棚があり、その左にクローゼットがある。また、部屋の左側奥の端にベッドがあり、逆の右側奥の端に机を置いている。そして部屋の中央にテーブルが鎮座し、その正面にテレビが構えている。
一通り部屋を観察すると、楓夏ちゃんは僕の横を通り過ぎて、机に直行していく。
「あ、そこは!」
僕は声を上げるが、それを無視して目的の場所へ進んでいく楓夏ちゃん。
到着した高校生探偵は机を物色し始める。そして、数秒後には証拠の品である数冊の問題集を発見して、それを僕に突きつけてくる。
絶体絶命とは今みたいな状況を指し示す言葉なんだな。
「ねえ、啓太、これはなにかしら?」
「えと、その、宿、題、です……」
「そうね、じゃあ、これには啓太の文字がびっしり書かれているはずよね?」
「……う、うん」
ああ、推理物で追い詰められた犯人はこんな気持ちなのか……。
「たったら、確認させてもらうわよ? もし、これで白紙だったりしたら、わかってるわよね?」
「……ごめんなさい。嘘、吐きました。その中身は白紙です」
楓夏ちゃんは笑っているけれど、心は決して笑っていない。それは誰が見ても明らかだ。そんな彼女を前にこれ以上の悪あがきは逆効果だと判断した。
「初めから素直にそう言ったらいいのに。じゃあ、準備して行くわよ」
「へ、行くって、どこに?」
「学校に決まってるじゃない。家にいたら啓太は宿題をしないんだから。私も準備をするから一時間後に出発よ」
「ちょっと、楓夏ちゃん! てか、どうして準備に一時間も必要なの!」
そんな僕の言葉を無視して、楓夏ちゃんは自分の部屋に入る。そして、僕一人で自分の部屋の前に立ち尽くす形となった。
あーあ、今日は久しぶりに趣味に時間を使うつもりだったのに……。でもまあ、自業自得だから仕方ないか……。
僕は肩を落として、学校へ行く準備に取り掛かるのだった。
学校に到着した僕らは特別棟の三階にある図書室にやってきた。
ここで宿題をすることにした理由は、生徒が使用出来る場所の中で、夏休みに唯一エアコンが動いているのだ。
僕たちは中に入ってすぐにある受付にいる人にあいさつをした後、部屋の中央で本棚により廊下側と窓側に分断され、それぞれ三つずつ平行に設置されている長机の中の窓側中央のそれに勉強道具を置いた。
生徒は僕と楓夏ちゃん以外にもまばらに座っている。しかしそれはどれも三年生だった。 まあ、夏休みに勉強のために学校へ足を運ぶのは受験生くらいなもんか。
「ほら、宿題を始めるわよ」
「え、うん」
楓夏ちゃんに促されて椅子に座る。その時、不意に彼女の方をなんとなく見やるとバスケットを長机の下に置いているのを発見する。
「そのバスケットはなに?」
「え、これは……。別になんでもないわ……。ほら、それより宿題でしょ」
「あ、うん。そうだね……。」
すごく気にはなるのだが、これ以上詮索しても教えてくれそうにないし、しつこく尋ねて嫌われるのも困るので、この話は追求しないことにした。
よし! じゃあ、宿題をやるぞ!
意気込んで問題集に取り掛かったところまでは良かったのだが……。
「うーん、……全くわからない」
一問目にしてお手上げ状態だった。
「ちょっと、まだ一問も解けてないじゃない。これは、こうするのよ」
「え、ちょっ、楓夏ちゃん!」
彼女はあろうことかシャープペンシルを持っている僕の手の上に自分の手を置いて、僕の手を動かして文字を書き始めるではないか。
楓夏ちゃんの手の温もりを直に感じられた。そして楓夏ちゃんの綺麗な顔が真横へとやってきて、同時に弾力のある楓夏ちゃんの胸が僕の背中に押し当てられる
わかりきっていると思うが、そんなことをされて平常心を保てるわけがないに決まっている。
「だから、これをここに代入すればいいの。わかる?」
「え、は、はひ」
心臓が破裂しそうなほど波打っている上に噛んでしまうくらいに動揺をしている僕に対して、僕専属の教師である楓夏ちゃんは平然として教鞭を執る。
「ねえ、本当に理解出来たの?」
心が掻き乱されたことにより、真剣に話を聞くことが出来ていない僕に専属教師は訝しそうに顔をもっと近づけてくる。それと同時にミントの香りが漂ってきた。
「えっと、も、もちろん」
「本当にそう?」
ちょ、か、顔が近い……。
透き通るような肌にぷにぷにと弾力のありそうな唇の美少女の顔が眼前にあって普通でいられるほど、僕は人間が出来ていない。
僕の血液を送るポンプは息切れするくらい走った時以上に体中に血を供給している。
「じゃあ、次の問題を自分で解いてみて」
「わ、わかった」
首肯するものの、楓夏先生の話が頭に入っていない僕に解けるまずもなく、
「もー、やっぱり聞いてなかったんじゃない」
と怒られてしまうのだが、その可愛らしい表情も僕の心から平常心を奪っていくのだった。
そんなやり取りをする僕たちに対して、図書室で受験勉強をなさっている男子の先輩方からは、『俺たちが必死に頑張っている時になにをイチャイチャしてんだよ、このリア充が!』と言っているようにしか思えない、明らかな怨嗟の視線が僕に突き刺さる。
す、すみません、先輩方。でも、決して僕は望んで今の状態にいるんじゃないんですよ。そこは理解して下さい。……まあ、嬉しくないと言えば嘘になるけど。
そんな緊張感たっぷりの状況での宿題に一段落がついて、僕と楓夏ちゃんは食堂へやってきた。
そこは長テーブルがいくつも並べられていて、一番奥に厨房がある。
この食堂で食事をしたい場合、部屋の隅に設置されている券売機で食券を購入して、それを厨房にいる食堂のおばちゃんに渡せばいい。
「ここでいいんじゃない」
「そうだね」
そう言って僕たちは空いているテーブルの端に座る。
周囲に目を向けると、夏休ということもあって人は少ない。授業のある昼休みの食堂なら券売機の前に長蛇の列が出来ており、テーブルも満席状態だ。
「でもまさか、準備に一時間も必要だった理由がサンドイッチを作るためだったなんてね」
僕と楓夏ちゃんの間にあるテーブルの上に鎮座するバスケットに視線を向けて言うと、
「まあ、啓太のためとは言っても、私が無理矢理に宿題をさせるのだから、せめて昼食くらいは用意しないと思って……」
と少しはにかんだ様子で返されてしまい、こちらまで照れくさくて頬をかいてしまう。
「あ、ありがとう。その、僕のためにここまでしてくれてさ」
「別にいいのよ。居候している身としては、少しでも役に立ちたいから。それに小さい時も啓太の世話は私の役目だったしね」
「そういえばそうだったね。いつも楓夏ちゃんに頼りっきりだった。全く進歩ないや」
そんな苦笑する僕に楓夏ちゃんは一瞬だけ悲しげな表情を向ける。気のせいかもしれない。そう思えるくらいの短い時間だった。
今は先ほどの表情が夢か幻とさえ感じられるくらいの笑顔で、
「本当にそうよ。もっとしっかりしないと」
と僕を窘めるように言う。
「……そうだね」
しかし、僕には先ほど垣間見た一瞬の表情がなぜか頭から離れなかった。
「深く考えてどうしたの?」
「え? ああ、ごめん。宿題のことを考えてたんだ」
笑って誤魔化しながら、このことについて一旦は忘れようと思うのだった。
「そうだったんだ。少し思い詰めたような表情だったから心配したわ」
「ごめんね。余計な心配させて」
そんな表情だったんだ。確かに不安に駆られたけれど。でも、心配されるくらいだったなんて。ちょっと気をつけないとな。
「さあ、気を取り直して食べるわよ!」
「うん!」
バスケットの中身のサンドイッチは見た目だけでもそこらのレストランで売っているものに比べて美味しそうだった。
「それじゃあ、遠慮なくどうぞ」
「じゃあ、いただきます」
サンドイッチを口に含んだ瞬間、ふんわりとした卵の甘味が口の中を侵食していく。そして同時に、それと対立するかのように特製のからしマヨネーズの辛味が勢力を拡大する。その二つが衝突する時、甘味と辛味の奇跡コラボレーションとなる
自分では顔を見ることは不可能だが、僕はきっと幸せそうな顔をしているはずだ。
「どう? 美味しい?」
僕の表情を見て、その答えについては察しているのだろう。その尋ねる顔にあるのは不安ではなく、一つの言葉を聞きたいという期待だった。
もちろん、こちらの答えも一つだ。
「うん、すごく美味しいよ」
「よかった。サンドイッチは初めてだったから、ちょっと自信がなかったのよ」
よく言うよ。質問してきた時、あんなにうきうきした表情だったのに。
心で苦笑しながらそう呟いた。
談笑をしながらの食事は進み、最後のサンドイッチを取ろうとした時だった。
僕と楓夏ちゃんの手が触れ合ってしまった。
「あっ」
「えっ」
お互いすぐに手を引いて目線を逸らしたが、僕たちは触れ合った方の手を庇うようにもう片方の手で覆っている。
自身の顔が火照っていくのがわかる。もしかしたら、湯気を発生させているかもしれない。そう思えてしまうほどに体中が熱いのだ。
外した照準を再び楓夏ちゃんにゆっくりと戻すと、頬をピンク色に可愛く染め上げた彼女と目が合ってしまう。またもや、すぐに互いに目を逸らす。
加えて、周囲からの好奇と妬みという二種類の視線がより一層、気まずさを助長させる。
うう、すごく気まずい。誰でもいいからこの状況をどうにかして!
「あれれ、もしかして、霧島さん?」
その時だった。実際には数分なのに、永遠のように感じられたこの状況を濁声が壊してくれた。
救世主の声がした方に顔を向けると、そこには『金を積まれても絶対に彼氏にしたくない相手ランキング』で女性票全てを獲得した太った青年が立っていた。ちなみに、『金を積んでも絶対に彼氏にしたい相手ランキング』では瞬が女性票全て獲得している。
「やあ、大山くん」
「いやー、嬉しいな。こんなところで霧島さんに会えるなんて。まさに運命だね」
僕のあいさつが聞こえていないのか、完全に無視をして、楓夏ちゃんに迫る。
暴漢に襲われそうな美少女は引きつった顔で返す。
「う、運命とは思わないけど、ぐ、偶然ね」
「偶然とは神の悪戯、それはすなわち運命!」
「ちょっと、大山くん!」
演説家のように語る彼に苛立ちを覚えつつ、僕は声を大きくして再び彼に声をかける。
「ああ、沢村か。いたんだ?」
「いたんだ? じゃないよ。あいさつしてるのに無視してさ」
「別に無視していたわけじゃないぜ。ただ、お前の隣に光り輝く女神がいたから見えなかっただけだ」
僕は溜め息を吐くしかなかった。
「ところで大山くんはどうして学校にいるの?」
「そりゃあ決まってるじゃないか。試合の応援だよ」
「試合の応援?」
ずっと顔を引きつらせていた彼の女神様が訊くと、変態は右手を突き上げた。
「おうよ! 男、大山は練習試合の応援のためにやってきたのだ!」
「へえ、す――」
「楓夏ちゃん、それは誤解だよ」
大山くんに感心してすごいと言いそうだった彼女の言葉に被さるようにして否定する。
変態の思考を理解している僕は彼が単純に応援のためにこんな暑い中に学校へ来ることがないことは百も承知だった。
そんな変態に楓夏ちゃんから賞賛の言葉を贈られると思ったら、無性に腹が立ってしまい彼女の言葉を掻き消すようにして発言したのだ。
「じゃあ、訊くけどさ。練習試合をしてる部活はどこ?」
「え、えーと、それは、だな」
「やっぱりね。大山くんの目的は練習試合なんかじゃない。本当の目的はチアリーディング部でしょ?」
「う、それはだな……。あー、そうだよ! 俺の目当てはチアリーディング部だよ! 踊っている時に揺れる胸を見てなにが悪い! 滴る汗に興奮してなにが悪い!」
女神こと楓夏ちゃんは完全に吹っ切った変態に容赦ない侮蔑の眼差しを向けている。
まあ、それが普通の反応だよね。
「はあ、とにかく落ち着いたら。大山くんが変態なのは知ってるからさ」
「俺は変態じゃない! 俺は変態紳士だ!」
「はいはい、そうだね」
それって、結局は変態だよね?
「ん? それなんだ?」
変態紳士に対して適当に相槌を打っていると、彼は不思議そうな目で僕と楓夏ちゃんの間、厳密に言えばテーブルの上にある最後の一切れであるサンドイッチを凝視する。
「サンドイッチよ。それは私が作ったの」
「な、な、な、なんだって! 霧島さんの手作り! その一切れは残ってるんだよな? だったら、俺にくれよ! いいよな?」
「え、別に、い――」
「いいわけないよ!」
またもや、いいよと口にしようとした楓夏ちゃんの台詞に被さるようにして僕は大声を張り上げた。
「沢村?」
「け、啓太?」
楓夏ちゃんと大山くんが目を丸くして僕を見つめている。厳密に表現するなら二人だけではなく、周囲の人たちも同じだった。
そんな驚いた顔をされても困る。僕自身、わけがわからないのだ。
いや、正確にはなぜ『他の人に楓夏ちゃんのサンドイッチを食べさせたくない』と思ったのかがわからないのだ。
「あーごめん。その、まだ物足りなくてさ。だから、それは僕が食べたいんだ」
とりあえず笑ってそれらしい理由を述べて、この場はやり過ごすことにした。
「あ、そ、そうか。そりゃあ、悪かったな。あ、俺はもう行くよ。じゃあね霧島さん」
「え、う、うん。じゃあね、大山くん」
楓夏ちゃんと大山くんもこのことを深く追求しない方が賢明だと判断したらしく、ぎこちない様子だが僕に合わせてくれようとしている。
大山くんが食堂を出て行くと、それに続いてその場に居づらくなったらしい他の人たちも食堂を後にする。食堂のおばちゃんたちも買い出しに行くとか言って全員が出て行った。
ちょっと待て、なんで食堂のおばちゃんまで行くんだよ! どれだけ、この場に居たくないんだ!
結果、二人だけになってしまい、その場は静寂が支配する。
五分くらい経過した後、先に沈黙を破ったのは楓夏ちゃんだった。
「あ、あのさ。どうして大山くんにサンドイッチをあげなかったの? 本当に啓太が食べたかっただけ?」
「…………違う。……自分でもよくわからないのだけど、なぜか楓夏ちゃんのサンドイッチを他人に食べさせてくなかったんだ」
「そう、なんだ……」
彼女を見やると頬を赤く染め、少し嬉しそうに微笑んでいた。
それに対して首を傾げていると、
「……嬉しいな」
と小声で楓夏ちゃんが言ったが僕には聞き取れなかった。
「なんて言ったの?」
「別に、なにも言ってないわ」
「えー、言ったよ! 僕も正直に自分のことを喋ったんだから、楓夏ちゃんも教えてよ!」
「本当になにも言ってないのよ。それよりほら、午後からも宿題よ!」
僕はいくら訊いても教えてくれない楓夏ちゃんに再び図書室へ連行されるのだった。
食後も十分なくらい宿題を終わらせた。それにより、今朝に僕が言った八割くらい終わったという言葉が現実になったほどだ。
今は学校を出て、家に帰るために夕日によってオレンジ色に染まっている大通りを二人で歩いている。
「日中よりはマシだけど、夕方になっても暑いよ」
「ええ、そうね。図書室は冷房が効いているから余計にそう感じるわ」
そんな他愛もない会話をしながら家を目指す。
歩いていると急に楓夏ちゃんが立ち止まった。それに呼応して僕の足も止まる。
「え? どうしたの?」
「……これが一瞬、目に入ったらすごく気になったの」
「ん、どれ?」
僕は楓夏ちゃんが見つめているものを確認する。
それは小さなアクセサリーショップの店先に陳列された棚の上に置いてある四つ葉のクローバーを模したシルバーアクセサリーの首飾りだった。四枚の葉のうち、一枚だけ銀色ではなく赤色に塗られている。
それを真剣に見つめる楓夏ちゃんの横顔をちらりと見る。その表情はすごくほしいと言っているとしか思えないものだった。
僕は楓夏ちゃんに気づかれないように自分が手を出せる金額であることを確認してから、それを持って店の中に入る。
「え? 啓太?」
後ろから戸惑ったような声が聞こえたが、それを気にせずに首飾りを店員に渡し、会計を済ませる。
楓夏ちゃんのところへ戻ってくると彼女は困惑した様子で僕を見つめてくる。
ちょっと、どきりとするじゃないか。
そんな気持ちを押し隠すようにして、努めて明るい声で買ったばかりの四つ葉のクローバーの首飾りを楓菜ちゃんに差し出す。
「はい、これがほしかったんでしょ?」
「え、で、でも、そんな、もらえないわよ」
「素直に受け取ればいいの! まあ、どうしても理由が必要だっていうなら今日のお礼ってことで」
「……本当にいいの?」
「いいに決まってるよ。そうでなかったら買わないよ」
「じゃ、じゃあ、遠慮なくもらうことにする。ありがとう、啓太」
花が咲いたような可愛らしい笑顔でお礼を言われて僕はどぎまぎしてしまう。
「う、うん、ど、どういたしまして……」
「……ねえ、啓太、私につけてほしいな」
「……え?」
「女の子に首飾りのプレゼントをしたら、その場で男の子がつけてくれるのが定番じゃない?」
そんなことを言って、楓夏ちゃんは促すように首を上げる。
少し逡巡した後、僕も覚悟を決める。
僕だって男だ! やる時はやると見せてやる!
「……わ、わかったよ」
首飾りをつけるため、楓夏ちゃんの綺麗な肌をしている首に手を回す。その際に彼女の輝く黒髪に手が触れる。
男子としては背が低い僕と女子としては背の高い楓夏ちゃんの身長は同じくらいなので、正面で顔を近づけると目の前に目、鼻の前に鼻、唇の前に唇といった具合に互いに同じ部位が向い合わせになる。
そのため楓夏ちゃんから発せられる吐息と僕にかかり、彼女に僕の吐息がかかる。
この状態で緊張しないわけもなく、心臓が太鼓を叩くようになっている。
僕の口、臭くないよね? 僕が緊張しているのが伝わってるのかな?
そんなことを考えながら、慎重に彼女に首飾りをつけていると、彼女の顔が真っ赤になっていることを知る。
これが夕日のせいじゃないことは、いくら鈍感でもわかる。
楓夏ちゃんも恥ずかしいんだ。ちょっと、嬉しいな。僕を異性として見てくれてるわけだから。
首飾りをつけ終わると、彼女は僕から離れる。
羞恥から解放されて嬉しいような楓夏ちゃんに触れられなくなるのが悲しいような複雑な気分だな。
「じゃあ、帰ろうか」
そう楓夏ちゃんに言って歩き出そうとした時だった。
なんと、今度は楓夏ちゃんが四つ葉のクローバーの首飾りを持って店に入るではないか。
「え? 楓夏ちゃん?」
次は僕が困惑する番だ。
僕と同じくすぐに会計を済ませた彼女が先ほどの僕と同様に首飾りを突き出す。
「はい、これのお礼よ。今度は私がつけてあげる」
自分の胸にある首飾りを指してそう言った後、今度は楓夏ちゃんが僕の首に手を回す。
そうなると、やっと落ち着いた心臓が再び早鐘を鳴らす。
「べ、別に僕はいいのに。それに同じものを買うなんて……」
「なにを言っているのよ。よく見て、同じじゃないわよ」
「え? どういうこと?」
首飾りをつけ終えた楓夏ちゃんに自分がもらったそれが彼女のものと違うと言われ、首を傾げて確認する。そして言われている意味を理解した。
よく見ると、僕の首飾りの方は四枚の葉のうち一枚だけが青でそれ以外が銀だった。つまり、楓夏ちゃんのものとは色違いというわけだ。
「どうせ買うのなら、両方を買った方がいいじゃない?」
「まあ、そうだね。ありがとう」
「どういたしまして」
そして僕たちは幸せを胸に満面の笑みで家に帰るのだった。
「よし、行こうか!」
旅行鞄を手に自分の部屋を出る。
そう、今日は大山くんのおじさんの民宿に行く日だ。
階段を下りていると玄関の前で旅行鞄を手に持って佇んでいる一人の美少女を発見する。
可愛らしい花柄のワンピース姿で流れる黒い髪に麦わら帽子をかぶっているその様はどこかの清楚なお嬢様を彷彿とさせる。
き、綺麗だ……。
彼女に見惚れてしまっていた僕は階段を踏み外してしまった。
「うわ、うわあああ」
そして地震が起きたのではと思えるくらいの轟音を響かせて階段から転げ落ちてしまう。
「ちょっと、大丈夫!」
「痛たたた……」
その大きな音に気づいた美少女こと楓夏ちゃんが目をぱちくりとさせて僕のもとへと近寄ってくる
「う、うん。なんとかね」
「いくら旅行ではしゃいでいるからって、ちゃんと前を見て歩かないと駄目よ」
「はは、そうだね……」
まさか、楓夏ちゃんの姿に魅了されて足を踏み外して転落したなんて言えないよ……。
そのように心の中で自嘲している時だった。家のインターホンが鳴ったのは。
「よう! 啓太、一緒に行こうぜ!」
その声と共に勝手に一人のイケメンが僕の家に入ってくる。
「瞬! いつも言ってるよね、勝手に入らないでって」
「えー、別にいいじゃん。俺の啓太の仲なわけだし」
「そういう問題じゃない。てかまた、誤解を招くような言い方をする……」
「ねえ、そろそろ行かないと遅れるわよ」
男二人のやり取りを呆れた表情で見つめていた楓夏ちゃんが溜め息交じりに口にする。
「あ、本当だ! 急がないと!」
そして僕たちは足早に集合場所であるバス停に行くのだった。
僕と楓夏ちゃんと瞬がバス停に到着した時には他の三人はすでに来ていた。
バス停で待っているのは男子が一人、女子が二人だった。
今回の宿泊は男子三人、女子三人で行くことになっている。
「おい、ちょっと遅いぞ」
バス停で待っていた唯一の男子である大山くんは僕たちがやってきて、いの一番で詰め寄ってきた。
「ごめんなさい。大山くん」
「いや、霧島さんはいいんだ。女の子は準備が大変だもんね。俺が言っているのは沢村と桐生のことさ」
女の子には甘い大山くんが謝罪をする楓夏ちゃんに鼻の下を伸ばし始める。
本当に男子と女子に対する態度が違うよね。
心中で呆れていると、バス停で大山くんと一緒に待っていた二人の女の子が僕と瞬にそれぞれ話しかけてくる。
「お、おはよう。桐生。きょ、今日も暑いな」
瞬に話しかけている女の子は飯島夏妃である。ショートヘアーに焼けた肌といったボーイシュな雰囲気を纏っているのが特徴で、中身も見た目と同じでスポーツ万能な美少女である。着ている服もボーダーのノースリーブシャツにデニムのショートパンツという活発な彼女に似合ったものだ。
「お……おはよう。さ、沢村くん……」
すごく小さな声で僕にあいさつしてくれた方が琴山詩織という名前で、先ほどの飯島さんとは異なり、おどおどとしていて、気が弱いのが特徴だ。セミロングの髪に性格とは反比例して主張の激しい胸を持ったこちらもタイプは異なるが美少女である。ちなみに、服装はブラウスにコットンリネンマキシスカートを着用している。
「ああ、おはよう」
「おはよう、琴山さん」
瞬と僕ががそれぞれにあいさつを返したところ、飯島さんと琴山さんの二人は少し離れて二人でひそひそと話し始める。
「おい、詩織。あたし、やったぜ。桐生にあいさつしたぜ。しかも、ちゃんと返してくれた」
「お、おめでとう、夏妃ちゃん。わ、私も沢村くんにあいさつ出来たよ。名前まで読んでくれたんだよ」
「おお、やったじゃねーか」
こちらまで話の内容は聞こえてはこないが、嬉しそうにしているので、なにかいいことがあったのだろう。
「よーし、じゃあ全員が揃ったし、出発だ!」
「なにを言ってんだよ。バスが来るまでここで待つんだから出発もなにもねーだろ」
「こういうのはノリが大事なんだよ。なにもわかってねーな」
「お前の思考なんて死んでもわかりたくねーよ」
「なんだと! この男色変態野郎!」
「やるってのか! このストーカー変態野郎!」
瞬と大山くんがいきなり言い争いを始める。
「ちょっと、二人とも落ち着いてよ。仲良くしなよ」
「そうよ、啓太の言う通りよ。仲良くしないと」
「啓太が言うならわかったよ」
「霧島さんが言うなら」
僕と楓夏ちゃんの鶴の一声で喧嘩を一瞬でしなくなる二人。
いつも思うけど、種類は違えど変態同士なんだから仲良くすればいいのに。
そんなことを心中で溜め息交じりに呟いていると、乗る予定のバスが到着する。
それに乗り込んだ僕たちは一路、海の近くにある大山くんのおじさんの民宿を目指した。
燦々と照りつける太陽、煌びやかに光る海、熱くなっている砂浜、それらが海に来たという事実を実感させてくれる。
民宿に到着した僕たちは荷物を部屋に置いて、すぐに海で泳ぐことにした。
周囲に目をやれば、家族連れや恋人同士など様々な人が思い思いに海を楽しんでいる。
隣に立つ人物もまた間違った方向で海を満喫していた。
「やっぱ、その水着は最高だぜ啓太! そんな水着姿の啓太を拝めるなんて俺は幸せだ!」
その隣にいる変態こと瞬が、僕の水着姿を見てからずっとこの調子で騒いでいる。
「そろそろ落ち着いてくれないかな?」
「あ、ああ。そうだな。それにしても啓太にしては派手な水着だな。すごく似合ってるけどよ」
テンションを下げた瞬が僕の穿いている南国をイメージした花柄の水着をまじまじと見つめる。
「これは僕が選んだんじゃないからね」
「そうなのか?」
「うん、楓夏ちゃんが選んだんだ」
これは以前、楓夏ちゃんの水着選びのために行ったショッピングモールで買ったのだ。
ただ、水着を物色している時は、ずっと楓夏ちゃんに腕を組まれていたので頭の中は真っ白だった。そのためどんな水着を買ったのかさえ理解出来なかったのだ。
今日初めて中身を確認して、普段の自分から鑑みると派手な水着だと知った。
「なあ、それにしても、俺たちに視線が集まってないか?」
きょろきょろと周囲を見ながら話しかけてきたので、僕は水着を購入していた時のことを思い出すという行為から戻ってくる。
てか、どうして注目されているか気づいてないんだ……。
イケメンである瞬が水着姿になって異性が興味を示さないはずがない。
「あー、早く女性陣が来ないかなー」
危険なオーラを出して女子更衣室の方をずっと見ている変態が気味の悪い息を吐きながら言うと、
「啓太と比べて、本当に醜い体だよな。痩せたらどうだよ? このデブが」
瞬が汚物を見る目で悪態を吐く。
「なんだと! 俺はデブじゃない! ぽっちゃりだ!」
「デブはみんなそう言うんだ」
そんな不毛なやり取りを傍観していると、
「ごめん、遅くなって」
透き通るような楓夏ちゃんの美声が背後から聞こえた。
振り向くとそこには三者三様の美しい女の子が水着姿で立っていた。
琴山さんは性格とは反対に主張の激しい胸が、窮屈そうに派手な赤色のワンピースタイプの水着を破りそうな勢いである。
やばい、興奮してきたかも。
隣の飯島さんはボーイッシュな雰囲気と相性が抜群であるスポーティービキニだった。
うん、すごく似合ってるな。彼女らしいと思うよ。
楓夏ちゃんの水着姿は一度見たことがあるので、そんなに驚くことはないと思っていたのだが、それは大きな間違いだった。
着用している水着は白いビキニに水色のパレオと僕の知っているものなのに、海という場所とコラボすることで、全く別のものに見えてしまったのだ。
それは人間界に舞い降りてきた天使と見紛うくらいの美しさを誇っている。
証拠に先ほどの瞬のように楓夏ちゃんを多くの異性が彼女に見惚れている。
「やべーぜ! 期待以上だ!」
鼻息を荒くして興奮する大山くんはまさに変態だ。
女性陣は引きつった表情で彼から離れる。
「おい! 大山、気持ち悪い目で見るなよ!」
「……大山くん、エッチ」
「大山くん、褒めてくれるのは嬉しいけれど、そんなにあからさまだと逆に女の子には引かれるから気をつけた方いいと思うな」
飯島さん、琴山さん、楓夏ちゃんからの辛辣な言葉を受けて、反省をするでもなく、落ち込むでもなく、喜んでしまう大山くん。
ここまでの変態だともう救いようもないな。
そんなことを思っていると、瞬が、
「こんなデブは放っておいて、早く海に入ろうぜ」
とこれまた辛辣な一言を発する。
しかし、その発言に誰一人として反対することなく、浜辺で悶絶している人物を放って海の方へと移動するのだった。
泳いだり、ビーチバレーをしたりして疲れた僕は浜辺に設置したパラソルの下で休憩をしていた。
ちなみに、いつもなら隣にいるはずの瞬は大山くんと女の子のナンパに行っている。言うまでなく、大山くんが瞬と一緒なら女の子たちから拒否されないと考えて誘ったのだ。
それに瞬が同行した理由は、知らない間に隠し撮りされていた授業中に居眠りをする僕の写真を大山くんが一緒に来るならやると言って買収したからだ。
「なあ沢村、ちょっといいか?」
「え、なに?」
休憩していた僕のところへ飯島さんと琴山さんが近づいてきた。
「霧島さんが飲みものを買いに行ったのだけれど、二十分は経ったのにまだ帰ってこないんだ。探すのを手伝ってくれないか?」
「いいよ。じゃあ、別れて探した方がいいよね」
「ああ、そうだな」
僕らは楓夏ちゃんがどこに買いに行ったかわからないので飲みものが売っているところを三手に別れて片端から探すことにした。
数分後、僕は楓夏ちゃんらしき人物を発見する。
だが、彼女は一人ではなく、大学生くらいの二人の男と一緒にいた。会話は僕の位置からでは離れていて聞き取れないが、絡まれているというのは判然としていた。
「あの二人、楓夏ちゃんになにしてるんだ」
僕の中では沸々と男二人に対する怒りが込み上げる。それは自分の大切なものを勝手に使われていた時のような感じだった。
だから楓夏ちゃんと男たちの間に入って、
「僕の彼女になにか用かな?」
ととんでもないことを口走ってしまう。
「え?」
楓夏ちゃんも驚きの声を上げる。
だが、呆気に取られたのは二人の男もそうだったらしく、口をあんぐりと開けている。
数秒の沈黙の後、男たちが大笑いする。
「あはははは、こいつなに言ってんだよ。お前みたいなガキがこんな可愛い子猫ちゃんの彼氏なんて有り得ねーよ」
「そうそう、姉弟ってんならわかるけどよ」
どうやら身長が低くて童顔の僕と女の子としては身長が高く大人っぽい顔の楓夏ちゃんでは姉弟に見えるらしい。
腹が立つような悲しいような複雑な気持ちになる。
そこに意外な人物が助け舟を出してくれた。
「そうよ、啓太は私の彼氏よ。理解したらもうどっかに行ってくれない?」
楓夏ちゃんが気丈な態度で男たちにそう言った。
「え、本当の彼氏?」
「なんだよ。彼氏がいたのかよ」
男二人は残念そうな顔になり、僕たちから離れて行く。
楓夏ちゃんと二人になった僕は、彼氏と言ってしまったことと男たちを自分の力で追い払えなかったことを恥ずかしく思って彼女の顔を見られず、そっぽを向いてしまう。
「啓太、ありがとう」
「え?」
ところが楓夏ちゃんがそんな僕に感謝の言葉を口にしたので思わず振り向いてしまう。
「二人の男に絡まれて気丈に振る舞ってはいたけれど、本当はすごく怖かった。だから、啓太が助けに来てくれたのがすごく嬉しかった」
「……でも、僕は笑われただけでなにも出来なかった」
「そんなことないわ。啓太が私のことを彼女だって言ってくれたからあの二人は諦めたんだし」
「それも楓夏ちゃんが僕のことを彼氏だって言ったからで……」
「でも、啓太が彼女だって言ってくれなかったら私はそんな風に追っ払う方法は思いつかなかったわ」
「でも……」
「もう! とにかく啓太のおかげなの! それで決まり! いいわね!」
「は、はい!」
落ち込んでいた僕は楓夏ちゃんの凄まじい迫力に、反射的に返事をしてしまう。
「ほら、じゃあ、行くわよ」
「う、うん」
そう言って楓夏ちゃんは僕の手を引いて歩き出す
僕はどきりとしたが、嬉しかったのでそのまま楓夏ちゃんにされるままに手を引かれた状態でパラソルまで戻った。
海から民宿に戻った僕らは食事を終え、お風呂に入ることにした。
「うわー、すごい!」
「ああ、確かにこれはすげーな」
「だろ? ここに連れてきてやった俺に感謝しろよ」
「別にお前が威張ることじゃねーけどな」
胸を張る大山くんに瞬のきつい一言。
大山くんのおじさんがこの浴場は民宿の自慢だと豪語するだけのことはあって、風流というか趣のあるものだった。
岩場に作られた温泉は数十人が入っても十分な広さを有している。
僕と瞬と大山くんの三人だけで使用するのは贅沢極まりない気もするけど。
「やっぱり、温泉はいいね」
「ああ、しかも啓太と入るとなおいいぜ」
「…………」
見た目も然ることながら、温泉自体も好評価である。
熱過ぎることもなく温過ぎることもない心地よい温度に加えて、疲れを癒してくれるような感覚が細やかな幸福を感じさせてくれる。
世界中の人が毎日、温泉に入ったら争いがなくなるのではないかとそんな下らないことを考えてしまう。
「おい、お前ら、なにをのんびりと入ってるんだよ」
幸せに浸っているところに大山くんの一言で現実に戻される。
「お前こそなにを言ってんだよ。温泉なんだからのんびり入るもんだろ?」
「わかってねーな。温泉の醍醐味はそんなんじゃねーよ」
あからさまな溜め息に瞬が苛立った表情になる。
「だったら、その醍醐味ってのはなんなんだよ?」
「そりゃあ、覗きに決まってんじゃねーか!」
「お前、バカだろ?」
今度は瞬が溜め息まじりに哀れみを含んで目で見る。
「はあ! 覗きは男のロマンだろ!」
「意味がわかんねーよ」
「おい! 沢村はわかるだろ!」
瞬に男のロマンとやらを理解してもらえない大山くんは僕に振ってくる。
まあ、僕も健全な男子だから大山くんの気持ちはわかるけどね。
「でも、リスクが高いと思うよ」
「そのリスクを負ってなお勝負を挑むからこそ男なんだよ! それにこの浴場では覗きはそんなに難しくない。なぜなら、あの板の向こう側が女湯だからだ」
そう言って、彼の指し示す方向に目をやると、男湯と女湯の境界として申し訳程度の薄い板があった。
「てかさ、この設計したのは誰だよ」
「そりゃあ、俺のおじさんに決まってんだろ」
瞬の疑問に大山くんがさらっと答える。
「お前の一族はそんな変態ばっかかよ」
「へ、なんとでもいいな。なあ沢村、行こうぜ」
今、僕の頭の中では天使の形をした理性と悪魔の形をした本能が戦っていた。ちなみに、悪魔が優勢である。
「そう言われても……」
「琴山さんの大きな胸、琴山さんより大きさは劣るが霧島さんの形のいい胸をこの目で拝みなくねーのかよ」
というか、僕は楓夏ちゃんの胸は目にしてるんだけどね。でも、再びそれを拝みたいかと尋ねられたら、はっきり言って見たい!
でも、以前は不可抗力だったから仕方ないと言い訳出来るが、今回はそうではない。
そう考えると良心の呵責に苛まれてしまう。
「うーん」
「目の前にある神の頂にお前は挑戦しないで諦めるのか!」
……神の頂。
その一言で僕に火がついた。
そして頭で戦っていた悪魔が天使を倒す。
そうだ! 今こそ前回に到達することが無理だった神の頂へと再び挑戦する時なんだ!
「うん! 大山くん、行こう! 神の頂へ!」
「ああ! 俺たちは行くんだ!」
最終的には決意を固めた男子二人と興味はないのだが僕がやるなら自分もやるという理由で参加を決めた瞬の三名で神の頂へと挑戦することになった。
忍び足で男湯と女湯の境界である板のところへ移動する。
「ここからはより一層に慎重にな」
「うん、わかってるよ」
「沢村、これを見ろ」
小声で言われた場所に目をやると、そこには覗きが可能であるくらいの小さな穴があった。
「こんな場所にこんないい大きさの穴があるなんて、ラッキーだね」
「どう考えても故意だと思うぜ。そんな綺麗な円をした穴が自然に出来るかよ」
そうだろうと確認をするような表情で瞬が大山くんの方を見る。
「ああ、その通りだ。設計者であるおじさんが作った」
「言っておくが、これは明らかな犯罪だからな」
「なにを言ってんだよ。俺たちがやろうとしてることがすでに犯罪だろ?」
「まあ、そうだが」
「そんな下らないことを話してる場合じゃねーよ。こんな話をしてる間に女子が風呂から上がったら意味がねー。じゃあ、誰から覗く?」
「俺は興味ねーからパスする」
瞬が覗かないということで、僕と大山くんの二人でジャンケンをして決めることにした。
そして、公平なジャンケンの結果、僕が先に覗くことになった。
女湯に近づいている時もそうだったが、心臓が高鳴っている。
ちょ、ちょっと、緊張してきたな。
「ほら、さっさとしろよ。俺だって見たいんだからよ」
「あ、ご、ごめん」
二の足を踏んでいると、大山くんに注意される。
僕はゆっくりと目を穴へと近づけた。
穴からは三人の女の子が温泉に入っている姿が見えた。
「驚いたか? この穴の位置も計算されてんだ。数多くの統計から女性客が入っていそうな場所を調べて、その位置がはっきり確認出来る箇所に穴を開けてるんだ」
大山くんの言う通り驚いていた僕に彼は説明をしてくれる。
「お前らの一族は一度、警察に捕まった方がいいぞ」
瞬の辛辣な言葉を無視して、大山くんは僕の隣で板に耳を近づけた。
「なにやってるの?」
「こうすれば、声は聞こえんだよ。交代するまでは声だけで楽しもうかと思ってよ」
大山くんと会話している間、穴から離していた目を再び穴へと接近させる。
琴山さんと飯島さんはこちらに顔を向けているが楓夏ちゃんは後ろ姿しか確認が出来なかった。
だが、湯に浸かっているその背面にある種の感動を覚えた。
なぜなら髪の長い彼女はそれをタオルで巻いており、普段は決して拝むことが不可能であるうなじを惜しげもなく披露しているのだ。
ああ、これだけでも覗きをした甲斐があるってものだ。
僕は自然と頬が緩んでにやけてしまう。
加えて女性陣は男性陣が聞き耳を立てているとも知らず、ガールズトークまで始めてしまった。
「いいよな。詩織と霧島さんは胸が大きくてよ」
自分の胸と二人のそれを交互に見やり飯島さんが溜め息を吐く。
確かに楓夏ちゃんや琴山さんに比べて小さい。
というより、あれは貧乳の部類だね。
「琴山さんの胸に比べたら私の胸なんて小さいわよ」
「え、な、その……。でも、私のは大きいだけで……。スタイルは霧島さんの方が……ずっといいと思う……」
うん、恥ずかしそうに頬を赤く染めた琴山さんの言う通り、大きさだけなら琴山さんがダントツだが、体と胸のバランスを考えると楓夏ちゃんの方が上だ。
まあ、好みは人それぞれなので大きい胸と体のアンバランスがいいという人もいれば、貧乳がいいという人もいるけどね。
「どっちにしろ、貧乳なあたしとは違って大きい胸を持ってんだからいいじゃねーかよ」
「……でも、夏妃ちゃんが好きな人は、気にしないと思うけどな」
「うお、し、詩織、な、なにを言ってんだよ!」
胸の小ささで意気消沈していたはずの飯島さんが顔を真っ赤に染めて動揺する。
「飯島さんって、好きな人がいたんだ」
「ば、い、いねーよ。いるのは、あ、あたしじゃなくて、詩織だよ!」
「え、な、夏妃ちゃん! い、いないよ!」
琴山さんが珍しく声を荒げる。
「しかも、あたしと違って小物狙いだしな」
「か、彼は小物じゃないよ!」
てか、二人揃って好きな人がいると自白してるよ。
「そ、そうだ。霧島さんは好きな人がいねーかよ」
「そうだよ、霧島さんはいないの?」
「え?」
急に自分の話が浮上した楓夏ちゃんは動揺を隠せずにいる。
しかし、その一言で心を乱したのは彼女だけではなかった。
楓夏ちゃんの好きな人……。すごく気になる……。
「おお、これはいいぞ」
隣で下卑た声を大山くんが発するがそれを気にする余裕もないくらいに僕の心臓は早鐘を鳴らしている。
しかもこれは先ほどまでの緊張とは違う。これまでの緊張は例えるなら壊れそうなつり橋を渡る時のような恐怖に対するものだったが、今のそれはくじ引きをしている時のような期待と不安の入り交じったものだ。
「え、その、私は……」
「どうなんだよ?」
「どうなの?」
二人に迫られている楓夏ちゃんは、表情は見えないが声音から察するにかなり窮地に立たされているようだ。
だが、気になるのは彼女たちだけではない。
僕と大山くんも板に体を極限まで近づけている。
「えと、私は――」
楓夏ちゃんが質問に答えようとした時だった。
耳を塞ぎたくなるくらいの大きな音を立ててなにかが倒れる音がした。
彼女たちはそちら一斉に振り向くとそこには一人の少年がうつ伏せになって倒れている。
その少年とは他ならない僕だけど。
説明するとこうである。
楓夏ちゃんの好きな人の話について、気になって仕方がなかった僕は板に自分の全体重を乗せていたことに気づかなかった。
その結果、重みに耐えられなかった板が壊れて僕は前方へと重力に従って倒れたのだ。
「痛たたたた……」
痛みに顔を顰めながら起き上がると、急に影が差す。
急に発生したそれに対して首を傾げて顔を上げると、タオルを体に巻いた楓夏ちゃんが仁王立ちをしていた。
場違いにも全裸でなかったことに少し残念な気持ちになる。
ちなみに、琴山さんと飯島さんは顔を赤く染めて恥ずかしそうにしている。
「ふ、楓夏ちゃん……」
「…………」
微動だにせず僕を見つめる彼女は笑顔であるが間違いなく怒っていることが全身からひしひしと伝わってくる。
冷や汗で支配される僕の体。
ど、どうにかして、い、言い訳をしないと……。
しかし、どんなに考えてもこの状況を打破する策は浮かんでこない。
「ねえ、なにをしているの?」
「え、その、これは……」
「はっきり言ったらどう? 覗きよね?」
ずっと笑って僕を見ているが、正直言って怒っている表情より怖い。
「は、はひ」
しかも恐怖のため、正しく声を発することすら出来なくなる。
「覗きをした啓太には罰が必要ね」
楓夏ちゃんがそう言った時、僕は疑問に思った。
「え? な、なんで僕だけ?」
「なんでって、覗きを考えそうな人が啓太しかいないからよ。男色の桐生くんがそんなこと考えないだろうしね」
飯島さんがどうしてか悲しそうな表情をしているが、僕はそれどころではなかった。
「大山くんだって覗きをしようとしたよ。提案をしたのだって大山くんだし」
「なにを言っているのよ。大山くんなんていないじゃない」
怪訝そうな楓夏ちゃんの表情に理解できず、後ろを振り向くとそこには瞬が立っているだけだった。
「……逃げたんだ」
「それじゃあ、啓太。覚悟はいい?」
「ちょっと待ってよ! 瞬もなにか言ってよ!」
親友に助けを求めるが彼は嬉しそうな表情で僕を見る。
「悪いな。罰を受ける啓太が見たい」
「この薄情者! 変態!」
罵声を浴びせても表情を変えない変態から恐々と楓夏ちゃんの方を向く。
「私たちは覗かれて辱めを受けたわ。ねえ、啓太。目には目を、歯には歯を。なら、辱めにはなんだと思う?」
「えと……。それは……」
「それは?」
笑顔を崩すことなく僕に顔を近づける。
引きつった表情の僕はこれ以上足掻いても無駄だと判断して、
「……は、辱め、です」
と自らを死刑へと誘う言葉をたどたどしく発した。
「正解!」
未だに表情を維持している楓夏ちゃんは僕に近づいてきて、下半身に巻いているタオルへと手を伸ばす。
「ちょ、楓夏ちゃん、それだけは勘弁して! いえ、勘弁して下さい!」
僕の必死の懇願も虚しく、数秒後には僕のタオルが宙を舞い、僕の悲鳴が浴場内に轟くのであった。
「もう、お婿に行けないよ……」
部屋に戻った僕は浴場での覗きに対する罰のことで一人泣いていた。
八畳一間のこの部屋には僕しかいない。瞬と大山くんは用事があるとかでどこかに行っている。
ちなみに、僕がしっかり女の子たちにアレを見られた後、瞬が説明をしてくれたので共犯者の大山くんも罰を受けたらしいが、どんなことをされたかまでは知らない。
ただ、不思議なことに罰を受けた後も、大山くんは嬉しそうだった。
それに比べて僕は自業自得とはいえ、男の沽券に関わるこの出来事で完全に意気消沈していた。
「はあ、覗きなんてするんじゃなかったな……」
後悔と共に溜め息を吐いた時だった。静まり返ったこの部屋のドアがノックされたのは。
「……どうぞ」
覇気が全く感じられない声でノックに返事をすると、
「は、入るわね」
僕よりはあるものの、相手も元気のない声を返してくる。
ゆっくりとドアを開けて中に入ってきたのは楓夏ちゃんだった。
その表情は僕に罰を与えた時とは比べものにならないくらい覇気がない。
「……ど、どうしたの?」
「……ちょっと、話があるんだけど」
そう言って、楓夏ちゃんは僕の横に腰掛けた。
隣に座るものの、彼女はなにも喋らず、黙ったまま僕と目を合わせようとしない。
そして僕も浴場でのことが気まずいため、こちらからも話しかけられない。
そんな沈黙が場を数分支配した後、楓夏ちゃんが先に口火を切る。
「さっきはごめんなさい!」
「え?」
急に頭を下げるので僕は口をあんぐりと開けてしまう。
「その、浴場でのこと……。覗きをしたからとはいえ、あれはやり過ぎよね……。反省しているわ」
「ふ、楓夏ちゃんが謝ることじゃないよ。覗きをした僕が悪いんだし……」
「で、でも……」
申し訳なさそうにしている彼女を見ていると責めることも、落ち込んでいることさえしてはいけない気がした。
だから僕は自分を鼓舞する。
「もう、この話は終わり!」
そう言って、僕は立ち上がろうとした。ところが、不思議にもブラックホールにでも吸い込まれるように体が楓夏ちゃんの方へと向かう。
「うわ!」
「きゃあ!」
このままでは楓夏ちゃんを下敷きにしてしまうと思った僕は両手を広げると同時に体を回転させた。
その結果、傍から見たら僕が楓夏ちゃんを押し倒したようにしか見えない状態になった。
楓夏ちゃんに吸い寄せられたのは彼女が僕の浴衣の裾を踏んでいたことが原因のようだった。
数センチ先には楓夏ちゃんの整った顔がある。
宝石と勘違いしてしまいそうな瞳、整った鼻筋、柔らかくて弾力のありそうな唇からは吐息が漏れている。
それだけでなく、ミントのいい香りが僕の鼻孔を幸福な気持ちへと誘う。
き、綺麗だ……。
朱色に染まったその顔を見つめていると、僕も顔が火照り始める。
「ちょっと、そんなに見ないでよ。恥ずかしいから」
「え、あ、ごめん」
注意された僕は目線を下にやる。
しかし、この判断が間違いだった。本来なら体を退けるだけで問題は解決したのにテンパっていた僕にはその考えがなかった。
顔から下に視線を変更させた僕の目に入ったのは楓夏ちゃんの浴衣がはだけたことによって垣間見える桃色のブラジャーだった。
より一層、顔が熱を帯びる。
だ、駄目だ! 見ちゃ駄目だ!
心でそう叫ぶが、それでも見てしまうのは男の性だ。
「ねえ、どこ見てるの?」
「ち、違うよ、ブラジャーなんて見てないよ!」
「ちょっと!」
「あ、しまった!」
動揺のため、正直に白状してしまう。
「もう、見ないよ!」
そう言って、更に視線を下にする。しかし不幸とは続くもので、またもや判断を誤ってしまう。
僕の目に映ったのはこれもまた浴衣からはだけた桃色のパンティだった。
桃色が創り出す三角形は神秘と言える。
やばい、鼻血が出そう……。
僕の目線の方向に気づいた楓夏ちゃんが声を張り上げる。
「け、啓太! わざと見ているでしょ!」
「だから、違うって! 不可抗力だよ!」
「不可抗力って言えば全部が許されると思わないでよね!」
僕も楓夏ちゃんも、もうこれ以上は真っ赤にならないと思えるくらい顔を赤く染める。
「あのさ、まだ服は脱がさねーの?」
「そんなことしないよ! え?」
「そんなことしないわよ! え?」
僕と楓夏ちゃん以外の声がドアの方から聞こえて、僕ら声を合わせて否定しながら、凄まじい速さでそちらを振り向く。
そこにいたのは残念そうな表情の瞬だった。
「えー、脱ぐところまでやらないのかよ。つまんねーの。また啓太の全裸が拝めると思ったのに」
「……てか、いたの?」
「ああ、結構前からな」
二人だと思っていた僕は闖入者に尋ねるとあっけらかんと答える。
「ち、ちなみに、どこから見てた?」
「安心しろよ。最初からだから、啓太と霧島がどうしてそんな状態になったのかも理解してるからよ」
「最初からって?」
「ああ、だから、霧島が部屋に入ってすぐだ」
僕らのやり取りを全て見られていたと知り、僕と楓夏ちゃんはこれ以上赤くならないと思っていた顔が限界突破を超えた。
「…………」
「…………」
僕と楓夏ちゃんが言葉を発せずにいると、
「まあ、俺も二人に用があったんだよ。大山が肝試しをするから、ロビーに来いってよ」
笑顔でそう言って部屋を後にする。
残された赤面二人組はしばらくの間、硬直して動くことが出来なかった。
僕と楓夏ちゃんがロビーに到着した時には、全員揃っていた。
「よし! それじゃあ肝試しの説明を始めるぜ。場所はこの民宿の裏山で行う。まず、ペアとコスプレの衣装を決める」
瞬と大山くんを除く全員が一度頷きかけて、
「ちょっと待てよ! 今、あたしの聞き間違いじゃなかったら、変な言葉が入ってたぞ!」
「……うん、夏妃ちゃんの聞き間違いじゃないと思う」
「確かに肝試しには合わないものがあったわ」
「大山くん、どういうこと?」
飯島さん、琴山さん、楓夏ちゃん、僕の順番で発言して、四人の視線が大山くんに注がれる。
「おお、女の子にこんなにも見つめられるなんて、幸せだ」
大山くんに向けていた女性陣の視線が一瞬にして冷たいものへと変貌する。
それさえも恍惚とした表情で受け止める変態に変わって瞬が説明を始める。
「この変態が言ったコスプレってのは、普通に肝試しをしてもつまらないだろうから少しでも楽しくしようということだ」
「でも、ちょっと、コスプレってのは……」
「……う、うん。ちょっと恥ずかしいよね」
「そうよね。私も気が進まないかな」
女性陣は三者三様に否定的な意見を述べる。
口には出さないが、男の僕はコスプレ肝試しについて大賛成である。
「ふふふふ、言うと思ったよ。なら、男性陣にもコスプレをするって言ったらどうだい?」
冷たい視線で不気味に喜んでいた変態が、これなら文句はないだろうと言っているとしか思えない表情を彼女たちに向ける。
「啓太のコスプレ……か。ちょっと興味あるかも」
「桐生のコスプレ……」
「……さ、沢村くんのコスプレ」
楓夏ちゃん、飯島さん、琴山さんがそれぞれ聞き取れない声でなにかを呟く。
そして数分後には女の子達もなにを思ったのかコスプレ肝試しに賛成したのだった。
「でもさ、コスプレの衣装はどうするの?」
僕が疑問に思ったことを尋ねると、不敵な笑みを浮かべた大山くんが、
「それなら大丈夫だ。俺のおじさんが数多くのコスプレ衣装を持ってる」
とまたもや身内の変態さを露呈させる。
瞬ではないが本当に一度は捕まった方が世のためかもしれない。
そんな僕の心中も知らずに大山くんは説明を始める。
「まずはどんなコスプレをするかをくじ引きで決める。その後、同様にペアをくじ引きで決める。ちなみに、ペアのくじ引きは男女別々ではなく男女混合でする。俺としては男女 別々にしたかったが、それだとこの変態が沢村と組めなくなるから肝試しに参加しないと言い出した」
恨めし気に変態と呼んだ瞬を横目に見る。
「それじゃあ、まずはこの箱からコスプレの衣装を決める。女子は赤い箱、男子は青い箱から一枚紙を引いてくれ」
そう言って赤と青の二つの箱を持った瞬が僕たちの前に来る。
全員がくじを引いた後は互いに中身を見せずに、男子と女子がそれぞれの部屋に着替えるために戻る。
やはり、男子より女子の方が着替えに時間が必要なようで、女の子たちを僕たちが待つという形になった。
「あー、やっぱ、いいぜ。その姿」
「それって嫌味にしか聞こえないんだけど……」
「そんなことねーよ。俺は本気で言ってんだよ」
それはそれで、ちょっと……。
くじ引きで甚平のコスプレをする羽目になった僕を、これ以上にないくらい着こなしているスーツ姿の瞬が先ほどの大山くんに匹敵する恍惚とした表情で見つめてくる。
「それにしても、あの変態デブは啓太と比べて見るに堪えないな」
瞬に嫌悪の表情を向けられている本人はジャージ姿で女の子を期待の表情で待ち望んでいた。その表情ははっきり言って気持ち悪い。
まあ、僕も期待をしているので大山くんのことは言えないけど。
心中で苦笑しながらそんなことを考えていると、女の子たちが階段を下りてくる。
正直に言って想像以上だった。
飯島さんは恥ずかしそうにもじもじとして、体操着に赤色のブルマ姿で登場した。
他の衣装では不可能なお尻に食い込むブルマという奇跡を起こしている。
しかも、ボーイッシュな彼女に体操着というのは一番のマッチングだ。
「うおー、ブルマは体操着の芸術品だ!」
危ない台詞を叫ぶ大山くんに、ちょっとだけ共感をしてしまう。
「あ、あ、あのさ。どうだ? 桐生?」
「あん? ああ、悪かねーよ」
「そ、そうか。お前のスーツも似合ってるぜ」
飯島さんが瞬に感想を尋ねていた。
瞬も女の子に興味はないが、相手を傷つけないように配慮はするので酷評をしたりはしない。
そのブルマの隣にいるのが真っ赤に顔を染めた紺色のレオタード姿の琴山さんだ。
これもまたこれ以上のコスプレはないと言っても過言ではないくらいだった。
彼女のメロンにも負けないくらいの豊胸をぴちぴちのレオタードがこれでもかというくらい強調するコスプレだった。
「うほー、俺はこのために生きてたんだ!」
「じゃあ、もう十分だろ。死ねよ」
興奮状態の大山くんの言葉をバッサリと切り捨てる瞬。
確かに、これは最高だ。てか、絶対に裏で仕組んでるよね。こんなにうまい具合に衣装が決まるはずない。まあ、目の保養になるから僕は嬉しいけど。
「……あの、さ、沢村くん」
「ん? どうしたの?」
「ど、どうかな?」
「うん、可愛いよ」
本心を告げると琴山さんは急に顔を伏せてしまう。
そんなに彼女に対して、首を傾げてしまう僕。
そして琴山さんの隣に立っている楓夏ちゃんは、白い襦袢に緋の袴に草履、そして黒く流れる髪を元結で結んでいる。
つまり、巫女さんのコスプレだ。
他の二人もそうだったが、楓夏ちゃんの美しい長髪に整った顔立ち、そして綺麗な肌と全てがこの巫女服と調和している。
どうしてか呼吸さえ忘れて、僕は巫女の楓夏ちゃんに見惚れてしまった。
「……ちょっと、啓太。そ、そんなにじろじろ見ないでよ」
「え、あ、ご、ごめん」
顔を恥ずかしそうに朱色に染める楓夏ちゃんに注意されて、僕は我を取り戻す。
「もう、最高だよ! これこそコスプレの力!」
ずっと沸き立っている大山くんを落ち着かせてから、僕たちは裏山へと向かった。
瞬と大山くんに連れられて到着したのは、雑木林の間を砂利で舗装した細い道の入り口だった。
「それじゃあ、この肝試しの説明をするぜ。この細い道を二人一組で進んで、一番奥にある開けた場所に設置されている四阿に置いてある玩具の宝石を持って帰ってくるんだ。そして、最初のペアが戻ったら、次のペアが行くという感じでやる。ちなみにこの道は一本道だから迷うことはないはずだ。質問はあるか?」
誰もなにも言わないので質問はないと判断した大山くんが続ける。
「じゃあ、ペアを決めるか」
結果、ペアは次の通りになった。
最初のペアが瞬と大山くん。
「あーあ、なんでお前となんだよ。啓太とペアになりたかったのに」
「それはこっちの台詞だよ! くそー、女の子とあんなことやこんなことをするために肝試しを企画したのに、これじゃあ意味がねーよ」
次のペアが琴山さんと飯島さん。
「……桐生くんとじゃなくて、残念だね」
「まあな、でもそれを言うなら、お前だって沢村とペアになれなかったんだから一緒だろ」
そして、最後のペアが僕と楓夏ちゃん。
「楓夏ちゃん、よろしくね」
「え、あ、うん」
歯切れの悪い楓夏ちゃん。
別のことを考えていたのかな?
「どうかしたの?」
「う、ううん、どうもしないわ……」
いつもと違う楓夏ちゃんに首を傾げるしかない僕だった。
瞬と大山くんのペアと琴山さんと飯島さんのペアがそれぞれ十五分くらいで入り口まで戻ってくる。
そして僕と楓夏ちゃんの順番になった。
細い道を入ると今までいた大きな道と比べて暗いことに気づく。
大きな道は月明りで照らされていたが、この道は雑木林によってそれが遮断されてしまっているようだ。加えてここは田舎なので、夜中になると涼しいのだが、肝試しをしている今はそれが恐怖を増長させている。
でもまあ肝試しには、これくらいの方がいいけどね。
「ねえ、楓夏ちゃん。肝試しもスリルがあって楽しいもんだね」
「…………」
隣を歩く楓夏ちゃんの方を振り向いて話しかけるが、彼女は言葉を発しない。
どうも楓夏ちゃんの様子がいつもと違うな。肝試しの順番を待っている時もずっと黙っていたし。
僕は楓夏ちゃんの体調が悪いのではないかと心配になり大丈夫か尋ねようとした、その時だった。
「楓夏ちゃんあのさ――」
言葉を最後まで言う前に静寂が支配していた雑木林の方で一瞬なにかが蠢くような奇妙な音が響く。
急のことで驚怖のあまり体が固まってしまう。
その動作とほとんど同時に楓夏ちゃんの悲鳴が聞こえ、僕の二の腕に柔らかいものが触れる。
驚きと恐怖と興奮の三重奏によって奏でられる心臓の鼓動をどうにか抑えて、僕は楓夏ちゃんを安心させるように言う。
「だ、大丈夫だよ。た、多分、動物が、う、動いただけじゃない、かな」
動揺しているせいでたどたどしくなってしまった言葉に対しての楓夏ちゃんからの返事はなく、ただ震えが伝わってくるだけだった。
困り果てた僕は少しでも楓夏ちゃんの気持ちを落ち着かせるためにそっと頭を撫でる。
「け、啓太?」
「大丈夫だから。僕が一緒にいるから」
「……ありがとう」
楓夏ちゃんの気が済むまで頭を撫で続けた。
「もう、大丈夫」
彼女はそう言うと、抱きしめていた僕の腕から離れる。
「そ、そう?」
そして僕もちょっと名残惜しい気持ちで楓夏ちゃんの頭から手を放した。その手からはミントの香りが漂う。鼻を近づけて嗅ぎたい衝動に駆られるが、変態と思われたくないのでそこはぐっと堪えた。
必死に欲求を抑え込んでいたそんな僕に楓夏ちゃんが上目遣いで訊いてくる。
「……驚いたでしょ?」
「ん、なにが?」
「その、だから……、私が、肝試しみたいなのが、苦手だって……」
「正直に言うとそうかな。楓夏ちゃんはこういうのは平気だと思ってたよ。でもまあ、少し安心したかな」
楓夏ちゃんは不思議そうに首を傾げる。
「安心って?」
「だって、楓夏ちゃんは苦手なものってないと思ってたからさ」
「私にだって苦手なものくらいあるわよ。もう、啓太って私をなんだと思っていたのよ」
「あはは、ごめん。ごめん」
僕が笑うと楓夏ちゃんは頬をふくらませるが、その表情も魅力的に見えてしまう。
「……ねえ、啓太」
「どうかした?」
「手、繋いでいい?」
「え? えっと、その……」
突然の楓夏ちゃんからの提案に嬉しいはずなのに戸惑ってしまう。
うう、自分が情けない。
「やっぱり駄目、かな……」
「いや、駄目、じゃないけど……」
そう返すと、楓夏ちゃんがそっと手を差し出してくる。
恥ずかしさと嬉しさが入り交じった僕はそれに応えるようにその柔らかい手を握った。
楓夏ちゃんの温もりが感じられる。
「じゃ、じゃあ、行こうか」
「う、うん」
僕は自分の顔が火照っていることを理解しながら、それでも楓夏ちゃんには悟られまいと必死に隠そうと試みる。
多分、隠せてないだろうな……。
そんなことを心の中で呟きながら歩くのだった。
細い道を抜けると、大山くんの言っていた通りの開けた場所に出る。そして中央には四阿が建てられていた。
僕と楓夏ちゃんは手を握り合ったまま四阿の中に入ると、中央に丸いテーブルとイスが二脚あった。
そして、目的の品である玩具の宝石はテーブルの上にぽつんと置いてある。
「あ、これだな」
僕はその玩具の宝石を空いている方の手で掴んだ。
「ねえ、啓太。ちょっと来てよ」
「うわわ!」
楓夏ちゃんが僕と繋がっていることを忘れて四阿の外に移動するものだから、僕は引っ張られる形になってしまう。
どうにか態勢を保って楓夏ちゃんの隣に立つと、彼女は感極まったという表情で空を見上げていた。
「啓太、星がすごく綺麗に見えるわよ」
楓夏ちゃんは視線を変えることなくそう言うので、僕も天を仰いだ。
そこには澄んだ夜空に煌々と輝く幾多の星たち、それは少しでも他の星よりも目立って自分を見てもらおうと懸命に光り輝いているように感じられる。
「本当に綺麗だね。僕たちの町ではこんなにも星は見られないよ」
「ええ、田舎ならではね」
あれ? そういえば、小さい頃にこんな風に二人で星を見たことがあった気がするな。
一人で記憶の糸を手繰り寄せていると、
「ねえ、覚えてる? 幼稚園くらいの頃に二人で流れ星を見るために、夜中にこっそり家を抜け出して家の近くの公園まで行ったのを」
微笑の楓夏ちゃんがこちらを振り向いて僕に尋ねる。
それを聞いた瞬間、僕も完全にその時のことを記憶の奥から呼び起こすことに成功する。
「うん、そうだよ! 僕も楓夏ちゃんと星を見た気がすると感じたんだ。今ので完璧に思い出したよ」
「確か幼稚園で流れ星が消える前に三回お願いを言えたら願いが叶う話を先生から聞いて私が見たいって言ったら、啓太がそれなら一緒に見ようって夜中に抜け出したのよね」
「うん、でも一晩中そこにいたけど、見られなかった上に抜け出したことで二人揃って親に怒られたんだ」
「そうそう、そうだった」
そこでふと僕はなんとなく気になったことを楓夏ちゃんに訊いた。
「そういえば、流れ星はあれから見れたの?」
「ううん、まだなの。一度でも見たいと思ってるんだけどね」
ほんの少し憂いが入り交じったような微笑みで応える楓夏ちゃんに僕はどうにかして楓夏ちゃんに流れ星を見せてやりたくなった。
少し思考すると、一つの方法を閃く。
「ねえ、楓夏ちゃん。流れ星を見せてあげようか?」
「え? どういうこと?」
楓夏ちゃんは怪訝そうな表情を僕に向ける。
「だから僕が流れ星を楓夏ちゃんのために出現させるってことだよ」
「な、なに言ってるのよ。そんなこと出来るわけないじゃない」
まあ、それが普通の反応だよね。人間にはどうしようもない流れ星という現象を引き起こすって言ってるんだから。
「じゃあ、約束してよ。もし流れ星を見せられたら、そうだな……、よし、楓夏ちゃんが僕のためにハンバーグを作ってよ」
「え? ハンバーグ?」
「うん、そう」
満面の笑みで言う僕を見つめている楓夏ちゃんは困惑した表情を可愛らしい笑顔に変化させる。
きっと僕が元気づけるために言ったと思っているのだろう。だから僕は本当に流れ星を見せた時の楓夏ちゃんの表情を想像してにやけてしまう。
「そうね、いいわよ。もし流れ星が流れたら作るわ」
「じゃあ、約束! ゆびきりをしよ!」
そう言って僕は小指を立てるが、楓夏ちゃんはこの年でゆびきりをするのが恥ずかしいのか少し頬を赤く染め躊躇っている。
「ねえ、こんなことしなくても約束は守るから、ゆびきりはちょっと……」
「駄目だよ。こういうことはしっかりしないと。それに二人しかいないんだから恥ずかしがることないよ」
僕としては『約束のゆびきり』を使用して流れ星を出現させようとしているので、強引だがゆびきりをしてもらわないと困るのだ。ちなみに、楓夏ちゃんにハンバーグを作ってもらうことを約束の中に組み込んだのには理由がある。それは『約束のゆびきり』の使用条件として、約束をする双方のうち最低でもどちらか一方が自主的に行動する事項が入っていなければ発動しないためだ。
「……わかったわ」
僕が絶対に引き下がらないと判断したのか、小さな声でそう言うと、握っていた手を離して彼女もガラス細工のような美しい小指を立てる。
顔を真っ赤に染めた美少女の接近により、放たれるミントの香りが僕の心を癒す。
その心地よさに浸りながら僕は楓夏ちゃんと小指を絡ませる。
「ゆーびきり、げーんまん、うそついたら、はりせんぼんのーます」
二人の重なる声が静かな夜に響いた。
「こ、これで、いいの?」
「うん、じゃあ、見せるよ。流れ星よ、来い!」
僕が声高らかに叫ぶと煌びやかに輝く星々の間を縫って、一つの星が流れる。
「え、う、嘘!」
楓夏ちゃんは狐につままれたような顔のまま手を口に添えて夜空を見上げていた。
ほくそ笑みながら、僕は異性を魅了してしまうだろうと思われる愛らしい驚きの表情を心のシャッターを切り永久保存する。
「どう? 本当に見られたでしょ?」
「し、信じられない……。こんな偶然あるものなの……?」
「僕から楓夏ちゃんへの奇跡という名のプレゼントだよ。……なんてね。僕も驚いてるよ。冗談で言ったのに本当に現実になるなんてさ」
「そ、そうよね。啓太が自分で起こしたみたいに言うから驚いたわ。でも、流れ星が見れて嬉しかったわ。ありがとう、啓太」
楓夏ちゃんは困惑した表情を心からの喜びの笑顔にする。
それは僕を優しく包み込むような感覚で満たし、自分の全てを委ねたいと本心からそう思ってしまうものだった。
同時に僕は自分の中にある一つの感情に気づく。
その感情が、僕の心の中で奥深くに眠っていたものが目を覚ましたのか、あるいは新たに創造されたものかは判然としないが、ただそれは僕の中にはっきりと存在するということだけは間違いなかった。
なぜ、趣味のジグソーパズルを楓夏ちゃんになら邪魔をされても平気だったのか。
なぜ、楓夏ちゃんが作ってくれたサンドイッチを他人に食べさせたくなかったのか。
なぜ、ナンパされている楓夏ちゃんを見て、怒りを感じたのか。
なぜ、温泉で楓夏ちゃんの好きな人が誰かということがすごく気になったのか。
それらの答えは全部同じだったのだ。
そう……、僕は楓夏ちゃんが好きなんだ!
自分の想いに気づいた僕は、心を熱くさせるそれを楓夏ちゃんに今すぐにでも伝えたいという気持ちで満たされる。
だが、すぐに首を横に振って、それは駄目だと自分に言い聞かせる。
だって、僕は楓夏ちゃんの大切な言葉を思い出せていないのだ。そんな僕に想いを伝える資格なんてあるわけがない。
本当に自分の愚かさに辟易してしまう。
「険しい表情をして、どうかしたの?」
「え、あ、いや、なんでもないよ」
「本当に?」
どうやら顔に出ていたらしく、楓夏ちゃんは訝しそうに顔を覗き込んでくる。
「うん、ほ、本当だよ。ただちょっと、楽しい時間も終わりかなと思ったら残念に思っただけだよ。そろそろ戻ろっか、瞬たちも待ってるしさ」
「……そうね」
まだ少し納得していない様子だったが、それ以上は追求されることはなかった。
来た道を戻っている時、楓夏ちゃんの綺麗な横顔を見やり、僕は楓夏ちゃんのためにも自分のためにも彼女が大切にしている言葉を絶対に思い出すという誓いを再び深く心に刻んだ。
『約束のゆびきり』の対価は多くの人に申し訳ない結果を招いてしまった。
次の日は近所の神社で行われる夏祭りに行く予定だったのだが、台風が異常な速度と進路変更を行い、僕らが泊まっている民宿のある町を直撃したことにより夏祭りが中止になったのだった。